3話 戯作三昧(3)
読み方を変える
崋山が帰つた後で、馬琴はまだ残つてゐる興奮を力に、八犬伝の稿をつぐべく、何時ものやうに机へ向つた。先を書きつづける前に、昨日書いた所を一通り読み返すのが、彼の昔からの習慣である。そこで彼は今日も、細い行の間へべた一面に朱を入れた、何枚かの原稿を、気をつけてゆつくり読み返した。
すると、何故か書いてある事が、自分の心もちとぴつたり来ない。字と字との間に、不純な雑音が潜んでゐて、それが全体の調和を至る所で破つてゐる。彼は最初それを、彼の癇が昂ぶつてゐるからだと解釈した。
「今の己の心もちが悪いのだ。書いてある事は、どうにか書き切れる所まで、書き切つてゐる筈だから。」
さう思つて、彼はもう一度読み返した。が、調子の狂つてゐる事は前と一向変りはない。彼は老人とは思はれない程、心の中で狼狽し出した。
「このもう一つ前はどうだらう。」
彼はその前に書いた所へ眼を通した。すると、これも亦徒らに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかつてゐる。彼は更にその前を読んだ。さうして又その前の前を読んだ。
しかし読むに従つて拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。そこには何等の映像をも与へない叙景があつた。何等の感激をも含まない詠歎があつた。さうして又、何等の理路を辿らない論弁があつた。彼が数日を費して書き上げた何回分かの原稿は、今の彼の眼から見ると、悉く無用の饒舌としか思はれない。彼は急に、心を刺されるやうな苦痛を感じた。
「これは始めから、書き直すより外はない。」
彼は心の中でかう叫びながら、忌々しさうに原稿を向うへつきやると、片肘ついてごろりと横になつた。が、それでもまだ気になるのか、眼は机の上を離れない。彼はこの机の上で、弓張月を書き、南柯夢を書き、さうして今は八犬伝を書いた。この上にある端渓の硯、蹲の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――さう云ふ一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでゐる。それらの物を見るにつけても、彼は自ら今の失敗が、彼の一生の労作に、暗い影を投げるやうな――彼自身の実力が根本的に怪しいやうな、忌はしい不安を禁じる事が出来ない。
「自分はさつきまで、本朝に比倫を絶した大作を書くつもりでゐた。が、それもやはり事によると、人並に己惚れの一つだつたかも知れない。」
かう云ふ不安は、彼の上に、何よりも堪へ難い、落莫たる孤独の情を齎した。彼は彼の尊敬する和漢の天才の前には、常に謙遜である事を忘れるものではない。が、それ丈に又、同時代の屑々たる作者輩に対しては、傲慢であると共に飽迄も不遜である。その彼が、結局自分も彼等と同じ能力の所有者だつたと云ふ事を、さうして更に厭ふ可き遼東の豕だつたと云ふ事は、どうして安々と認められよう。しかも彼の強大な「我」は「悟り」と「諦め」とに避難するには余りに情熱に溢れてゐる。
彼は机の前に身を横へた儘、親船の沈むのを見る、難破した船長の眼で、失敗した原稿を眺めながら、静に絶望の威力と戦ひつづけた。もしこの時、彼の後の襖が、けたたましく開放されなかつたら、さうして「お祖父様唯今。」と云ふ声と共に、柔かい小さな手が、彼の頸へ抱きつかなかつたら、彼は恐らくこの憂欝な気分の中に、何時までも鎖されてゐた事であらう。が、孫の太郎は襖を開けるや否や、子供のみが持つてゐる大胆と率直とを以て、いきなり馬琴の膝の上へ勢よくとび上つた。
「お祖父様唯今。」
「おお、よく早く帰つて来たな。」
この語と共に、八犬伝の著者の皺だらけな顔には、別人のやうな悦びが輝いた。
十四
茶の間の方では、癇高い妻のお百の声や内気らしい嫁のお路の声が賑に聞えてゐる。時々太い男の声がまじるのは、折から伜の宗伯も帰り合せたらしい。太郎は祖父の膝に跨がりながら、それを聞きすましでもするやうに、わざと真面目な顔をして天井を眺めた。外気にさらされた頬が赤くなつて、小さな鼻の穴のまはりが、息をする度に動いてゐる。
「あのね、お祖父様にね。」
栗梅の小さな紋附を着た太郎は、突然かう云ひ出した。考へようとする努力と、笑ひたいのを耐へようとする努力とで、靨が何度も消えたり出来たりする。――それが馬琴には、自ら微笑を誘ふやうな気がした。
「よく毎日。」
「うん、よく毎日?」
「御勉強なさい。」
馬琴はとうとう噴き出した。が、笑の中ですぐ又語をつぎながら、
「それから?」
「それから――ええと――癇癪を起しちやいけませんつて。」
「おやおや、それつきりかい。」
「まだあるの。」
太郎はかう云つて、糸鬢奴の頭を仰向けながら自分も亦笑ひ出した。眼を細くして、白い歯を出して、小さな靨をよせて、笑つてゐるのを見ると、これが大きくなつて、世間の人間のやうな憐れむべき顔にならうとは、どうしても思はれない。馬琴は幸福の意識に溺れながら、こんな事を考へた。さうしてそれが、更に又彼の心を擽つた。
