10話 其二 五
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二十分許り經つて、信吾兄妹は加藤醫院を出た。
一筋町を北へ、一町許り行くと、傾き合つた汚ならしい、家と家の間から、家路を左へ入る、路は此處から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い廣い麥畑を過ぎて、阪を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋といふ吊橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴色の光線を、青々とした麥畑の上に流して、眞正面に二人の顏を彩つた。
信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る/\挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯淑かに、口數は少なかつた。そして男の顏を眞正面には得見なかつた。
唯一度、信吾は對手を「奧樣」と呼んで見た。清子は其時俯いて茶を注いでゐたが、返事はしなかつた。また顏も上げなかつた。信吾は女の心を讀んだ。
清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。
加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、――否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を嬲る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ戀の驕慢は、も一度清子をして自分の前に泣かせて見たい樣な希望さへも心の底に孕んだ。
『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた女友が、今となつて何故那未練氣のある擧動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてゐるのだ、其爲に臆すのだ、と許り考へてゐた。
『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』
『さうね。』
其話はそれ限になつた。
『今日隨分長く學校に被居たわね。貴兄智惠子さんに逢つたでせう?』
『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。
『美人だね。』と信吾も笑つた。
『顏許りぢやないわ。』と靜子は眞面目な眼をして、『それや好い方よ心も。私姉樣の樣に思つてるわ。』と言つて、熱心に智惠子の性格の美しく清い事、其一例として、濱野(智惠子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて續けられてゐる事などを話した。
信吾は其話を、腹では眞面目に、表面はニヤ/\笑ひ乍ら聽いてゐた。
二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の樣な夏の日が岩手山の巓に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色に霞んだ。と、丈高い、頭髮をモヂャ/\さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反對の方から橋の上に現れた。靜子は、
『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄にく。
『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。
『迎ひに來た。家ぢや待つてるぞ。』
言ふ間もなく踵を返して、今來た路を自暴に大胯で歸つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍れむ樣な輕蔑した樣な笑ひを浮べた。靜子は心持眉を顰めて、『阿母さんも酷いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と獨語の樣に呟いた。