1話 母(1)

5,563字 約11分 1999年3月1日 公開

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        一

 部屋(へや)の隅に据えた姿見(すがたみ)には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海(シャンハイ)特有の旅館の二階が、一部分はっきり(うつ)っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳(なんじょう)かの(たたみ)、最後にこちらへ(うしろ)を見せた、西洋髪(せいようがみ)の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物(ぬいもの)か何かしているらしい。

 もっとも後は向いたと云う条、地味(じみ)銘仙(めいせん)の羽織の肩には、(くず)れかかった前髪(まえがみ)のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が()いたのも見える。やや長めな()()げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。

 この姿見のある部屋には、隣室の赤児の()き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。(いまだ)に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。

「あなた。」

 そう云う何分(なんぷん)かが過ぎ去った(のち)、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束(おぼつか)なさそうに、こう誰かへ声をかけた。

 誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前(たんぜん)羽織(はお)った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々(ながなが)腹這(はらば)いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草(まきたばこ)の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。

「あなた。」

 女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」

 男は幾分うるさそうに、丸々(まるまる)と肥った、口髭(くちひげ)の短い、活動家らしい頭を(もた)げた。

「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」

「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜(ゆうべ)、引っ越して来たばかりじゃないか?」

 男の顔はけげんそうだった。

「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば()いているでしょう?」

 男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの()げた窓側(まどがわ)の壁には、色の変った畳の上に更紗(さらさ)の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵(ジェラニアム)が、薄い(ほこり)をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町(よこちょう)に、麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶった支那(シナ)の車夫が、所在なさそうにうろついている。………

「だがお前はあの部屋にいるのは、(いや)だ嫌だと云っていたじゃないか?」

「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が(いや)になったんですもの。」

 女は針の手をやめると、もの()そうに顔を挙げて見せた。(まゆ)の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの(かさ)を見ても、何か苦労を(こら)えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛(こめか)みにも静脈(じょうみゃく)が浮き出している。

「ね、()いでしょう。……いけなくて?」

「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心(いごころ)()いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か(いや)な事があるのかい?」

「何って事はないんですけれど。……」

 女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。

「いけなくって、どうしても?」

 今度は男が新聞の上へ煙草(たばこ)の煙を吹きかけたぎり、()いとも悪いとも答えなかった。

 部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変(あいかわらず)、休みのない雨の音がしている。

春雨(はるさめ)やか、――」

 男はしばらくたった(のち)、ごろりと仰向(あおむ)きに寝転(ねころ)ぶと、独り言のようにこう云った。

蕪湖(ウウフウ)住みをするようになったら、発句(ほっく)でも一つ始めるかな。」

 女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。

蕪湖(ウウフウ)もそんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園(ようかかえん)とか云ってね、――」

 男は突然口を(つぐ)んだ。いつか(しん)とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。

「おい。」

 泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切(とぎ)れ途切れに続き出した。

「おい。敏子(としこ)。」

 半ば体を起した男は、畳に片肘(かたひじ)(もた)せたまま、当惑(とうわく)らしい眼つきを見せた。

「お前は(おれ)と約束したじゃないか? もう愚痴(ぐち)はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」

 男はちょいと(まぶた)を挙げた。

「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎(いなか)へは行きたくないとか、――」

「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」

 敏子は涙を落し落し、意外なほど(はげ)しい打消し方をした。

「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」

 敏子は伏眼(ふしめ)になったなり、(あふ)れて来る涙を(おさ)えようとするのか、じっと薄い下唇(したくちびる)を噛んだ。見れば蒼白い(ほお)の底にも、眼に見えない(ほのお)のような、切迫した何物かが燃え立っている。(ふる)える肩、濡れた睫毛(まつげ)、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。

「ですけれども、――この部屋は(いや)なんですもの。」

「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何故(なぜ)この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」

 男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、(そそ)がれているのに気がついた。その眼には涙の(ただよ)った底に、ほとんど敵意にも(まが)い兼ねない、悲しそうな光が(ひらめ)いている。何故この部屋が嫌になったか? ――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言(むごん)の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに躊躇(ちゅうちょ)した。

 しかし言葉が途切(とぎ)れたのは、ほんの数秒の(あいだ)である。男の顔には見る見る内に、了解の色が(みなぎ)って来た。

「あれか?」

 男は感動を(おお)うように、妙に()()のない声を出した。

「あれは己も気になっていたんだ。」

 敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。

 窓の外にはいつのまにか、日の暮が雨を煙らせている。その雨の音を()ねのけるように、空色の壁の向うでは、今もまた赤児(あかご)が泣き続けている。………

        二

 二階の出窓(でまど)には(あざや)かに朝日の光が当っている。その向うには三階建の赤煉瓦(あかれんが)にかすかな(こけ)の生えた、逆光線の家が聳えている。薄暗いこちらの廊下(ろうか)にいると、出窓はこの家を背景にした、大きい一枚の()のように見える。巌乗(がんじょう)(かし)窓枠(まどわく)が、ちょうど額縁(がくぶち)()めたように見える。その画のまん中には一人の女が、こちらへ横顔を向けながら、小さな靴足袋(くつたび)を編んでいる。

 女は敏子(としこ)よりも若いらしい。雨に洗われた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、――派手(はで)な大島の羽織の肩へ、はっきり大幅に流れている。それがやや俯向(うつむ)きになった、血色の()い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな()()にも反射している。

 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、(とま)り客は大抵(たいてい)外出してしまう。下宿している(つと)(にん)たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々上草履(うわぞうり)を響かせる、女中の足音だけが残っている。

