2話 第四場 その二
読み方を変える
(部屋の中、もの凄き響と共に一度に暗くなり、それが追々剥がれて行くと桃色の光線のなかに、幻の如く阿難の姿が現われる。しきりに巻き付かれたる物を振りほどく様子であって、而もそれを振りほどき得ず、ますます牽き付けられるといった肢体の動作を繰り返す。ただし捲き付いて居るものは何やらはっきり見えない。)
阿難 ――(苦しげなる独白)これは何とした事だ。ここは何処だ。わたしはわたしの体が自由にならぬ。わたしの心は糸の切れた凧のように狂って飛ぶ。わたしの戒の守りは――定力は――どこへ行ったのか。わたしの智慧のひかりは一点もわたしに光って呉れぬ。わたしはもののけに取りつかれたのか……。(もがき疲れて悄然とする。)然しわたしも悪かったのだ。わたしは道場に坐って、いつものように思惟して居た。一禅、二禅、三禅の境地が、中空の月のようにしずしずと心の中に冴え渡って行った。だがそれから先へはどうしても進めない。心に仕切りがあるようにどうしても進めない。わたしは焦慮った。そこに隙が出来たのだ。その時ふと母のことが考えられた。心の隙へ出家にあるまじき肉親の愛を想う慾念がきざしたのだ。まだわたしが子供で居る時、わたしが悲しい顔をして居ると、母が手をとって訊ねて呉れたあのあたたか味を想った。(阿難少時緘黙、再び激昂の調子になり)その刹那、血塗った蓮華が何処よりともなくばらばらと飛んで来て、わたしの身心に纏い付き、そしてわたしは無闇にここへ運ばれて来た。ここは一体何処なのだ。そしてわたしは何うなるのだ。――
(娘、勿体なさ恥かしさに黙って居たが、漸く勇気を出して阿難の傍に近づいて行く。)
娘 ――阿難さま。おなつかしゅう御座います。
阿難 ――お前は誰だ。何者だ。
娘 ――池のほとりで水を差上げた者でございます。また餅施行の時に餅を頂いた者でございます。
阿難 ――おお、あの娘か――。わたしをここへ牽き寄せたのは、お前か――。して、用は何だ。
娘 ――わたくしを憐れと思って下さい、わたくしはあなた様を想うて死ぬる許りでございます。
阿難 ――それは俗情の言葉だ。わたしはあなたに用は無い。わたしを帰して下さい。
娘 ――阿難さま、女が男を慕うまごころ。これが俗情でございましょうか。
阿難 ――すべて、盛りと廃りのあるこころは俗情であるのだ。お前の今の心には、潮が満ちて居る。だから渚が判らない。潮が干る時、渚の塵埃が目につくであろう。
娘 ――何と仰しゃってもわたくしの心は動きません。二人は宿命の上に立って居るのでございます。(懐より餅を取り出す。)阿難さま。これはあなたがわたくしに下された餅でございます。あなたは二つ付いたこの餅を、何と御覧なさいます。
阿難 ――わたしは清らかな繭と見る、また峯を連ねた雪の山だ。
娘 ――いいえ、この餅は二人のえにしの現われなのでございます。
阿難 ――いいや繭だ、雪の山だ。
娘 ――いいえ、これこそえにしの現われです。
(老女、銅刀を持って二人の中に立つ。両の乳房に血が染まって居る。)
老女 ――若い者等の口争い、見て居て歯痒い。娘よ。しばらく退くが宜い。わたしは阿難に話すであろう。
(老女改めて阿難の方に向き直る。)
阿難どの、今わたしはあなたに三つの道を与える。そしてあなたは、そのうちでただ一つの道だけ選ぶことが出来る。
阿難 ――何という権柄ずくの言葉だ。
老女 ――わたしは「母性」の名に於てこの事を申し出る。あなたの母御と同じ資格である「母性」に坐して申し出る。あなたも母なるものの心を汲み取って、この答えをして欲しい。
阿難 ――では、云って下さい。
老女 ――その一つは、あなたが素直にわたしの娘と結婚して下さる事。これはどうじゃ。
阿難 ――わが身一つをさえ彼岸に運び兼ねて居る未熟の身の上です。足弱の道連れなど思いも及びませぬ。
老女 ――ではあなたを殺してわたし達二人も死ぬ。これはどうか。
阿難 ――死は恐れません。然し殺生戒は犯し度くない。たとえわたしが人から殺される事であっても、理由なく殺されることはわたし自身が殺生戒を犯したと同じ事になるのです。ましてわたしの俗情に関係して、あなた方二人の命まで断つ事は、わたしの立派な殺生になります。どうかやめて下さい。
老女 ――それならばあなたも殺さぬ、わたし達二人も生きて居る。しかし私達二人は生きながら悪鬼となって、人情を軽蔑したあなたを始め、釈迦仏教団の人々に向って生々世々怨みをなすが、これは如何だ?
阿難 ――仏の御苦労を一層増す事です。どうかやめて下さい。
煩悩の氷厚ければ、これを割る仏の慧日、光芒をいや増す。憎悪無尽ならば、これを解く仏の慈悲もまた無尽である。広い世界にただ一つや二つの悪鬼羅刹の姿を増そうとも、仏の御目にそれが何の障りをなすものぞ。それは微塵の身を以て蒼天を包み取らんとする働きに等しい。果敢なき限りである。さりながら我ゆえに、たとえ一塵の障りなりとも、仏の御苦労の種を増すは弟子の身として恐れ多い。どうか呪いの鬼となることは止めにして下さい。
老女 ――何をいう。それでは三つの道を三つとも逃れる事ではないか。卑怯者!
阿難 ――わたしはこの場合、わたしに適当な道がたった一つあるだけです。それは今あなたが仰った逃れることです。愛慾から逃れる。執縛から逃れる。煩悩の浪風荒き心のへりから、無垢な心の中心点へ近寄って行く。これを逃れるというなら逃れるで結構、卑怯者で結構です。どうかこのまま私を帰して下さい、実はその方が娘さんの為にもなることなのです。
老女 ――いや帰さぬ、わたしの思案は変った。――(老女、部屋の隅より漆黒の毛綱一束を持ち来る。)阿難どの。わたしはもう、そなたを生かしも殺しもせぬ。もちろん逃がしもしませぬ。(毛綱を振って見せ)そなたと娘を一体にくくし、永劫の青銅の像にしてのける。そして未来、世々生々、この恋の双生像を見るものには、一目で身を焼く程の恋の焔むらを起させる。阿難どの。そなたは飽まで木石の味方をされるゆえ、わたしは何処までも人情の味方をせずばなるまい。そなたと永劫離れぬ双生像に鋳られるなら、娘も嘸かし本望でござろう。