4話 「お竹倉」
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僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈に斃れてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を全うしたのは二十前後の息子だけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めに捲き上げられ、安田家の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生やす為めに蝙蝠の血などを頭へ塗つてゐた。)最後に僕の通つてゐた江東小学校の校長さんは両眼とも明を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張りこの界隈に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋を渡つた人は大抵助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町通りには高圧線の落ちたのに触れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
「兎に角東京中でも被服廠程大勢焼け死んだところはなかつたのでせう。」
かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新」前と変らなかつたものの、もう総武鉄道会社の敷地の中に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、妄りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林や竹藪のある、町中には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰や大きい昼の月のかかつた雑木林の梢を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日を思へば、――「卻つて并州を望めば是故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
総武鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉の芦」は何処かこのあたりにあるものと信じない訣には行かなかつた。現に夜学に通ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃しを聞き、てつきりあれは「狸囃し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕一人の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通つてゐた線路工夫の一人は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。