16話 其四 三
読み方を変える
『あゝ。』といふ力無い欠伸が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄れた聲で呼び、老女が目を覺まして、寢返りでも爲たいのであらう。
智惠子はハッとした樣に手を引いた。お利代は涙に濡れた顏を擧げて、『は、只今。』と答へたが、其顏に言ふ許りなき感謝の意を湛へて、『一寸』と智惠子に會釋して立つ。急がしく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
其後姿を見送つた目を其處に置いて行つた手紙の上を移して、智惠子は眤と呼吸を凝した。神から授つた義務を果した樣な滿足の情が胸に溢れた。そして、『私に出來るだけは是非して上げねばならぬ!』と自分に命ずる樣に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寢た。もう夜が明けたのかい、お利代?』と老女の聲が聞える。
『ホホヽヽ、今午後の三時頃ですよ祖母さん。お氣分は?』
『些とも平生と變らないよ。ナニか、先生はもうお出掛けか?』
『否、今日は土曜日ですから先刻にお歸りになりましたよ。そしてね祖母さん、あの、梅と新坊に單衣を買つて來て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『呀、然うかい。それぢやお前、何か御返禮に上げなくちや不可ないよ。』
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の樣な氣で……。』
『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく氣を附けてね、先生を大事にして上げなけれや不可ないよ。今度の先生の樣に良い人はお前、何處へ行つたつて有るものぢやないよ。』と子供にでも訓へる樣に言ふ。
智惠子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾るを覺えた。
『ア痛、ア痛、寢返りの時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智惠子は氣が附いた樣に、また針を動かし出した。
五分許り經つてお利代が再び入つて來た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『お氣分が宜い樣ね?』
『は。もう夜が明けたかなんて恍けて……。』と少し笑つて、『皆先生のお蔭で御座います。』
『まあ小母さんは!』と同情深い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を家の人の樣にはして下さらないのね?』
『ですけれど先生、今もあのお祖母さんが、先生の樣な人は何處に行つても無いと申しまして……。』
と、流石は世慣れた齡だけに厚く禮を述べる。
『辛いわ、私!』と智惠子は言つた。
『何も私なんかに然う被仰る事はなくてよ、小母さんの樣に立派な心掛を有つてる人は、神樣が助けて下さるわ。』
『眞箇に先生、生きた神樣つたら先生の樣な人かと思ひまして。』
『まあ!』と心から驚いた樣な聲を出して、智惠子は涼しい眼を瞠つた。『其事被仰るもんぢやないわ。』
『は。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお世辭とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻の手紙に行く。
『あら小母さん、お手紙御覽なさいよ。何處から?』
『は。』と目を上げて、『凾館からですの。……あの梅の父から。』と心持極り惡氣に言ふ。
『ま、然う?』と輕く言つたが、惡い事を訊いたと心で悔んだ。
『あの、先月……十日許り前にも來たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』
と言つてる時、門口に人の氣勢。
『日向さんは?』
『靜子さんですよ。』と《さゝや》いたお利代は急いで立つ。
『小母さん、これ。』と智惠子は先刻の紙幣を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。