56話 其十一 七
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智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。恁うなると彼は、今日自分の遣つた事は、豫じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智惠子に自白さしたかの樣に考へる。我と我を輕蔑まうとする心を、強ひて其風に考へて抑へて見た。
信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が苛立つて來る。高い笑聲を殘して、彼は遂に學校から飛び出した。
もう日暮近い頃であつた。
自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、――吉野の來ないうちに言はなかつたらう
『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁う彼は口に出して言つて見た。が、矢張り彼は女から享けた拒絶の耻辱を、全く打消すことが出來なかつた。よし彼女を免職させる樣にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追拂はう!
彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。
月が昇つた。
途斷れ/\に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。
『何有! 知らん顏をしてゐればそれで濟む。豈夫智惠子が言ひは爲まい。』と彼は少し落着いて來た。
『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』
信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻きりたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、自暴にヒュゥと空氣を切つた。
『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾さん!』と富江は又呼んだ。
『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『まア、何處へ被行るの?』
答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴に體を向直した。
『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家へ招待れて、門前寺の……一人で散歩するなんて氣が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
『ホヽヽ、どうして智惠子樣を誘つて上げなかつたの?』
『莫迦な!』
『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 眞箇に!』
『何を言ふんです。』と信吾は苛々しく言つた。そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに來たんだ!』
『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして眤と男の顏を見ながら、『眞箇よ。私石女なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないんでせう?』そして、袂を口にあてゝ急にホホヽヽと笑ひ出した。
其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。
で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう閉つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。