泡鳴五部作 02 毒薬を飲む女

6話

5,857字 約12分 2016年10月22日 公開

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 東洋軒の二階でビールを飮みながら、大野は義雄を冷かしたり、慰めたりしたが、義雄の耳にはそれが(ろく)に這入らない程であつた。

 そのうち、長唄が濟んだかして、がや/\と食堂へ這入つて來たものがある。その間に常任幹事もまじつて來て、心配さうに二人に聽いた。

「どうしたのです?」

「實は、ねえ」と、大野が受けて、手短かにこのことのわけを話したので、義雄はそれにつづいて、

「どうもあなたに濟まないことがあつてはと思つて――どうだ、大野君、幹事の權利であの二人を追ひ出して貰はうか?」

「それにも及ばない、さ、おしまひまで聽きたいと云つてるし、僕からもこの場では必らず間違ひをするなと云つてあるから。」

「云つたツて、氣違ひが分りやアしない。」

「心配するにやア及ぶまい、あの樣子ぢやア、一方が惡く云やア、圖々しいから、無事に受けてるよ。」

 最後は呂昇(ろしよう)の柳だが、義雄は勿論、大野もそれを聽く氣にならなかつた。が、ビールに飽いた頃、もう終りが近からうと見に行つて見ると、「必らず草木成佛」のところで、語り手の一特色なるほがらかなラ行音が直ぐ義雄の耳に這入つた。

 (かれ)は大野夫婦の席の後ろの方から、お鳥と千代子との樣子を(ひそ)かに注意してゐたが、はねばかりが急がれる神經のいら/\する奧には、どうでもなれ、あの二人がどんな芝居をするか見てやらうと云ふやうな落ち付きもあつた。

「自分だけが早く出てしまへばわけアないぢやアありませんか」と、どこからとなく無言の聲が注意して呉れた。それが正面の二重舞臺の、敷きつめた赤い毛布の色が背後の金屏風に反射してゐる、その中央に据わつた赤い房が二つ下つた見臺のあたりからであつたやうにも聽えた。

「どうせ燒けツ腹だ」と、渠も亦無言で答へた。そして花でも降つて來さうな音樂に滿ちた空氣を、最後に於いて、出來るだけ澤山吸ひ込んで置かうと努めた。

 大野の細君の靜子がちよツと振り返つてこちらを見た。その所天(をつと)と同じやうに役者じみた所があつて、ちよツと微笑して見せるのにも、その圓く肉づいた頬ツぺたにまで表情が隘れてゐる。この女だ――姉よりも妹の方が眞面目だと義雄が批評したのを人づてに聽いて、曾て、わざ/\「不眞面目生」と稱して愛嬌ある手紙を渠によこしたのは。それから親しく行き來するやうになつたが、渠は、かの女の妹の眞面目腐つて田舍じみた傾向あるに反し、靜子は藝人じみても可なり垢ぬけした精神があるのを()みして、かの女を自分等の集まる或詩人會へつれて行つたこともある。

 あれはかの女が大野と結婚する一二年前のことであつた。世間では、大野より以前に義雄はかの女と關係があつたと云つてる。それでさへ詰らないと思つてるのに、この男女がいよ/\結婚するとなつて、大野が先妻を虐待すると云ふごた/\の時、義雄が大野の先妻に同情したところから、またそれにもきたない關係があつたと大野がはの友人等に云はれた。靜子からは、また、かの女と大野との間を圓滿に成立させる責任があるやうに頻りに云つてよこして、義雄に訴へるやうな又渠の態度に抗議するやうな言葉があつた。

 實際、大野と靜子との手を握らせたのは――洋畫家たる大野の或特別な畫にかの女自身をして適當なモデルを供せしめる爲め――義雄の所爲(せゐ)である。

「僕は、然し、結婚しろと云つて紹介したのではなかつた。」かう、義雄は靜子に語つたことがある。それは、然し、甚だ未練らしい言葉だと、渠自身も思つた。その時であつた――渠は、かの女と大野とが關係の途中で中たがひをしたのを仲裁する爲め、大野を日比谷公園の松本樓に待たせて置いて、靜子をそこへつれて行つたのは。

