37話 其八 四
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ダラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな柾葺の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ爲に屋根を葺いた。町の半數の家々ではこの水で飯を炊ぐ。
蓊欝と木が蔽さつてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の樣な水が、其處らの青苔や圓い石を濡らしてるのとで、如何な日盛りでも冷い風が立つて居る。智惠子は不渇を覺えた。まだ午飯に餘程間があると見えて、誰一人水汲が來てゐない。
重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から斷間なしに熱つてるのに、四邊の青葉の故か、顏が例より青く見える。
智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ/\する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顏の熱るのが一層感じられる。『怎うして青く見えたか知ら!』と考え乍ら、裏畑の細徑傳ひ急ぎ足に家へ歸つた。
『誰方も被來らなくつて?』
『否。』とお利代は何氣ない顏をしてゐる。『あら、何處へ行つてらしつたんですか? お髮に木の葉が附いて。』
『然う?』と手を遣つて見て、『學校の後ろの山を歩いて見ましたの。』
『お一人で!』
『否、子供達と。』と、うつかり言つたが、智惠子は妙に氣が引けた。
『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。
『俺も、俺も。』と新坊は氣早に立ち上つて雀躍する。
『ホホヽヽ。もう行つて來たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智惠子は己が室に入つた。
「來なかつた!」と思ふと、ホッと安心した樣な氣持だ。と又、今にも來るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、忙しく心を亂す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。
「奈何したといふのだらう?」と自分の心が疑はれる。莫迦な! と叱つても矢張り氣が氣でない。強ひて書を讀んで見ても、何が書いてあつたか全然心に留らない。新坊が泣き出しでもすると譯もなく腹立しくなる。幾度も幾度も室の中を片附けてゐるうちに、午食になつた。
『小母さん、私の顏紅くなつて?』と箸を動かしながら訊いた。
『否。些とも。』
『然う? ぢや平生より青いんでせう。』
『否、何ともありませんよ。怎うかなすつたんですか?』
『怎うもしないんですけど、何だかホカ/\するわ。目の底に熱がある樣で……。』
『暑いところを山へなんか被行つたからでせうよ。今日はこれから又甚に蒸しますか!』
何がなしに氣が急いて、智惠子はさつさと箸を捨てた。何をするでもなく、氣がそは/\して、妙な暗さが心に湧いて來る。「怎うもしないのに!」自分に辯疏して見る傍から、「屹度加藤さんで午餐が出て、それから被來る。」といふ考が浮ぶ。髮を結はう、結はうと何囘と無く思ひ附いたが、箪笥の上の鏡に顏を寫しただけ。到頭三時近くなつた。
「世の中が詰らない!」と言つた樣な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。氣を紛らさうと思つて二人の子供を呼んだ。智惠子の拵へてくれた浴衣をだらしなく着た梅ちやんと、裸體に腹掛をあてた新坊が喜んで來た。
『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』
『嫌。』と頭を振つて、『山さ行く。』
『先生、山さ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。
『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』
と言つてる所へ、入口に人の訪るゝ氣勢。智惠子は屹と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。