本所両国

4話 「お竹倉」

1,314字 約3分 1999年8月23日 公開

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 僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈(かいわい)(たふ)れてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を(まつた)うしたのは二十(はたち)前後の息子(むすこ)だけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めに()き上げられ、安田家(やすだけ)の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お(でう)さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処(どこ)へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を()やす為めに蝙蝠(かうもり)の血などを頭へ()つてゐた。)最後に僕の(かよ)つてゐた江東(かうとう)小学校の校長さんは両眼とも(めい)を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所(ほんじよ)に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張(やは)りこの界隈(かいわい)に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業(ひごふ)の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。

「しかし両国橋(りやうごくばし)を渡つた人は大抵(たいてい)助かつてゐたのでせう?」

「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町(もとまち)通りには高圧線の落ちたのに()れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」

()(かく)東京中でも被服廠(ひふくしやう)大勢(おおぜい)焼け死んだところはなかつたのでせう。」

 かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉(たけぐら)」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新(ごゐしん)(ぜん)と変らなかつたものの、もう総武(そうぶ)鉄道会社の敷地の(うち)に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、(みだ)りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林(ざふきばやし)や竹藪のある、町中(まちなか)には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川(おほかは)に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板(どぶいた)の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記(れふじんにつき)」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の(かげ)や大きい昼の月のかかつた雑木林の(こずゑ)を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には(いかめ)しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日(こんにち)を思へば、――「(かへ)つて并州(へいしう)を望めば(これ)故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。

 総武(そうぶ)鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は(よる)は「本所(ほんじよ)(なな)不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉(かたは)(あし)」は何処(どこ)かこのあたりにあるものと信じない(わけ)には()かなかつた。現に夜学に(かよ)ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃(ばかばや)しを聞き、てつきりあれは「狸囃(たぬきばや)し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕一人(ひとり)の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ(かよ)つてゐた線路工夫の一人(ひとり)は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。

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