泡鳴五部作 02 毒薬を飲む女

5話

2,911字 約6分 2016年10月22日 公開

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「念の爲めに聞いて置きますが、な。」音樂倶樂部の幹事の一人杉本博士の聲だ。

「この會では、正當な婦人でなければ出入りさせないことになつてゐますが、君はあの婦人に關係はないでせう、な?」

「關係!」義雄は、同倶樂部の演劇研究部へ鶴子と云ふ女をモデルに入れる爲め紹介しにつれて行つた時のことを思ひ出してゐた。無論關係はなかつたが、その時考への中にあつた痛いところを突かれたので、それを隱す爲めにわざとらしく胸をそらせた。

 こんな思ひ出に冷汗をかく氣がして、義雄は今夜の演奏會を小さくなつて見渡すと、あの夜、あの女や渠と共に、三味線につれて新工風(くふう)國風(くにぶり)舞踏の一なる、「木曾の御嶽(おんたけ)さん」を稽古し、トコセ、キナヨ、ドン/\と云ふかけ聲などを擧げたりした連中は、すべてあちらこちらの椅子に陣取つてゐる。渠の早く目に付いたのは、博士――某銀行の頭取――某富豪の息子で、義太夫に上手なもの――常任幹事の細君――踊りのモデルなる濱野孃――。

 義雄は、演奏藝術に對する純粹な感興によりも、(むし)ろ周圍の人々との關係に醉つてしまひながら、有樂座の下の眞ン中ごろで、通り道に接する椅子を、自分と並んで占領してゐる女が、さきに演劇のモデル志願を他の或理由でたツた一日で斷念したあの女のやうな美人でないのを、且田舍ものじみてゐるのを、誰れにも見られたくなかつた。が、いづれも美しい女連が先づ見のがさなかつた。

「田村さん、田村さん!」常任幹事の細君が廊下で義雄を捕へて、「あなた、今晩は、奧さんと御一緒?」

「え――」

「嘘でせう」と、濱野孃は、細君と目くばせしながら、踊りの時のやうにからだをしなやかに動かせた。「それで、この頃は不勉強、ね――トコセキナヨも、富本も。」

「‥‥」どうしておれの女房でないのを知つてるだらうと思つた時、ふと千代子が曾て、同倶樂部の素人(しろうと)試演會があつた時――その時、けふも來てゐる理學士が研究の爲めに習つてる踊りのうちに「保名(やすな)の狂亂」を踊つたが、――義雄の紹介も待たないで、いつもの出しや張り根性で、勝手に杉本博士に面會し、うちのがいつも御厄介になりましてなどと入らざらん挨拶をしたのに思ひ及んだ。あの時見てゐたに相違ないと氣が付いたが、ただ二人の美しい衣物の着こなしや、からだのしなやかさにいい感じを與へられながら、何げなく、「どうせ僕にやアどツちも駄目ですから、ね。」

「駄目ツて」と、細君があまえるやうに(しな)をして、「稽古おしなさいよ――あたし大分富本が進みました、わ。」

「あすからでも、つづけて()らツしやいよ。」

「もう、僕にやア興味がなくなつたのでせう。」かう云つて、渠は樺太に於ける事業に對する誇りを(ひそ)かに胸に踊らせた。

「どうです、田村君、あの歌澤は?」番組の第四が終つてから、博士は義雄に立ち話をした。「富士の白雪などは最も面白いぢやアありませんか?」

「ちよツとひねくれて、含蓄があるやうなところが、ね、お宅で初めて聽いた時から面白い物だと思ひました。」

「さうでした、な、君は歌澤再興者の一人です。」博士のかうした自信を交へた誇張的な挨拶も、この流派の再びあたまをあげて來た當時であつたから、義雄には不愉快ではなかつた。

 番組第五の長唄「綱館(つなやかた)」が六左衞門等の(いと)で進行中、伊十郎が例の通り自慢らしく大きな音をたてて鼻をかんだのが、つい厭になつた爲め、氣を變へようとして席を立つた。すると、義雄は出口に近い一番(うし)ろの、誰れもゐない一列の椅子の一つに腰かけて、黒い羽二重の羽織りを着た千代子が、痩せこけた顏から兩の眼を飛び出させるやうにぎろ/\させて、こちらを見てゐるのに出くはした。

