長江游記

3話 二 溯江

2,041字 約4分 2015年3月31日 公開

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 私は溯江(そこう)の汽船へ三艘乗った。上海から蕪湖までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キュウキャン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である。

 鳳陽丸に乗った時は、偉い丁抹(デンマアク)人と一しょになった。客の名は盧糸(ろし)、横文字に書けば Roose である。何でも支那を縦横する事、二十何年と云うのだから、当世のマルコ・ポオロと思えば間違いない。この豪傑が暇さえあると、私だの同船の田中君だのを捉えては、三十何呎(なんフィイト)蟒蛇(うわばみ)を退治した話や、広東(カントン)盗侠(とうきょう)ランクワイセン(漢字ではどんな字に当るのだか、ルウズ氏自身も知らなかった。)の話や、河南直隷の飢饉の話や、虎狩豹狩の話なぞを滔々(とうとう)と弁じ来り弁じ去ってくれた。その中でも面白かったのは、食卓を共にした亜米利加(アメリカ)人の夫婦と、東西両洋の愛を論じた時である。この亜米利加人の夫婦、――殊に細君に至っては、東洋に対する西洋の侮蔑に(かかと)の高い靴をはかせた如き、甚横柄な女人だった。彼女の見る所に従えば、支那人は勿論日本人も、ラヴと云う事を知っていない。彼等の曚昧は憐むべしである。これを聞いたルウズ氏は、カリイの皿に向いながら、(たちまち)異議を唱え出した。いや、愛の何たるかは東洋人と雖も心得ている。たとえば或四川の少女は、――と得意の見聞を吹聴すると、細君はバナナの皮を剥きかけた儘、いや、それは愛ではない、単なる憐憫(ピティ)に過ぎぬと云う。するとルウズ氏は頑強に、では或日本東京の少女は、――と又実例をつきつけ始める。とうとうしまいには相手の細君も、怒火心頭に発したのであろう、突然食卓を離れると、御亭主と一しょに出て行ってしまった。私はその時のルウズ氏の顔を(いまだ)にはっきり覚えている。先生は我々黄色い仲間へ、人の悪い微笑を送るが早いか、人さし指に額を叩きながら、「ナロウ・マインデット」とか何とか云った。生憎(あいにく)この夫婦の亜米利加人は、南京(ナンキン)で船を下りてしまったが、ずっと溯江を続けたとすれば、もっといろいろ面白い波瀾を巻き起していたのに相違ない。

 蕪湖から乗った南陽丸では、竹内栖鳳(たけうちせいほう)氏の一行と一しょだった。栖鳳氏も九江(キュウキャン)に下船の上、廬山(ろざん)に登る事になっていたから、私は令息、――どうも可笑しい。令息には正に違いないが、余り懇意に話をしたせいか、令息と呼ぶのは空々しい気がする。が、兎に角その令息の(いつ)氏なぞと愉快に溯江を続ける事が出来た。何しろ長江は大きいと云っても、結局海ではないのだから、ロオリングも来なければピッチングも来ない。船は唯機械のベルトのようにひた流れに流れる水を裂きながら、悠々と西へ進むのである。この点だけでも長江の旅は船に弱い私には愉快だった。

 水は前にも云った通り、(かなさび)に近い代赭(たいしゃ)である。が、遠い川の涯は青空の反射も加わるから、大体刃金色(はがねいろ)に見えぬ事はない。其処を名高い大筏(おおいかだ)が二艘も三艘も下って来る。現に私の実見した中にも、豚を飼っている筏があったから、成程飛び切りの大筏になると、一村落を載せたものもあるかも知れない。又筏とは云うものの、屋根もあるし壁もあるし、実は水に浮んだ家屋である。南陽丸の船長竹下氏の話では、これらの筏に乗っているのは雲南貴州等の土人だと云う。彼等はそう云う山の中から、万里の濁流の押し流す儘に、悠々と江を下って来る。そうして浙江安徽(せっこうあんき)等の町々へ無事に流れついた時、筏に組んで来た木材を金に換える。その道中短きものは五六箇月、長きものは殆一箇年、家を出る時は妻だった女も、家へ帰る時は母になるそうである。しかし長江を去来するのは、勿論この筏のように、原始時代の遺物に限った訣じゃない。一度は亜米利加の砲艦が一艘、小蒸気に標的を()かせながら、実弾射撃なぞをしていた事もある。

 江の広い事も前に書いた。が、これも三角洲(デルタ)があるから、一方の岸には遠い時でも、(かならず)一方には草色が見える。いや、草色ばかりじゃない。水田の稲の(そよ)ぎも見える。楊柳の水に生え入ったのも見える。水牛がぼんやり立ったのも見える。青い山は勿論幾つも見える。私は支那へ出かける前、小杉未醒(こすぎみせい)氏と話していたら、氏は旅先の注意の中にこう云う事をつけ加えた。

「長江は水が低くってね、両岸がずっと高いから、船の高い所へ上るんですね。船長のいる、――何と云うかな、あの高い所があるでしょう。あすこへ上らねえと、眺望が利きませんよ。あすこは普通の客はのせねえから、何とか船長を護摩(ごま)かすんですね。……」

 私は先輩の云う事だから、鳳陽丸でも南陽丸でも、江上の眺望を(ほしいまま)にする為に、始終船長を護摩かそうとしていた。処が南陽丸の竹下船長はまだ護摩かしにかからない内からサロンの屋根にある船長室へ、深切にも私を招待してくれた。しかし此処へ上って見ても、格別風景には変りもない。実際又甲板にいても、ちゃんと陸地は見渡せたのである。私は妙に思ったから、護摩かそうとした意志を白状した上、船長にその訣を尋ねて見た。すると船長は笑い出した。

「それは小杉さんの来られた時はまだ水が少かったのでしょう。漢口あたりの水面の高低は、夏冬に四十五六(フィイト)も違いますよ。」

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