2話 母(2)

2,987字 約6分 1999年3月1日 公開

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 雍家花園(ようかかえん)(えんじゅ)や柳は、(ひる)過ぎの微風に(そよ)ぎながら、庭や草や土の上へ、日の光と影とをふり()いている。いや、草や土ばかりではない。その(えんじゅ)に張り渡した、この庭には似合(にあ)わない、水色のハムモックにもふり()いている。ハムモックの中に仰向(あおむ)けになった、夏のズボンに胴衣(チョッキ)しかつけない、小肥(こぶと)りの男にもふり撒いている。

 男は葉巻に火をつけたまま、(えんじゅ)の枝に()り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は文鳥(ぶんちょう)か何からしい。これも明暗の斑点(はんてん)の中に、(とま)()をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ()みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした?」とか云う事もある。

 あたりは庭木の(そよ)ぎの中に、かすかな草の()()らせている。一度ずっと遠い空に汽船の(ふえ)の響いたぎり、今はもう人音(ひとおと)も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。赤濁(あかにご)りに濁った長江(ちょうこう)の水に、(まばゆ)水脈(みお)を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える波止場(はとば)には、裸も同様な乞食(こじき)が一人、西瓜(すいか)の皮を()じっている。そこにはまた仔豚(こぶた)(むれ)も、長々(ながなが)と横たわった親豚の腹に、乳房(ちぶさ)を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも()きた男は、そんな空想に(ひた)ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。

「あなた。」

 男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、上海(シャンハイ)の旅館にいた時より、やや血色の()敏子(としこ)である。髪にも、夏帯にも、中形(ちゅうがた)湯帷子(ゆかた)にも、やはり明暗の斑点を浴びた、白粉(おしろい)をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい欠伸(あくび)をした。それからさも大儀(たいぎ)そうに、ハムモックの上へ体を起した。

「郵便よ、あなた。」

 敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に湯帷子(ゆかた)の胸から、桃色の封筒(ふうとう)にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。

「今日は私にも来ているのよ。」

 男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、無造作(むぞうさ)に手紙を読み始めた。敏子もそこへ(たたず)んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。

 雍家花園(ようかかえん)(えんじゅ)や柳は、午過ぎの微風に(そよ)ぎながら、この平和な二人の上へ、日の光と影とをふり撒いている。文鳥(ぶんちょう)はほとんど(さえず)らない。何か(うな)る虫が一匹、男の肩へ舞い下りたが、(すぐ)にそれも飛び去ってしまった。………

 こう云うしばらくの沈黙の(のち)、敏子は伏せた眼も挙げずに、突然かすかな叫び声を出した。

「あら、お隣の赤さんも死んだんですって。」

「お隣?」

 男はちょいと聞き耳を立てた。

「お隣とはどこだい?」

「お隣よ。ほら、あの上海(シャンハイ)の××館の、――」

「ああ、あの子供か? そりゃ気の毒だな。」

「あんなに丈夫そうな赤さんがねえ。……」

「何だい、病気は?」

「やっぱり風邪(かぜ)ですって。始めは寝冷えぐらいの事と思い居り候ところ、――ですって。」

 敏子はやや興奮したように、口早に手紙を読み続けた。

「病院に入れ候時には、もはや手遅れと相成り、――ね、よく似ているでしょう? 注射を致すやら、酸素吸入(さんそきゅうにゅう)を致すやら、いろいろ手を尽し候えども、――それから何と読むのかしら? 泣き声だわ。泣き声も次第に細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には、ついに息を引き取り候。その時の私の悲しさ、重々(じゅうじゅう)御察し下され(たく)、……」

「気の毒だな。」

 男はもう一度ハムモックに、ゆらりと仰向(あおむ)けになりながら、同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、(いまだ)瀕死(ひんし)の赤児が一人、小さい(あえ)ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、いつかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の(あいだ)を縫った、健康な赤児の泣き声に。――男はそう云う(まぼろし)の中にも、妻の読む手紙に聴き入っていた。

「重々御察し下され度、それにつけてもいつぞや御許様(おんもとさま)御眼(おんめ)にかかりし事など思い(いだ)され、あの頃はさぞかし御許様にも、――ああ、いや、いや。ほんとうに世の中はいやになってしまう。」

 敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い(まゆ)をひそめた。が、一瞬の無言の(のち)鳥籠(とりかご)の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢(きゃしゃ)な両手を拍った。

「ああ、()い事を思いついた! あの文鳥を放してやれば好いわ。」

「放してやる? あのお前の大事の鳥をか?」

「ええ、ええ、大事の鳥でもかまわなくってよ。お隣の赤さんのお追善(ついぜん)ですもの。ほら、放鳥(ほうちょう)って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら? とどかなかったら、あなた取って頂戴(ちょうだい)。」

 (えんじゅ)の根もとに走り寄った敏子は、空気草履(くうきぞうり)爪立(つまだ)てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい(つばさ)をばたばたやる。その拍子(ひょうし)にまた餌壺(えつぼ)(きび)も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。()らせた(のど)(ふくら)んだ胸、爪先(つまさき)に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。

「取れないかしら?――取れないわ。」

 敏子は足を爪立(つまだ)てたまま、くるりと夫の方へ向いた。

「取って頂戴よ。よう。」

「取れるものか? 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今(すぐ)には限らないじゃないか?」

「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」

 敏子は男を(にら)むようにした。が、眼にも唇にも、(みなぎ)っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄(こくはく)なものさえ感じた。日の光に煙った草木(くさき)の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。

莫迦(ばか)な事をするなよ。――」

 男は葉巻を投げ捨てながら、冗談(じょうだん)のように妻を叱った。

「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」

 すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上()ねた子供のように、睫毛(まつげ)の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと(にが)い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。

「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海(シャンハイ)にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いなければまた心配するし、――」

 男はふと口を(つぐ)んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった(ほお)の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い口髭(くちひげ)を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。

「あなた。」

 息苦しい沈黙の続いた(のち)、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を(そむ)けていた。

「何だい?」

「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」

 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。

「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」

 敏子の声には今までにない、荒々(あらあら)しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣(チョッキ)に今は一ぱいにさし始めた、(まばゆ)い日の光を鍍金(めっき)しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも(ふさ)がったように。

(大正十年八月)

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