「こいつだ、な、お鳥を何かの手段で呪つてると云ふのは!」直ぐにもなぐり付けたかつた。が、あたりにこの會の内輪に屬する連中がゐるので、からだ中にみなぎる怒りの顫へを微笑にまぎらせ、そツとその前の椅子に行きながら、成るべく小さな聲で、「お前も來たのか?」

「お目出たうございます!」

「‥‥」渠は吹き出したかつたが、かの女の多少は遠慮してゐるらしい聲が、持ち前の癇性(かんしやう)を運んで、ぴんと靜かな聽衆の耳に響いたと思はれたので、この演奏會のレコード破りをやつたやうな申しわけ無さを感じた。

「あなたばかりがいいことをして」と、こちらばかりに恨めしさうな目を注いで、「うちのものはどうするんです?」

 濱野孃や常任幹事の細君がじろ/\こちらを見てゐた。義雄は腰をかけたでもなくかけないでもなく、かの女に向つて椅子の背にもたれてゐるのに氣がついた。

 なほいつものやうな事を千代子が云つてるので、義雄は默つて廊下へ出てしまつた。が、かの女はついても來なかつた。

 ふら/\歩きながら、暫く氣を落ちつけて見ようとしたが、どうしても義雄の怒りと不面目な氣とが直らなかつた。

「千代子が來てゐるから、きツと面倒が起る。直ぐ歸れ」と、名刺の裏へ鉛筆で書き付け、案内の女に託したら、

「隣りのお方が取つてしまひました」と云つて、歸つて來た。

 渠が扉に付いてるガラス窓の羅紗をあげて、のぞいて見ると、渠の席へちやんと黒い羽二重の紋付きがかけて、メリンス無地の牡丹色の被布(ひふ)と並んでゐる。そこばかりが見すぼらしいやうに思はれて、お鳥をつれて來るのではなかつたと後悔された。()めて被布が道行きで、道行きがメリンスなどでなく、且、都會じみた柄であつたらいいのに――かの女がいい氣になつて着てゐるのを幸ひに、何も新調してやらないのも、あんな下らない病氣の爲めに、かの女の病院通ひの入費がかさんだ爲めだ。

「馬鹿々々しい!」渠は自分で自分を非難しながら、別な扉から這入り、夫婦で來てゐる大野のそばに行き、渠に廊下へ出て貰ふやうに頼んだ。

「僕もさツきから」と、大野は酒くさい息を吹きながら、「何か事件が起るぞと云つてたのだ。困つた、ねえ。」

「兎に角、君が行つて何とかこの場だけは無事に濟ませて呉れ給へ。」

「何でも君の細君を一先づ外へ出して、なだめるんだ、ねえ。」

「ぢやア、頼む!」

 義雄はまた扉の窓からのぞくと、新式な洋服を着た紳士然たる友人が聲をひそめるやうに千代子の顏に近づいてゐると、かの女は何か云つて、つんけん/\と顎をあげてゐるのが見える。氣違ひ聲がここまで聽えるやうだ。

 やがて大野は出て來たが、

「駄目、駄目!」首をふりながら、「相變らず分らない、ねえ。おれの云ふことなんか、田村の友人だから、信じないツて。」

「困る、なア。」

「今夜こそ逃がさないで、(かた)をつけると云つて、――ちやんと片手で」と、大野は口を結び、目を据ゑ、ちから強く握つた右の手を出して見せ、「向うの袂をやつてゐるよ。」

「仕やうのない奴ぢやアないか?」

「それもいいとして、さ、一方も亦大膽ぢやアないか? 見ツともなく袂を握られながら、どうせ來たのだから、わたしもおしまひまでゐませうツて。」

「おい、君」義雄は堪らなくなつて、「今一度二人を呼び出して呉れ給へ――どんなことが起るかも知れないから。」

「いやな役割だが、ねえ」と云ひながら、大野はまた這入つて行つたが、ぷり/\怒つて出て來た。「もうはふツとけ、はふツとけ――バーに行かう。」

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