14話 山の秘密 四(1)
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お話し上手のかたですと、これだけの筋道をもっと掻いつまんで要領を得るようにお話しが出来るのでございましょうが、わたくしの癖で、なんでも自分の見た通り、聞いた通りをありのままにお話し申さなければ、気が済まないように思われるもんですから、詰まらないことをついだらだらと長くなってしまいました。さてこれからが本当の本文でございますから、もう少々御辛抱を願います。
少なくも半月ぐらいはここに滞在している筈のわたくしが、たった五日目に早々立ち去ることになりました。というのは、わたくしが東京を発ちました翌日から、母が急病でどっと倒れまして、初めはほんの暑さあたりだろうぐらいに思っていたのですが、急性腸胃加答児という医師の診断におどろかされて、兄からわたくしのところへ電報を打ってよこしたのでございます。山の中ですから、その電報を遅くうけ取って、気が気でないわたくしは慌てて東京へ帰ることにしました。ほかの事と違いますから、三津子さん夫婦も無理に引き留めるわけにもゆかないので、しきりに残念がりながら山の下まで送って来てくれました。六助じいやも荷物を持って停車場まで一緒に来ました。
わたくしの逗留しているあいだに、その後もじいやの小屋で二度ばかり山窩の娘のすがたを見ましたが、なにぶんにも短い滞在でしたから、いわゆる「山の秘密」とかいうようなものは結局なんにも判りませんでした。
母の病気は一時なかなかの重体で、わたくし共もずいぶん心配いたしましたが、幸いに翌月の初旬には全快しました。そのあいだに三津子さんからたびたび見舞の手紙をくれましたので、こちらからもいよいよ全快のことを報らせてやりますと、大層よろこんでいるという返事が来まして、もう一度出直して来ないかと誘われましたが、そうもいかない事情もありますので、来年かさねておたずね申しますと言ってやりました。
秋になって、三津子さんから紅葉を観ながら遊びに来いと又誘われましたが、わたくしはやはりお断わりをして行きませんでした。すると、十一月の中頃に関井さんが突然たずねて来て、こんなお話がありました。
「わたくしは今度いよいよ他の土地へ転勤することになりました。今度は千葉県の暖いところですから、寒くなったら避寒かたがた是非お遊びにお出でください。三津子もしきりに申しておりました。」
関井さんはその転勤のことについて、突然東京へ出て来ることになったので、二、三日の後には再び元の山へ帰って、十二月はじめに官舎を引き払うということでした。
「千葉県へ移るについては、どうしても東京を通過しなければなりませんから、三津子もその節にお伺い申すかも知れません。」
こう言って、関井さんはその日は早々に帰ってしまいました。
あの御夫婦がどこへか転勤を希望していることは、わたくしもよく知っていますので、別に不思議ともなんとも思いませんでした。かえって御夫婦のためには好都合であろうと喜んでいました。わたくしはすぐに三津子さんのところへ手紙を出して、御転勤をお祝い申してやりました。その手紙が三津子さんの手に届いたか、まだ届かないかと思われる頃に、わたくしは或る朝の新聞紙上で飛んでもない怖ろしい記事を発見しました。
その記事はその地方の電話に拠ったもので、ほんの七、八行の簡単なものでしたけれど、わたくしは雷に撃たれたように驚かされました。小林区署長の奥さんの関井三津子さんは、主人が公用で出京している留守中に、何物にか惨殺されたというのです。わたくしはその新聞をじっと見つめているうちに、なんだか頭がぼうとなって殆んど卒倒しそうになりました。まったく夢のようで、しばらくは泣くことも出来ませんでした。三津子さんは誰に殺されたのでしょう。どうして殺されたのでしょう。わたくしは無理に気を落ち着けて、だんだん考えてみますと、この七月の末に三津子さんから聞かされて謎のような話や、六助じいやから聞かされた山窩の娘のこと、藤蔓に吊るした山女のこと、それやこれやが廻り燈籠のように頭の中をくるくると廻転して来ました。
「あの山窩の娘が三津子さんを殺したんじゃないかしら。」
