29話 其六 二
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雨後の葉月空が心地よく晴れ渡つて、目を埋むる好摩が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。
小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを斷つて、教へられた儘の線路傳ひ、手には洋杖の外に何も持たぬ背廣扮裝の輕々しさ、畫家の吉野は今しも唯一人好摩停車場に辿り着いた。
男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらも、吉野の眼には新しかつた。その色彩の單純なだけに、心は何となき輕快を覺え、唆かす樣な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭腦を支配してゐる種々の形象と種々の色彩の混雜つた樣な、何がなしに氣を焦立たせる重い壓迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた樣で、彼は宛然、二十前後の青年の樣な足取で、ついと停車場の待合所に入つた。
眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた樣で、暫しは何物も見えず、ぐら/\と眩暈がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖に力を入れて身を支へた。手巾を出して顏の汗を拭き乍ら、衣嚢の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた發車時刻にもう間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、
『向側からお乘りなさい。』
と教へ乍ら背の低い驛夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラットホームに葡萄茶の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智惠子であつた。
智惠子の方でも其時は氣が附いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限り、名も知り顏も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乘客と言つては自分と其男と唯二人、隱るべき樣もないので、素知らぬ振も爲難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顏を合せなければならぬのだ。
それで、吉野が線路を横切つて來るのを待つて、少し顏を染め乍ら輕くS卷の頭を下げて會釋した。
『や、意外な處でお目に懸ります。』と餘り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。
『先日は失禮致しました。』
『怎うしまして、私こそ……。』と、脱つた帽子の飾紐に切符をみながら、『フム、小川の所謂近世的婦人が此女なのだ!』と心に思つた。
そして、體を捻つて智惠子に向ひ合つて、『後で靜子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰るんですね?』
『は、左樣で御座います。』
『何れお目に懸る機會も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に參つたんで。』
『お噂は、豫て靜子さんから承つて居りました。』
『來たよう。』と驛夫が向側で叫んだので、二人共目を轉じて線路の末を眺めると、遠く機關車の前部が見えて、何やらキラ/\と日に光る。
『今日は何處まで?』
『盛岡までゝ御座います。』
『成程、學校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』
『否。』と智惠子は愼しげに男の顏を見た。『學校に居りました頃からの同級會が、明後日大澤の温泉に開かれますので、それであの、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』
『然うですか。それはお樂しみで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。
『貴方は何處へ?』
『矢張りその盛岡までゝす。』
吉野は不、自分が平生になく流暢に喋つてゐたことに氣が附いた。
列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭り掛つた。