21話 其四 八
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仄暗い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し唐突に問うた。其の時はもう肩も摩れ/\に並んでゐた。
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして閃と男の横顏を仰いだが、智惠子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遲れた。後ろからは清子と靜子が來る。其跫音も何うやら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萠してゐた。
立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。
『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』
『然うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけじや無い、眞面目な作で同じ運命に逢つたのが隨分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる樣なもんで……ハハヽヽ。「戀ざめ」なんか別に惡い所が無いぢやないですか?』
『私はまだ讀みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷めてニヤ/\と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實――否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
五六歩歩くと、智惠子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて觸る程輕く觸つた。寒いとも温かいともつかぬ、電光の樣な感じが智惠子の腦を掠めて、體が自ら剛くなつた。二三歩すると又觸つた。今度は少し強かつた。
智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑と足を留めて後ろを振返つた。清子と靜子は肩を並べて、二人とも俯向いて、十間も彼方から來る。
信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ/\と、杖の尖で下駄の鼻を叩いた。其顏には、自ら嘲る樣な、或は又、對手を蔑視つた樣な笑が浮んでゐた。
清子と靜子は、霎時は二人が立留つてゐるのも氣附かぬ如くであつた。清子は初めから物思はし氣に俯向いて、そして、物も言はず、出來るだけ足を遲くしようとする。
『濟まなかつたわね、清子さん、恁に遲くしちやつて。』と、も少し前に靜子が言つた。
『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も愼次さんも被來たんだから可いけど……。』
『靜子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、昵と靜子の手を握つた。
『恁うして居たいわ、私。……』
『え?』
『恁うして! 何處までも、何處までも恁うして歩いて……。』
靜子は譯もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顏を見合さなかつた。何處までも恁うして歩く! 此美しい夢の樣な言葉は華かな歌留多の後の、疲れて乎として、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の靜寂の中に蕩けさうになつた靜子の心をして、譯もなき咄嗟の同情を起さしめた。
『此女は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬く後に靜子の感情を制した。厭はしき怖れが、胸に湧いた。然しそれも清子に對する同情を全くは消さなかつた。女は悲しいものだ! と言ふ樣な悲哀が、靜子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。