わたくしは何という理屈もなしに、そんなことを考えました。そうして、取りあえず関井さんの宿へ電話をかけますと、関井さんは今朝の一番汽車でもう出発したということでした。なんにしても、もう落ち着いてはいられないので、わたくしは母や兄に相談して、すぐに関井さんのあとを追っ掛けてゆくことにしました。三津子さんの死に顔も早く見たいと思いましたのと、もう一つにはその最期のありさまも委しく知りたいと思ったからです。一度経験のある旅行ですから、わたくしは一人で汽車に乗って、相変わらず寂しい田舎の停車場に降りました。陰って薄ら寒い日で、三津子さんの今まで住んでいた山の形も、きょうは灰色の雲に掩われていました。
あいにくに人車は一台も見えないので、わたくしも途方にくれました。ぐずぐずしていて、途中で日が暮れては大変だと思いましたから、わたくしは一生懸命になって歩き出しました。町を突っ切って、見おぼえのある田圃みちへ出ようとする時に、横合いから不意に声をかけられました。
「村上さんのお嬢さん。」
それは六助じいやでした。じいやは死体を始末するために棺桶や何かを注文して、これから山へ帰るところでした。いい路連れが出来たので、わたくしもほっとしました。じいやは次の村へ行って人車を探してやるから、そこまで一緒にあるいて行けと言いました。
「どうも飛んだことで、ほんとうにびっくりしてしまいました。」と、わたくしは歩きながら言いました。「奥さんはどうなすったのでしょう。一体、誰が殺したんです。」
「おとといの午過ぎでしたよ。わたくしがうしろの山へ枯枝を拾いに行って、一時間ばかり経って帰って来て、それから枝を伐そうと思うと、土間に置いた筈の鉈が見えねえ。どうしたのかと思って探していると、その鉈は小屋の外の桐の木の下に捨ててありました。見ると、鉈には血が付いている。わたくしははっと思って奥へ駈けて行ってみると、奥さんが血だらけになって座敷の縁側に倒れていました。あなたも御存じでしょう。八畳の座敷には奥さんのピアノが据え付けてあります。奥さんはこの頃めったにピアノを弾いたことはなかったのですが、その日に限ってピアノを弾いていたのが、わたくしの小屋までよく聞こえました。わたくしが山へ行く時までピアノの音はきこえていましたから、奥さんが余念もなしにピアノを弾いているところへ、うしろから誰かがそっと忍んで行って、鉈で脳天をぶち割ったに相違ありません。座敷の畳にもピアノの台にもなまなましい血のあとが付いていました。奥さんはおどろいて障子を蹴放して縁さきへ転げ出すところを、また追っ掛けて行って滅茶苦茶になぐって……。おまけに喉笛に啖いついて……。わたくしの行ったときには、奥さんはもう息が絶えていました。それですから、顔も頭も胸のあたりも一面に血だらけで、そりゃもうふた目と見られないような酷たらしい……。わたくしも実にぞっとしてしまいましたよ。」
じいやがぞっとしたのは無理もありません。その話を聞いただけでも、わたくしは総身の血が一度に凍ってしまいました。
「それで、殺した者は知れないんですか。」
「知れませんよ。みんな巡回に出ていて、誰もいない留守のことですから。」と、じいやの詞は少し途切れました。
「あの、もしや山窩とかの娘じゃありませんかしら。」
わたくしが思い切ってこう言いますと、じいやはじろりと横目で睨んだばかりで、しばらく黙っていましたが、やがてしずかに言い出しました。
「お嬢さん。あなたは奥さんから何かお聞きでございましたか。」
「いいえ、別に……。けれども、何だかそんなような気がしてならないんです。ほんとうにそうじゃありませんかしら。」
「そうかも知れませんよ。」と、じいやは唸るように言いました。「あなたがそう仰しゃるならば言いますが、わたくしもそうじゃないかと思っています。こんなことを仕出来して、あいつも可哀そうですけれど、奥さんは猶更お可哀そうですよ。奥さんは全くなんにも御存じないんですから。」
この前にもそうでしたが、このじいやの言い振りはなんだか奥歯に物が挾まっているようで、焦れったくってなりません。殊に今の場合にそんな謎のようなことを聞かされては堪まりません。わたくしはもう苛々して来て、じいやの胸ぐらを捉らないばかりにして、無理無体に根ほり葉掘りの詮議をしますと、じいやもしまいには根負けがしたらしく、とうとうこれだけのことを白状しました。
