高野聖

22話 二十二

1,186字 約2分 1999年1月30日 公開

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左右(とこう)して、婦人(おんな)が、(はげ)ますように、(すか)すようにして勧めると、白痴(ばか)は首を曲げてかの(へそ)(もてあそ)びながら唄った。

木曽(きそ)御嶽山(おんたけさん)は夏でも寒い、

   (あわせ)()りたや足袋(たび)()えて。

(よく知っておりましょう、)と婦人(おんな)は聞き澄して莞爾(にっこり)する。

 不思議や、唄った時の白痴(ばか)の声はこの話をお聞きなさるお前様はもとよりじゃが、(わし)も推量したとは月鼈雲泥(げっべつうんでい)、天地の相違、節廻(ふしまわ)し、あげさげ、呼吸(いき)の続くところから、第一その清らかな涼しい声という者は、到底(とうてい)この少年の咽喉(のど)から出たものではない。まず(さき)の世のこの白痴(ばか)の身が、冥土(めいど)から管でそのふくれた腹へ通わして寄越(よこ)すほどに聞えましたよ。

 私は(かしこま)って聞き果てると、膝に手をついたッきりどうしても顔を上げてそこな男女(ふたり)を見ることが出来ぬ、何か胸がキヤキヤして、はらはらと落涙(らくるい)した。

 婦人(おんな)は目早く見つけたそうで、

(おや、貴僧(あなた)、どうかなさいましたか。)

 急にものもいわれなんだが漸々(ようよう)

(はい、なあに、変ったことでもござりませぬ、(わし)も嬢様のことは別にお(たず)ね申しませんから、貴女(あなた)も何にも問うては下さりますな。)

 と仔細(しさい)は語らずただ思い入ってそう言うたが、実は以前から様子でも知れる、金釵玉簪(きんさぎょくさん)をかざし、蝶衣(ちょうい)(まと)うて、珠履(しゅり)穿(うが)たば、(まさ)驪山(りさん)に入って、相抱(あいいだ)くべき豊肥妖艶(ほうひようえん)の人が、その男に対する取廻しの優しさ、(へだて)なさ、深切(しんせつ)さに、人事(ひとごと)ながら(うれ)しくて、思わず涙が流れたのじゃ。

 すると人の腹の中を読みかねるような婦人(おんな)ではない、たちまち様子を(さと)ったかして、

貴僧(あなた)はほんとうにお優しい。)といって、()()われぬ色を目に(たた)えて、じっと見た。(わし)(こうべ)()れた、むこうでも差俯向(さしうつむ)く。

 いや、行燈(あんどう)がまた薄暗くなって参ったようじゃが、恐らくこりゃ白痴(ばか)のせいじゃて。

 その時よ。

 座が白けて、しばらく言葉が途絶(とだ)えたうちに所在がないので、唄うたいの太夫(たゆう)退屈(たいくつ)をしたとみえて、顔の前の行燈(あんどう)を吸い込むような大欠伸(おおあくび)をしたから。

 身動きをしてな、

(寝ようちゃあ、寝ようちゃあ、)とよたよた体を持扱(もちあつか)うわい。

(眠うなったのかい、もうお寝か。)といったが(すわ)り直ってふと気がついたように四辺(あたり)を《みまわ》した。戸外(おもて)はあたかも真昼のよう、月の光は()(ひろ)げた()(うち)へはらはらとさして、紫陽花(あじさい)の色も鮮麗(あざやか)(あお)かった。

貴僧(あなた)ももうお休みなさいますか。)

(はい、ご厄介(やっかい)にあいなりまする。)

(まあ、いま宿(やど)を寝かします、おゆっくりなさいましな。戸外(おもて)へは近うござんすが、夏は広い方が結句(けっく)()うございましょう、(わたし)どもは納戸(なんど)()せりますから、貴僧(あなた)はここへお広くお(くつろ)ぎがようござんす、ちょいと待って。)といいかけてつッと立ち、つかつかと足早に土間へ下りた、余り身のこなしが活溌(かっばつ)であったので、その拍子に黒髪が先を巻いたまま(うなじ)(くず)れた。

 (びん)をおさえて戸につかまって、戸外(おもて)(すか)したが、独言(ひとりごと)をした。

(おやおやさっきの(さわ)ぎで(くし)を落したそうな。)

 いかさま馬の腹を(くぐ)った時じゃ。」

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