探偵夜話

16話 有喜世新聞の話 一

3,414字 約7分 2012年8月17日 公開

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 S君は語る。

 明治十五年――たしか五月ごろの事と記憶しているが、その当時発行の有喜世新聞にこういう雑報が掲載されていた。京橋築地の土佐堀では小鯔(いな)が多く捕れるというので、ある大工が夜網に行くと、すばらしい大鯔(おおぼら)が網にかかった。それを近所の料理屋の寿美屋の料理番が七十五銭で買い取って、あくる朝すぐに庖丁を入れると、その鯔の腹のなかから手紙の状袋が出た。もちろん状袋は濡れていたが女文字で○之助様、ふでよりというだけは明らかに読まれた。

 有喜世新聞社では一種の艶種(つやだね)と見過ごして、その以上に探訪の歩を進めなかったらしく、単にそれだけの事実を報道するにとどまっていた。鯔の腹から手紙のあらわれたことは支那の古い書物にも(しる)されている。鯔の腹から状袋が出ても、さのみ不思議がるにも当たらないかも知れない。殊にその当時七十五銭で買われるくらいの大鯔ならば、なにを呑んでいるか判ったものではない。記者もそのつもりで書き流し、読者もそのつもりで見過ごしてしまったであろうが、僕は偶然の機会からその状袋の秘密を知ることが出来たのである。

 といっても、明治十五年――そのころは僕がようよう小学校へ通いはじめた時分であるから、その時すぐに判ったのではない。後日に偶然聞き出したのであることを、まず最初に断わっておく。僕の叔父の知人に溝口杞玄(きげん)という医師がある。その医師がこの新聞をみると、すぐに京橋の警察署へ出頭して、秘密に某事件の捜査を依頼したのであった。

 溝口医師はそのころ麹町の番町で開業していた。今でも番町の一部はあまり賑かではないが、明治初年の番町辺はさらにさびしかった。元来がほとんど武家屋敷ばかりであった所へ、維新の革命で武家というものが皆ほろびてしまったのであるから、そこらには毀れかかった()き屋敷が幾らもある。持ち主が変わっても、その建物は大抵むかしのままであるから、依然として江戸以来の暗い空気に閉じられている。今ではおおかた切り払われてしまったが、その古い屋敷の土塀のなかには武蔵野以来の建物で、今日(こんにち)ならば差しづめ古樹保存の札でも立てられそうな大木が往来の上まで枝や葉を繁らせて、さなきだに暗く狭い町をいよいよ暗くしていた。昼でも往来の人は少ない。まして日が暮れると土地の人でもよんどころない用事のほかは外出しなかったらしい。現に僕も二月の午後八時ごろ、三番町から中六番町をぬけて麹町の大通り付近までくるあいだに、ひとりの人にも出逢わないで、ずいぶん怖いさびしい思いをした経験を持っている。そういう時代、そういう場所ではあるが、溝口医師は相当の病家を持って相当の門戸を張っていた。

 門戸といえば、溝口医師の家は小さい旗本の古屋敷を買って、それに多少の手入れをしたもので、門の一方には門番でも住んでいたらしい小さい家があり、他の一方にも小さい長屋二軒が付いていたので、門番の小屋には抱えの車夫を住まわせ、他の長屋二軒は造作を直して、表から出入りの出来るように格子戸をこしらえ、一軒一円五十銭ぐらいの家賃で人に貸していた。なんでも三畳と四畳半と六畳の三()であったということで、それで造作付一円五十銭は今考えると嘘のようであるが、それでも余り安い方ではないという評判であった。そのせいか、門に近い方の一軒は(ふさ)がっていたが、となりの一軒は明いていた。

 ふさがっている方の借家人は矢田友之助という大蔵省の官吏であった。そのころは官吏とはいわない、官員といっていたのである。矢田はことし廿四五で、母のお銀とふたり暮らしであったが、たとい末班でも官員さんの肩書をいただいている以上、一ヵ月一円五十銭の家賃を滞納するようなこともなく、無事に一年あまりを送っていた。

