34話 其八 一
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智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨溪館といふ温泉宿の二階に、縣下の各地方から集つた。
兎角女といふものは、學校にゐる時は如何に親しくしても、一度別れて了へば心ならずも疎くなり易い。それは各々の境遇が變つて了ふ爲めで、智惠子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級會といふ樣なものも出來るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舍に起臥を共にした間柄、校門を辭して散々に任地に就いてからの一年半の間に、身に心に變化のあつた人も多からうが、さて相共に顏を合せては、自から氣が樂しかつた寄宿舍時代に歸つた。數限りなき追憶が口々に語られた。氣輕な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が彈くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁くて此若い女達は翌二日の夜更までは何も彼も忘れて樂みに醉うた。缺席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懷姙中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。
各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいという事、頭腦の舊い校長の惡口、同じ師範出の男教員が案外不眞面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大體に於て各々の意見が一致した。中に一人、智惠子の村の加藤醫師と遠縁の親戚だといふのがあつた。その女から、智惠子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
その手紙を屆けるべく、智惠子は澁民に歸つた翌日の午前、何氣なく加藤醫院を訪れたのであつた。
玄關には、腰掛けたのや、上り込んだのや、薄汚ない扮裝をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顏をして、各自に藥瓶の數多く並んだ棚や粉藥を分量してゐる小生意氣な藥局生の手先などを眺めてゐた。智惠子が其處へ入ると、有つ丈の眼が等しく其美しい顏に聚つた。
『奧樣は?』
『ハイ。』と答へて、藥局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた樣に居住ひを直した。諄々と挨拶したのもあつた。
今朝髮を洗つたと見えて、智惠子は房々とした長い髮を、束ねもせず、緑の雲を被いだ樣に、肩から背に豐かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの單衣に、帶は平常のメリンス、そのきちんとしたお太鼓が搖めく髮に隱れた。
少し手間取つて、倉皇と小走りに清子が出て來た。
『まあ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒。』
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來てますから。』
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒。』
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『眞箇よ、奧樣。何れ後で。』
智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。