鳥影

39話 其九 一

1,310字 約3分 2007年2月25日 公開

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 叔母一行が來て家中が賑つてる所へ夕方から村の有志が三四人、門前寺の(やな)に落ちたといふ川鱒を持つて來て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢卷をして起きるといふ混雜、客自慢の小川家では、吉野までも其席に呼出した。燈火の點く頃には、少し酒亂の癖のある主人の信之が、向鉢卷をしてカッポレを踊り出した。

 朝から昌作の案内で町に出た吉野の歸つた時は、先に歸つた信吾が素知らぬ顏をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが悉皆(すつかり)體中に(まは)つて了つて、聞苦しい土辯の川狩の話も興を覺えた。眞紅(まつか)な顏をした吉野は、主人のカッポレを(しほ)密乎(こつそり)と離室に逃げ歸つた。

 其縁側には、叔母の子供等や妹達を對手に、靜子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。

『あゝ、悉皆(すつかり)醉つちやつた。』恁う言つて吉野は縁に立つ。

『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか(そんな)に?』

 燈火(あかり)(そむ)いた其笑顏が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髮を(なぶ)る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。子供達は其方にゆく。

『飮みつけないもんですからね。然し氣持よく醉ひましたよ。』と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其實、顏がぽつぽつ(ほて)るだけで、格別醉つた樣な心地でもない。

『夜風に當ると()う御座いますわ。』

『え、()と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其處此處に星がちらついた。

『靜や、靜や。』と母屋の方からお柳の聲がした。

 吉野はブラリ/\と庭を拔けて、圃路(はたけみち)に出た。追駈ける樣な家の中の騷ぎの間々に、靜かな麥畑の彼方から水の音がする。暗を縫うて見え隱れに螢が流れる。

 夜涼(よびえ)が頬を舐めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。()うした田舍の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微醉(ほろゑひ)の足の亂れるでもなく、しつとりとした空氣を胸深く吸つて、ブラリ/\と辿る心地は、渠が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。

 轟然たる物の響の中、頭を壓する幾層の大厦に挾まれた東京の大路を、苛々(いら/\)した心地で人なだれに交つて歩いた事、兩國近い河岸の割烹店(レストーラン)の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる樣な急しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸汽、川の向岸に立列んだ、強い色彩の種々の建物などを眺めて、取り留めもない、切迫塞(せつぱつま)つた苦痛に襲れてゐた事などが、()うやらずつと昔の事、否、他人の事の樣に思はれる。

 吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の樣に思はれた。自分が餘程以前(まへ)から此村にゐる樣な氣持で、先刻逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顏も、可也古くからの親しみがある樣に覺えた。

 いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が夜目にそれと見える樣になつた。急に高まつた川瀬の音が、靜かな、そして平かな心の底に、妙にしんみりした響きを傳へる。

 と、その川瀬の音に交つて、子供らの騷ぐ聲が聞え出した。

 橋の袂まで來た。不子供らの聲に縺れて、低い歌が耳に入る。

『……かーみはーあーいーなり。』

 仄白い人の姿が、朧氣に橋の上に立つてゐる。

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