その話によりますと、例の山窩の娘はときどきにじいやの小屋へ食べ物を貰いに来ていました。それがだんだんに増長して、じいやの留守に奥の方まで忍んで行って、なにか盗み出そうとするところを、ちょうど居合わせた関井さんに見つけられたのです。見付けられて、つかまえられて……。それからどうしたのか判りませんが、その後は山窩の娘がこの官舎へうるさく来るようになりました。じいやの小屋へも来るのですが、奥の方へもたびたび忍んで行くのです。そんなことが小一年もつづいているうちに、去年の夏から三津子さんという新しい奥さんがここへ乗り込んで来ました。その以来、山窩の娘は奥の方へ行かなくなりました。奥へゆくと、叱って追い出されるので、いつでも小屋へ来て黙ってしょんぼりと立っているのです。じいやは可哀そうに思いますけれども、どうにも仕様がありませんでした。
ここらの山川には山女という魚が棲んでいて、それが山住居の人には唯一の旨いお魚でした。前にもお話し申した通り、ここらの山に住んでいるものは、藤蔓をわがねて其の魚を捕るのが上手で、山窩の娘もそうして捕った魚を今までも度々持って来てくれましたが、新しい奥さんが来た後もその魚だけは、やはり持って来てくれました。お金をやっても食べ物をやっても受け取らないで、ただ黙ってその魚をくれて行くのでした。それがじいやにはなんだか惨らしくも思われるので、叱ったり諭したりして、たびたび断わるのですけれど、どうしても肯きません。その娘の持って来た魚を、関井さんもはじめは喜んでたべたのですが、新しい奥さんが来てからは一切たべなくなりました。現にわたくしに御馳走してくれたフライの山女も、山窩の娘が持って来たのでないということをよく確かめてから、お料理に取りかかったくらいでした。
山窩の娘は殆んど毎日のようにじいやの小屋へ姿を見せていましたが、別に乱暴を働くわけでもなく、ただ黙って突っ立っているばかりでした。しかし不思議なことには、奥でピアノの音がきこえると、それをじっと聴いているうちに、なんだか眼の色が怪しくかがやいて来て、一度はそこにある枯枝をつかみ出して行って、奥の縁側へだしぬけに投げ込んだことがありました。その以来、この官舎でピアノの音は絶えてしまったそうです。
それらの事情からかんがえると、殊にその兇器を小屋の中から持ち出したのをみると、奥さんを殺した犯人はどうも山窩の娘であるらしいと六助じいやは鑑定しているのでした。唯ここに一つの疑問は、どうで殺すくらいならば今日まで一年あまりもなぜ猶予していたかということで、その理屈がどうも判りません。あるいは関井さんの夫婦が近々にここを立ち去るということを知って――それもどうして知ったのか判りません。六助じいやは決してしゃべった覚えはないといっていました――。急に妬ましさが募って来て、ふだんから憎んでいる奥さんを殺そうと思い立ったのか。それとも、久し振りでピアノの音を聴いて、不意にむらむらと殺意を起こしたのか。なにぶんにも相手が相手ですから、普通のわれわれの考えでは確かにこうという見極めは付きそうもありません。いずれにしても、三津子さんは世に悼ましい生贄でありました。
山窩の娘については、三津子さんもその秘密を知っていたに相違ありません。それはわたくしと一緒に散歩に出たときの口ぶりでも想像されます。その当時は一種の謎のようで、頭の悪いわたくしには何がなんだか一切夢中でしたが、今となって考えればその謎もだんだんに解けて来るように思われます。そういう事情があるので、関井さんも三津子さんも早くこの山を立ち去りたいと祈っていたのでしょうが、それが却って禍いの基になったのかも知れません。
この話の間に、わたくし共は長い寒い田圃みちをゆきぬけて次の村の入口へたどり着くと、六助じいやはそこらの百姓家をたずねて、一台の人車をようよう見付けて来てくれました。
もうそのさきのことは別に申し上げるまでもありますまい。三津子さんのむごたらしい死骸は火葬にして、わたくし共はその遺骨を護って東京へ帰りました。
関井さんは千葉県へゆくのを止めて、すぐに辞職してしまいました。問題になった山窩の娘はどうしたか判りません。人の知らないところへ行って、身でも投げたか、首でも縊ったか。それとも平気で生きているか。そんなことはいっさい判りません。
T君は語る。
「あの時は僕もすこし面食らったよ。」と、深田君がわたしに話した。深田君自身の説明によると、かれはその晩、地方から出京した親戚のむすめを連れて向島のある料理店兼旅館へ行って、芋と蜆汁を食っていたのだというのである。親戚の娘を妙なところへ連れ込んだものだと思うが、ともかくもその説明を正直にうけ取って、仮りに親戚の娘としておく。その娘は二十歳ぐらいで、深田君の話ぶりによるとなかなか粋な女であるらしい。