 この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十格好(がっこう)の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、影画(かげえ)のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。

「お(きよ)さん。」

 女中はちょいと会釈(えしゃく)してから、出窓の方へ歩み寄った。

「まあ、御精(ごせい)が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました?」

「うちの若様? 若様は今お休み中。」

 女は編針(あみばり)を休めたまま、子供のように微笑した。

「時にね、お清さん。」

「何でございます? 真面目(まじめ)そうに。」

 女中も出窓の日の光に、前掛(まえかけ)だけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。

「御隣の野村(のむら)さん、――野村さんでしょう、あの奥さんは?」

「ええ、野村敏子さん。」

「敏子さん? じゃ(わたし)と同じ名だわね。あの方はもう御立ちになったの?」

「いいえ、まだ五六日は御滞在(ごたいざい)でございましょう。それから何でも蕪湖(ウウフウ)とかへ、――」

「だってさっき前を通ったら、御隣にはどなたもいらっしゃらなかったわよ。」「ええ、昨晩(さくばん)急にまた、三階へ御部屋が変りましたから、――」

「そう。」

 女は何か考えるように、丸々(まるまる)した顔を傾けて見せた。

「あの方でしょう? ここへ御出でになると、その日に御子さんをなくなしたのは?」

「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに病院へも御入れになったんですけれど。」

「じゃ病院で御なくなりなすったの? 道理で何にも知らなかった。」

 女は前髪(まえがみ)を割った(ひたい)に、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯(いたずら)そうな眼つきになった。

「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」

「まあ、随分でございますね。」

 女中は思わず笑い出した。

「そんな邪慳(じゃけん)な事をおっしゃると、(つた)()から電話がかかって来ても、内証(ないしょ)で旦那様へ取次ぎますよ。」

()いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの?」

 女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。

 午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋(ごと)の花瓶に素枯(すが)れた花は、この(あいだ)に女中が取り捨ててしまう。二階三階の真鍮(しんちゅう)の手すりも、この間に下男(ボオイ)が磨くらしい。そう云う沈黙が(ひろ)がった中に、ただ往来のざわめきだけが、硝子(ガラス)戸を()け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。

 その内にふと女の(ひざ)から、毛糸の(たま)が転げ落ちた。球はとんと(はず)むが早いか、一筋の赤を引きずりながら、ころころ廊下(ろうか)へ出ようとする、――と思うと誰か一人、ちょうどそこへ来かかったのが、静かにそれを拾い上げた。

「どうも有難(ありがと)うございました。」

 女は籐椅子(とういす)を離れながら、恥しそうに会釈(えしゃく)をした。見れば球を拾ったのは、今し方女中と噂をした、()せぎすな隣室の夫人である。

「いいえ。」

 毛糸の球は細い指から、(あぶら)よりも白い(くく)り指へ移った。

「ここは暖かでございますね。」

 敏子は出窓へ歩み出ると、(まぶ)しそうにやや眼を細めた。

「ええ、こうやって居りましても、居睡(いねむ)りが出るくらいでございますわ。」

 二人の母は(たたず)んだまま、幸福そうに微笑し合った。

「まあ、御可愛いたあたですこと。」

 敏子の声はさりげなかった。が、女はその言葉に、思わずそっと眼を()らせた。

「二年ぶりに編針を持って見ましたの。――あんまり暇なもんですから。」

「私なぞはいくら暇でも、(なま)けてばかり居りますわ。」

 女は籐椅子(とういす)へ編物を捨てると、仕方がなさそうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。

「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね? いつ御生れになりましたの?」

 敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。昨日(きのう)は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、(かえ)って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に(とら)われてしまった結果であろうか? それともまた手傷(てきず)を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の(かい)(むさぼ)るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか?

「この御正月でございました。」

 女はこう答えてから、ちょいとためらう気色(けしき)を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。

「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」

 敏子は(うる)んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。

「ええ、肺炎(はいえん)になりましたものですから、――ほんとうに夢のようでございました。」

「それも御出(おいで)(そうそう)にねえ。何と申し上げて()いかわかりませんわ。」

 女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。

「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでございましょう?」

「一時は随分(ずいぶん)悲しゅうございましたけれども、――もうあきらめてしまいましたわ。」

 二人の母は(たたず)んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。

「こちらは悪い(かぜ)流行(はや)りますの。」

 女は考え深そうに、途切(とぎ)れていた話を続け出した。

「内地はよろしゅうございますわね。気候もこちらほど不順ではなし、――」

「参りたてでよくはわかりませんけれども、大へん雨の多い所でございますね。」

「今年は余計――あら、泣いて居りますわ。」

 女は耳を傾けたまま、別人のような微笑を浮べた。

「ちょいと御免下さいまし。」

 しかしその言葉が終らない内に、もうそこへはさっきの女中が、ばたばた上草履(うわぞうり)を鳴らせながら、泣き立てる赤児(あかご)()きそやして来た。赤児を、――美しいメリンスの着物の中に、しかめた顔ばかり出した赤児を、――敏子が内心見まいとしていた、丈夫そうに(あご)(くく)れた赤児を!

「私が窓を()きに参りますとね、すぐにもう眼を御覚ましなすって。」

「どうも(はばか)り様。」

 女はまだ()れなそうに、そっと赤児を胸に取った。

「まあ、御可愛い。」

 敏子は顔を寄せながら、鋭い乳の臭いを感じた。

「おお、おお、よく(ふと)っていらっしゃる。」

 やや上気(じょうき)した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房(ちぶさ)の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然(おうぜん)と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

        三

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