「まだ何かあるかい?」
「まだね。いろんな事があるの。」
「どんな事が。」
「ええと――お祖父様はね。今にもつとえらくなりますからね。」
「えらくなりますから?」
「ですからね。よくね。辛抱おしなさいつて。」
「辛抱してゐるよ。」馬琴は思はず、真面目な声を出した。
「もつと、もつとようく辛抱なさいつて。」
「誰がそんな事を云つたのだい。」
「それはね。」
太郎は悪戯さうに、ちよいと彼の顔を見た。さうして笑つた。
「だあれだ?」
「さうさな。今日は御仏参に行つたのだから、お寺の坊さんに聞いて来たのだらう。」
「違ふ。」
断然として首を振つた太郎は、馬琴の膝から、半分腰を擡げながら、顋を少し前へ出すやうにして、
「あのね。」
「うん。」
「浅草の観音様がさう云つたの。」
かう云ふと共に、この子供は、家内中に聞えさうな声で嬉しさうに笑ひながら、馬琴につかまるのを恐れるやうに、急いで彼の側から飛び退いた。さうしてうまく祖父をかついだ面白さに小さな手を叩きながら、ころげるやうにして茶の間の方へ逃げて行つた。
馬琴の心に、厳粛な何物かが刹那に閃いたのは、この時である。彼の唇には幸福な微笑が浮んだ。それと共に彼の眼には、何時か涙が一ぱいになつた。この冗談は太郎が考へ出したのか、或は又母が教へてやつたのか、それは彼の問ふ所ではない。この時、この孫の口から、かう云ふ語を聞いたのが、不思議なのである。
「観音様がさう云つたか。勉強しろ。癇癪を起すな。さうしてもつとよく辛抱しろ。」
六十何歳かの老芸術家は、涙の中に笑ひながら、子供のやうに頷いた。
十五
その夜の事である。
馬琴は薄暗い円行燈の光の下で、八犬伝の稿をつぎ始めた。執筆中は家内のものも、この書斎へははいつて来ない。ひつそりした部屋の中では、燈心の油を吸ふ音が、蟋蟀の声と共に、空しく夜長の寂しさを語つてゐる。
始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のやうなものが動いてゐた。が、十行二十行と、筆が進むのに従つて、その光のやうなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知つてゐた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行つた。神来の興は火と少しも変りがない。起す事を知らなければ、一度燃えても、すぐに又消えてしまふ。……
「あせるな。さうして出来る丈、深く考へろ。」
馬琴はややもすれば走りさうな筆を警めながら、何度もかう自分に囁いた。が、頭の中にはもうさつきの星を砕いたやうなものが、川よりも早く流れてゐる。さうしてそれが刻々に力を加へて来て、否応なしに彼を押しやつてしまふ。
彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は自ら勢を生じて、一気に紙の上を辷りはじめる。彼は神人と相搏つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々として何処からか溢れて来る。彼はその凄じい勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、緊く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」
しかし光の靄に似た流は、少しもその速力を緩めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲つて来る。彼は遂に全くその虜になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を駆つた。
この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……
* * *
その間も茶の間の行燈のまはりでは、姑のお百と、嫁のお路とが、向ひ合つて縫物を続けてゐる。太郎はもう寝かせたのであらう。少し離れた所には弱らしい宗伯が、さつきから丸薬をまろめるのに忙しい。
「お父様はまだ寝ないかねえ。」
やがてお百は、針へ髪の油をつけながら、不服らしく呟いた。
「きつと又お書きもので、夢中になつていらつしやるのでせう。」
お路は眼を針から離さずに、返事をした。
「困り者だよ。碌なお金にもならないのにさ。」
お百はかう云つて、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりをして、答へない。お路も黙つて針を運びつづけた。蟋蟀はここでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしてゐる。
(大正六年十一月)