それは九月の彼岸前で、日の中は盛夏のようにまだ暑いが、暮れるとさすがに涼しい風がそよそよと流れて、縁の柱にはどこから飛んで来たか機織虫が一匹鳴いていた。深田君はその虫の音を感に堪えたように聞いていたが、やがて一人で庭に降りた。なにか少し面白くないことがあって、いわゆる親戚の娘を座敷に置き去りにして来たのである。
今夜はどこの座敷もひっそりして、明かるい月の下に冷々とながれている隅田川の水を眺めているのは、この家じゅうで深田君一人かと思われるくらいであった。深田君は出来そこないの謡か何かを小声で唸りながら、植え込みの間をぶらぶら歩いているうちに、かれはたちまち女の声におどろかされた。
「あら。」
だしぬけに金切り声を叩き付けられて、深田君はびっくりして立ち停まった。親戚の娘がさき廻りをしていて、いたずらにおどしたのかとも思ったが、そうでないことはすぐに判った。深田君をおどろかした女はやはり二十歳ぐらいで、庇の大きい束髪に結っていたが、そのなまめかしい風俗がどうも堅気の人間とは受け取れなかった。女の方でも深田君の姿がだしぬけにあらわれたので、思わず驚きの声を立てたらしく、急に気が付いたように言葉をあらためて謝まった。
「どうも失礼。まことにすみません。」
「いや、どうしまして。」
言いながらよく見ると、女は色の丸顔の小作りで、まぶしそうに月明かりから顔をそむけた睫毛には白い露が光っていた。女はこの木のかげに隠れて一人で泣いていたらしかった。そう思うと何だか気になるので、深田君はまた話しかけた。
「いい月ですね。」
「そうでございますね。」と、女はうるんだ声で答えた。
それがいよいよ気にかかるので、深田君は判り切っているようなことを訊いた。
「あなたお一人ですか。」
「はあ。」
「お一人ですか。」と、深田君は不思議そうに念を押した。
「はあ。」
「あなたはこの土地の人ですか。」
「いいえ。」
若い女がただ一人でここへ来て、木のかげに隠れて泣いている。深田君はいよいよ好奇心をそそられて、どうしてもこのままに別れることが出来なくなった。もう一つには、この女がどう見ても堅気の人間でないらしいことが、深田君の心を強くひき付けた。
「お一人で御退屈ならわたしの座敷へお遊びにいらっしゃい。あなたとお話の合いそうな女もおりますから。」
「ありがとうございます。」
もうその以上には何とも話しかける手づるがないので、深田君は心を残してかの女に別れた。二、三間行きすぎて振り返ると、女は土にひざまずいて木の幹に顔を押し付けてまた泣いているらしかった。なにぶん見逃がすことが出来ないので、深田君はまたそっと引っ返して来て声をかけた。
「あなた、どうしたんです。心持でも悪いんですか。」
女は返事もしないですすり泣きをしていた。
「え、どうしたんです。訳をお話しなさい。あなたは一体どうして一人でここへ来ているんです。」と、深田君は無遠慮に切り込んで訊いた。「だしぬけにこんなことを言っちゃあ失礼ですけれども、一応その訳をうかがった上で、またなんとか御相談にも乗ろうじゃありませんか。あなたは一体なにを泣いているんです。」
女は容易にすすり泣きを止めないのを、いろいろになだめてすかして詮議すると、女は上州前橋の好子という若い芸妓であった。土地の糸商の上原という客に連れられて、きのうの夕方東京に着いて、ゆうべは上野近所の宿屋に泊まって、きょうは浅草から向島の方面を見物して、午後三時頃にこの料理店にはいった。風呂をすませて、夕飯を食って、今夜はここに泊まるはずであったが、上原はちょっとそこまで行ってくるといって、好子を残して出たままで今に帰って来ないのをみると、自分はきっと置き去りにされたに相違ない。ここの家の勘定もまだ払っていない。自分は旅費も持っていない。どうしていいかと途方に暮れて、いっそこの川へ身でも投げてしまおうかと、さっきから庭に出て泣いていたのであると判った。
「そこで、その上原という人は何時頃に出て行ったんです。」
「五時過ぎでしたろう。」
