本所両国

3話 「富士見の渡し」

1,352字 約3分 1999年8月23日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 僕等は両国橋(りやうごくばし)(たもと)を左へ切れ、大川(おほかは)に沿つて歩いて行つた。「百本杭(ひやつぽんぐひ)」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様(だてさま)」は残つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊(われい)神社のお神楽(かぐら)を見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神楽をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何処(どこ)を眺めても、亜鉛葺(トタンぶ)きのバラツクの(ほか)に「伊達様」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達様」の庭には木犀(もくせい)が一本秋ごとに花を()つてゐたものである。僕はその薄甘(うすあま)いひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。

 流転(るてん)の相の僕を(おびやか)すのは「伊達様(だてさま)」の見えなかつたことばかりではない。僕は確かこの近所にあつた「富士見(ふじみ)(わた)し」を思ひ出した。が、渡し場らしい小屋は何処(どこ)にも見えない。僕は丁度(ちやうど)道ばたに(いも)を洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無(うむ)をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸(かし)から「明治病院」の裏手に当る向う河岸(がし)(かよ)つてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々何処(どこ)かの(うち)家鴨(あひる)なども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつた(のち)も或親戚を尋ねる為めに度々(たびたび)「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派(さんゆうは)の「()りん」とかいふもののお(かみ)さんだつた。僕の(うち)へ何かの拍子(ひやうし)円朝(ゑんてう)息子(むすこ)出入(しゆつにふ)したりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎(いまむらじらう)といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――

 僕は講談といふものを寄席(よせ)では(ほとん)ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の邑井吉瓶(むらゐきつぺい)だけである。(もつとも典山(てんざん)とか伯山(はくざん)とか或は又伯龍(はくりゆう)とかいふ新時代の芸術家を知らない(わけ)ではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵(たいてい)今村次郎(いまむらじらう)氏の速記本に依つた。しかし落語(らくご)は家族達と一しよに相生町(あひおひちやう)広瀬(ひろせ)だの米沢町(よねざはちやう)日本橋(にほんばし)区)の立花家(たちばなや)だのへ聞きに行つたものである。殊に度々(たびたび)行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎(あいにく)はつきりと覚えてゐない。唯吉田国五郎(よしだくにごろう)の人形芝居を見たことだけは(いま)だにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵(たいてい)小幡小平次(こばたこへいじ)とか(かさね)とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ()き、久振(ひさしぶ)りに文楽(ぶんらく)を見物した。けれども今日(こんにち)の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業(かるわざ)じみたけれんを使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄(せいげん)庵室(あんしつ)などでも、血だらけな清玄の幽霊は大夫(たいふ)見台(けんだい)が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席(よせ)の広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人(ひとり)である。

 そのうちに僕は震災(ぜん)と――といふよりも(むし)ろ二十年(ぜん)と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を(おさ)へた、三尺に足りない草土手(くさどて)である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河(さんか)在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には(なさけ)なかつた。

目次に戻る

目次