鳥影

37話 其八 四

1,425字 約3分 2007年2月25日 公開

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 ダラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな柾葺(まさぶき)の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ爲に屋根を葺いた。町の半數の家々ではこの水で飯を(かし)ぐ。

 蓊欝(こんもり)と木が(かぶ)さつてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の樣な水が、其處らの青苔や圓い石を濡らしてるのとで、如何な日盛りでも冷い風が立つて居る。智惠子は不渇を覺えた。まだ午飯(ひるめし)に餘程間があると見えて、誰一人水汲が來てゐない。

 重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から斷間(しきり)なしに(ほて)つてるのに、四邊の青葉の故か、顏が(いつも)より青く見える。

 智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ/\する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顏の熱るのが一層感じられる。『怎うして青く見えたか知ら!』と考え乍ら、裏畑の細徑傳(ほそみちづた)ひ急ぎ足に家へ歸つた。

誰方(どなた)被來(いらつしや)らなくつて?』

(いえ)。』とお利代は何氣ない顏をしてゐる。『あら、何處へ行つてらしつたんですか? お(ぐし)に木の葉が附いて。』

『然う?』と手を遣つて見て、『學校の後ろの山を歩いて見ましたの。』

『お一人で!』

『否、子供達と。』と、うつかり言つたが、智惠子は妙に氣が引けた。

『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。

『俺も、俺も。』と新坊は氣早に立ち上つて雀躍(こをどり)する。

『ホホヽヽ。もう行つて來たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智惠子は己が室に入つた。

「來なかつた!」と思ふと、ホッと安心した樣な氣持だ。と又、今にも來るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、忙しく心を亂す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。

奈何(どう)したといふのだらう?」と自分の心が疑はれる。莫迦な! と叱つても矢張り氣が氣でない。強ひて(ほん)を讀んで見ても、何が書いてあつたか全然心に留らない。新坊が泣き出しでもすると譯もなく腹立しくなる。幾度も幾度も室の中を片附けてゐるうちに、午食(ひる)になつた。

小母(をば)さん、私の顏紅くなつて?』と箸を動かしながら訊いた。

(いえ)。些とも。』

『然う? ぢや平生(ふだん)より青いんでせう。』

(いゝえ)、何ともありませんよ。怎うかなすつたんですか?』

『怎うもしないんですけど、何だかホカ/\するわ。目の底に熱がある樣で……。』

『暑いところを山へなんか被行(いらし)つたからでせうよ。今日はこれから又甚に蒸しますか!』

 何がなしに氣が急いて、智惠子はさつさと箸を捨てた。何をするでもなく、氣がそは/\して、妙な暗さが心に湧いて來る。「怎うもしないのに!」自分に辯疏して見る傍から、「屹度加藤さんで午餐(ひる)が出て、それから被來(いらつしや)る。」といふ考が浮ぶ。髮を()はう、()はうと何囘と無く思ひ附いたが、箪笥の上の鏡に顏を寫しただけ。到頭三時近くなつた。

「世の中が詰らない!」と言つた樣な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。氣を紛らさうと思つて二人の子供を呼んだ。智惠子の拵へてくれた浴衣をだらしなく着た梅ちやんと、裸體に腹掛をあてた新坊が喜んで來た。

『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』

(いや)。』と頭を振つて、『山さ行く。』

『先生、山さ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。

『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』

と言つてる所へ、入口に人の訪るゝ氣勢(けはい)。智惠子は屹と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。

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