今夜はまだ八時を過ぎたばかりで、五時から数えてもまだ三時間を多く越えない。それですぐに置き去りと決めてしまうのは、あまりに早まっているように深田君は思った。用向きの都合では二時間や三時間を費すこともないとはいえない。その理屈をいって聞かせても、好子はなかなか承知しなかった。上原は自分を振り捨ててどこへか姿を隠したに相違ないと、泣きながら強情を張った。これには何か子細があると見て、深田君は無理に彼女をなだめて、ともかくも自分の座敷へ連れて行くと、親戚の娘も気の毒がって親切にいたわってやった。それからまただんだん問いつめて行くと、上原という男はことし卅一で、女房もあれば子供もある。ことに養子の身分で、家には養父も養母も達者である。そういう窮屈な身分で土地の芸妓と深い馴染みをかさねたのであるから、なんらかの形式で一種の悲劇が生み出されずにはすまない。家庭にはいろいろの葛藤がもつれにもつれて、結局自棄になった彼は女を連れて養家を飛び出した。男も女も再び前橋へは帰らない覚悟であった。男は二百円ほどの金を持っていて、その金の尽きた時が二人の命の終りであるということも、お互いのあいだに堅く約束されていた。
「上原さんはきっと急に気が変わって、あたしを置き去りにして逃げたに相違ありません。」と、好子はくやしそうに泣いて訴えた。
この場合、そうした偏僻や邪推の出るのも無理はなかった。知らない東京のまんなかへ突き出されて、一緒に死のうとまで思いつめている男に振り捨てられたとなれば、定めて悲しくもあろう。口惜しくもあろう。深田君もひどく彼女の身の上に同情したが、その男が果たして変心したのかどうか、実はまだ確かに判らないのである。もし変心しないとすれば、かれらは早晩死の手につかまれなければならない。変心したとすれば、女は一人で捨てられなければならない。いずれにしても、不運は好子という女の上に付きまとっているのである。深田君はなんとかしてかの女を救ってやりたいと思った。
男が無事に帰って来たらば、その突きつめた無分別をさとしてやろう。男が果たして帰らなかったらば、女に旅費を持たせて前橋へ送り返してやろう。深田君は二つに一つの料簡をきめて、親戚の娘と共に好子をしきりになだめていると、それから一時間ほども経った頃に、家の女中たちが庭をさがし歩いているような声がきこえた。
「なんでも庭の方を歩いていらしったようですが……。」
「庭に出ていましたか。」と、男の不安らしい声もきこえた。
それが好子の連れの男であることは直ぐに想像されたので、深田君は早く行けとうながしたが、好子はなぜか容易に起とうともしなかった。庭の方ではしきりに探しているらしいので、深田君は気の毒になって声をかけた。
「もし、もし、お連れの御婦人ならばここにおいでですよ。」
その声を聞きつけて、男の方はすぐに駈けて来た。それが上原というのであろう。顔の青白い、眼の色のにぶい、なんだか病身らしい痩形の男で、深田君に丁寧に挨拶して好子を連れて行こうとすると、好子は狂女のように飛びかかって男の腕を強くつかんだ。
「薄情、不人情、嘘つき……。人をだまして、置き去りにして……。」
力任せに小突きまわして、好子は噛み付きそうに男の薄情を責めた。それがヒステリーの女であることを深田君はさとった。上原という男も人の見る前、すこぶるその処置に困ったらしく、いろいろにすかして連れて行こうとしたが、好子はなかなか肯かないで、大きい庇髪をふりくずしながら、自分の泣き顔を男の胸にひしと押し付けて、声をあげて狂いわめいた。深田君も見ていられないので、親戚の娘と一緒にそれをなだめて、どうにかこうにか座敷の外へ送り出すと、上原は詫びやら礼やらを取りまぜて、すみませんすみませんと繰り返して言いながら、無理に好子を引き摺るようにして、自分の座敷へ連れて行った。
「気が狂ったんでしょうか。」と、親戚の娘はほっとしたように言った。
「ヒステリーだろう。」
「だって、男が帰って来たらいいじゃありませんか。」
「そこが病気だよ。理屈には合わない。お前だって時々そんなことがあるぜ。」と、深田君は笑った。
男が帰って来たらばその無分別を戒しめてやろうと待ちかまえていた深田君も、この騒ぎに少し気をくじかれて、今すぐに何を言っても仕方がない。男もこっちの意見を聞いている余裕はあるまい。ともかくも女のちっと落ちつくのを待って、それからおもむろに言うだけのことを言って聞かそうと思い直して、かれは良い月を見ながら酒を飲んでいた。
「あなたもあたしを置き去りにして行くと、あたしヒステリーになってよ。」と、親戚の娘は酌をしながら言った。
こっちにも少し悶着が起こっていたのであるが、よその騒ぎでうやむやのうちに納まってしまって、深田君はいい心持に酔いが廻った。青白い顔の男もヒステリーの女も、かれの記憶からだんだんに遠ざかって、とうとうそこにごろりと寝ころんでしまった。