3話 「富士見の渡し」
読み方を変える
僕等は両国橋の袂を左へ切れ、大川に沿つて歩いて行つた。「百本杭」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様」は残つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊神社のお神楽を見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神楽をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何処を眺めても、亜鉛葺きのバラツクの外に「伊達様」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達様」の庭には木犀が一本秋ごとに花を盛つてゐたものである。僕はその薄甘いひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。
流転の相の僕を脅すのは「伊達様」の見えなかつたことばかりではない。僕は確かこの近所にあつた「富士見の渡し」を思ひ出した。が、渡し場らしい小屋は何処にも見えない。僕は丁度道ばたに芋を洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に当る向う河岸へ通つてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々何処かの家の家鴨なども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつた後も或親戚を尋ねる為めに度々「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派の「五りん」とかいふもののお上さんだつた。僕の家へ何かの拍子に円朝の息子の出入したりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――
僕は講談といふものを寄席では殆ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の邑井吉瓶だけである。(もつとも典山とか伯山とか或は又伯龍とかいふ新時代の芸術家を知らない訣ではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵今村次郎氏の速記本に依つた。しかし落語は家族達と一しよに相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行つたものである。殊に度々行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎はつきりと覚えてゐない。唯吉田国五郎の人形芝居を見たことだけは未だにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵小幡小平次とか累とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行き、久振りに文楽を見物した。けれども今日の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業じみたけれんを使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄の庵室などでも、血だらけな清玄の幽霊は大夫の見台が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席の広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人である。
そのうちに僕は震災前と――といふよりも寧ろ二十年前と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑へた、三尺に足りない草土手である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情なかつた。