2話 二
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「おかアさん! おかアさん!」
義雄はぎよツとしてあたまを持ちあげた。お鳥が死んだ母親を呼んでゐるのである。
病人を見ると、あふ向いて、目をつぶつたまま、久し振りの優しい微笑を浮べてゐる。
炬燵の火も消えた眞夜中、しんとして、鼠一匹騷がない。消し忘れた置きランプの光に、時計のちくたくばかりが明らかに響く。
その時計のこまかい確かな刻み――それが渠の痛みを全身に傳へる血脈にめぐつて、刻一刻快樂と思へた夢が、羽ばたきをして過ぎ行くのがあり/\と見える。
ふと、その過ぎ行く快樂の夢を米國の浪漫的詩人アランポーが歌つた「おほがらす」の姿にして見た。レノアと云ふ世に亡き乙女を戀して、
「あはれ、冴やかに 吾れは 覺ゆ 寒き 師走の 夜中なり、
炭の 燃えさし 離れ離れ 床に その影 落してき。
吾は 頻りに 朝を 待ちつ 無駄に 求めて わが書より
借らん と せしは 憂さ の 晴らし」
であつたところへ、「何を痩せ魂、鄙び魂の不吉怖鳥、古鳥」の鳥類の惡魔か分らないやうな眞ツ黒なおほ鴉が闇の外から飛んで來て、書齋に備へつけられたパラス彫像の肩にとまつた。そして愛婦の今と同樣ノーモーア、「またもなし」と語つた。
それは失戀と云ふ物を地上に引き据ゑて見たのだが、英國の畫家詩人ロセチの「昇天聖女」に、
「昇天 聖女 の 身を 傾けて
恁りしは 黄金の 天津横木。
まなこは、深みて、一しほ、海の
平らに 靜める それに 勝り。
その手に 持ちしは、小百合を 三個、
髮なる きら星 數は 七つ。」
とあるのも、つまり、これは失戀を天上に祭りあげたに過ぎない。
ワルツホイトマンにも同じ系統の「搖り籠から」があり、義雄自身にも長い詩篇「三界獨白」中の「常盤の泉」があつて、矢ツ張り、若々しい戀の失敗を地上なり、天上なりに引き据ゑ、祭りあげてゐたのが思ひ出された。
然し現在の状態はどうだ?
空想のでも、天女や戀人なら、まだしも――架空のでも、おほ鴉やアラバマから來たと云ふ鳥ならまだしも――義雄は身づから部落民だと思ふものを介抱してゐるのである。
無論、世に神聖な戀愛などはない――あつても、ただの空想で、現世に活動する人間の糧にはならない。が、曾ては聖愛などを――その時から、肉的に見てたが――歌つたことがある渠は、今更らのやうに今昔の感無しにはゐられなくなつた。
部落民の熱病人に、殆んどあらゆる病氣の問屋! 渠は、かう思つて、ます/\絶望的な蠻勇氣を出した。
「死にたくはない――今、一度、この女を完全なからだに返して、その全身の愛を本統に自分に捧げさせて見ないぢやア置かないぞ。それからなら、自分が死んでもいい、また、破れ草履を棄てるやうに、この女をすツぱりおツぽり出してもいい。」
かう考へて、渠は片手で自分の痛みの個所を押しこらへながら、熱に疲れてよく眠つてゐるかの女の二つの病氣の、直つた上の樂みを想像した。
しんとした、そとには何物かが窺つてゐるやうだ。渠はこツそり罪惡でも犯してゐるやうにまたぎよツとした。
「おかアさん!」と輪郭のぼやけた一聲に、この僅か三ヶ月間に痩せの見えて來た顏の微笑がまだ浮んでゐる。
また、夢を見てゐるのらしい――この飽くまでも見飽きぬ妖態!
試みに、そのあツたかい胸から、渠は自分の一方の腕をのせてゐたのをやはらかに外すと、かの女は逃げるものを追ふやうに、兩の手を空しくさし延べた。が、直ぐそれを引ツ込めたかと思ふと、やがて、
「あア、ア、ア――」頼りなげに又苦しさうにもがいたあげく、半身をがばりともたげた。が、あたりをじろ/\見渡して、「畜生! 殺すぞ」と云ひながら、再び枕に就いた。
ひどい熱になやんだあとの疲れで、眠りはまだこの恨みの深い人を纏つてゐると見えた。直ぐいびきをかき出した。そして、そのぐう/\云ふ響きが、おもて座敷の憲兵どものと何の遠慮もなく競争を始めた。
みじめな人生の裏家住ひ――かう云ふことが義雄のあたまに浮んだ。こちらのいびき家は、然し、相變らずうなされてゐると同時に、からだの筋肉が痙攣を引き起す前のやうにびく/\動いてゐる。
「鳥ちやん――鳥ちやん!」
靜かに呼んで見たが覺めようともしない。あふ向けに吐く白い息と横向きに吐く白い息とが交叉した。渠は考へた、呼び起して、覺めた自分と同じやうに苦痛を感じさせるよりも、いツそのこと、死ぬまで斯うしてゐさせる方がまだしも功徳かも知れない。且、自分に對しても、やきやき面倒を訴へないでいいと。
若しこちらが昔の人のやうに十五六歳で結婚をしてゐたら、これくらゐの總領娘があつたかも知れない。無病息災であつたきのふは、駄々も捏ねたし、泣いて無理も云つた。が、その可愛さは、もう、なくなつた。
過ぎ去つた快樂は現在の自分を滿足させるに足りないのに、矢ツ張り、こんなところにこびり付いてゐるのは、宿無し犬が掃き溜めの汚物に飢ゑをつなぐと同樣、ここに自分の苦痛の必然な餌じきを求めてゐるのだ。
かう思ふと、渠には女の方も亦さうではないかと云ふ考へが起つた。この頃、かの女は非常に愛着を増した。少しでも男を自分のそばから離れさせまいとする。が、それは男を先づそとに見えない心臟や肺のあたりからがつ/\とかじつて、つひにはその全身をかの女の病熱と衰弱との喰ひ物にしてしまふのではなからうか?
自分の戀も純潔でなければ、お鳥のも亦利害を混濁してゐると見ながら、ランプの光に獸性が目覺めて、二つの肉その物の腐爛して行く姿を心のまなこに見詰めてゐる。そしてこちらの手あしに女の存在を知らせるのは、こちらがかの女に相分つた毒血のあツたかみである。
このまま死んで、腐つて、骨になつたら――? さうだ、その時は、
「二つのしやりかうべ!」恨みもない、執着もない、全く關係のないあかの他人だと渠は考へた――そして、また他人の寢ごとは却つてはツきり聽えるものだと誰れかが云つたことを。
寢てゐる病人はまたうなされ出したが、今度は何かの怨靈が盤石の重りを以つて息の根を押し止めようとしてゐるのを、四苦八苦のもがきで逃げようとするやうなありさまがあり/\と見えた。兩うでを空に開いて、
「あアー! あアーア、ア、アー」と叫んだ時は、怨敵の姿も見えたかのやうに、義雄は三たびぎよツとした。かの女は目をきよろりと明けてこちらの驚いた顏を見た。
「何か云うた?」ぼんやりとほほ笑んでる。
「うなされてゐたよ。」
「さう――夢を見て、苦しかつた。」
「――」義雄はただかの女の顏を冷やかにのぞき込んで、寒い深夜のどこかそとを想像して見た。千代子が神社か大木の蔭で藁人形の釘を打つてゐたのではないか知らんと。