「友さんは遅いねえ。」

 ひとり言をいいながら、母のお銀は格子をあけて表を見た。明治十三年九月の末の薄く陰った宵で、柱時計が今や八時を打ったのを聞いてから、お銀は長火鉢の前を離れて門口(かどぐち)へ出たのであった。せがれの友之助は独身の若い者であるから、残り番だとか宿直だとか名をつけて、ときどきは夜おそく帰ったり、泊まって来たりすることもある。お銀もそれを深くとがめようとはしなかったが、親ひとり子ひとりの家庭であるから、せがれの帰らない夜はなんとなく寂しい。今夜も遅いのか、それとも帰らないのかと、お銀は単衣(ひとえもの)ではもう涼し過ぎるような夜風に吹かれながら、わびしげに暗い往来をながめている時、ふと気がつくと、隣りのあき家の出窓の下にひとりの女の立っているらしい姿がみえた。窓の下には細い(どぶ)があって、石のあいだにはこおろぎが鳴いている。その溝のふちにたたずんで、女は内をのぞいているようにも見えたので、お銀はすこし不審に思った。

「もし、どなたでございます。お隣りは空き家ですが……。」と、お銀は試みに声をかけた。

「はあ。」

 女は低い声で答えたかと思うと、そのまま暗いなかに姿をかくしてしまった。それを見送って、お銀は内へはいったが、せがれはまだ帰らなかった。筋むこうの屋敷内に高く聳えている大銀杏(おおいちょう)の葉の時々落ちる音が寂しく聞こえるばかりで、夜露のおりたらしい往来には人の足音も響かなかった。今夜にかぎってお銀はひどく寂しい。もしや出さきで我が子の上に何か変わったことでも出来たのではあるまいかなどと、取越し苦労に半時間ほどを過ごしたかと思う頃に、人力車の音がだんだんに近づいて来た。家主の溝口医師が病家から帰ったのか、それともせがれが車に乗って帰ったのかと、お銀は再び起ちあがって、今度は出窓から表をのぞこうとした時、表では何か口早に話すような人声がきこえた。それは溝口医師と抱え車夫の元吉の声であった。

「ともかくも(うち)まで乗せて行け。」

 溝口の命令する声がきこえて、やがて車は門前におろされた。お銀は窓から伸びあがって覗いてみると、車夫の元吉は梶棒をおろして、くぐり門から一旦はいったかと思うと、さらに内から正面の門を左右にひらいて、車を玄関さきまで()き込んで行った。その提灯のひかりに照らされた車上の人は若い女であった。そのあとから溝口もつづいてはいった。

 お銀はさらに台所へまわって、水口(みずくち)の戸をすこし明けてうかがうと、溝口と元吉は女を介抱して奥へ連れ込んで行くらしい。元吉は夫婦者で、お新という若い女房がある。そのお新も自分の家から駈け出して行って、なにか手伝っているのを見ても、それが急病人か怪我人であるらしいことは、容易に想像された。まさかにコレラでもあるまいとお銀は思った。

 そのうちに元吉とお新の夫婦が奥から出て来たので、お銀は水口から出てそっと様子を訊くと、元吉はあたまを掻きながら答えた。

「いや、どうも大しくじりをやってしまいましてね。旦那をのせて帰ってくると、すぐそこの角で暗いなかから若い女が不意に出て来たので、あっと思って梶棒を振り向けようとする間もなしに、相手を突っこかしてしまったんです。」

「よっぽどひどい怪我でもしましたか。」と、お銀は顔をしかめながらまた訊いた。

「なに、半分()きかかって危うく踏みとまったので、たいした怪我はないようです。それでも転んだはずみに手や足をすりむいたりしましたからね。早くいえば出逢いがしらで、どっちが悪いというわけでもないんですが、なにしろ怪我をさせた以上は、そのままにもしておかれませんや。旦那も大変に気の毒がって、いろいろ手当てをしているようです。」

 電車や自動車はなし、自転車も極めて少ないこの時代における交通事故は、馬車と人力車にきまっていた。馬車もさのみ多くはなかったが、人力車が衝突したとか人力車に轢かれたとかいう事故は、毎日ほとんど絶えなかった。今夜の出来事もその一つである。お銀はやはり顔をしかめながら聞いていると、お新がそばから(くち)を出した。

「どこの娘さんか知りませんけれど、服装(なり)はいいというほどじゃありませんけれど、容貌(きりょう)はなかなかいいんですよ。なんでも士族さんの娘さんでしょうね。」

 士族さんなどという言葉がこの時代には盛んに用いられた。お銀の家も中国辺のある藩の士族さんであった。それだけの話を聞いてしまって、お銀は自分の家へ引っ込むと、せがれの友之助が帰って来た。かれは母から今夜の話を聞かされても、別に気にも留めないらしかった。前にもいった通り、人力車に突き当たったり轢かれたりするのは珍らしくもなかったからである。

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