 大野は既に大分醉つてゐた。その上また義雄とビールやウヰスキを重ねてから、そこを出ると、電燈のちらつく樹かげで大野はふら/\と倒れかけた、靜子は、

「あぶない」と叫んで、抱きとめようとしたのを、

「大丈夫です」と、身づから踏みとまつて、大野は太い樹の幹に片手を支へた。義雄はこれを見て、

「相變らず芝居をやる男だ」と思つた。

 靜子をまかされた義雄は、かの女と共に急いで赤電車に乘つたが、車中から窓の外へ今喰つた物を吐いた。渠の背中をかの女はさすつてゐた。そしてかの女は電車から下りると、藥屋を叩き起して寶丹を買つた。

 靜子姉妹は新派に屬する日本畫家で、女二人の腕でその母と靜子の先夫の子とを養つてゐた。

 義雄は寶丹を飮ませられ、暫時その家に寢かせられた。やがて車が來て、それに乘つた時、またへどを吐いた。

 こんな記憶の間から「母の柳」が引かれて行く後ろ姿を義雄はまざ/\と見た。すると、

「田村さアん、田村さアん」と云ふ女の聲が青山あたりの電車の窓から聽える。

 さうだ、あれは、義雄の友人たる某漢詩人が有名な事件で殺されたその葬式の掛り員として、義雄等が人力車を(つら)ねて青山に向ふ途中のことであつた。靜子が妹と一緒に九段行きに乘つてゐて叫んだのださうだが、義雄は後にかの女から、

「すまアし込んでゐて、一向氣が付かないんだもの」と、聽かせられた。かの女がまだ大野との間に親しみも何もなかつた時のことだとは云へ、その場の情熱に燃えると、前後もかまはず、

「何て向う見ずの女だツたらう」と渠は思ひ出して、獨り微笑をもらした。

 そして段々と自分の神經が舞臺の氣分に一致して來たと思ふ時、惜しいやうに幕が下つた。

 どや/\と聽衆が出て行くあとから、廊下の外の石段の上で、義雄と靜子とお鳥と千代子とが落ち合つた。

 千代子はお鳥の袂を片手でしツかり握つてゐる。

「見ツともないから、よせ?」と、義雄はあたりへ聽えないやうに云つた。

「よう御座います」と、これはまた皆にも聽えるやうに、「わたしの勝手です!」

 お鳥は何も云はないで、微笑にまぎらせてゐようとしてゐる。

「うちのはどうしたんでせう、ねえ」と、靜子は首を延ばして方々を見まはした。

「僕が見て來ます。」義雄は殆どがらんどうになつた聽衆席をのぞいて見たり、廊下をあちらこちら行つたりした後、便所のそとのところで大野が巡査と何か云ひ合つてゐるのに出くはした。

「そんな誤解をされちやア、僕は實に迷惑します。」

「誤解ぢやアない、實際ではありませんか?」

「馬鹿なことを!」

「馬鹿とは何だ?」

「どうしたんだ、君?」義雄はそこへ口を出した。

「なアに、ね」と、大野はふり向いて、怒りの爲めに聲まで顫はせて、「僕が君の細君に接吻をしてゐたと云ふんだ。」

「そりやア間違ひです――實は、ちよツとした事件の爲めに――」

「まア、君云はないでも濟むことは云はないでもいいんだ――野暮くさい誤解を解きやア。」

「何が野暮くさい?」巡査が赤い顏をしてゐるのは、息の臭ひで、義雄には、酒を飮んでゐると思はれた。

「まア、君」と、巡査をなだめるやうに、「僕が僕の妻に用があつて(こと)づてを頼んだので――そんな野暮は云ひ給ふな――君は酒を飮んでるぢやアないか?」

「おれは決して醉つてをらん!」

「醉つてないかも知れないが、飮んでるのは事實でせう、顏に現はれてるから。」

「おれだツて、茶の代りに酒ぐらゐは飮む。」

「飮むのは御勝手ですが、それが爲めに云ひがかりを云はれちやア――」

「何が云ひがかりだ?」

「實際、僕がこの友人に對してすまないことになるのですから。」

「風俗壞亂だ――兎に角、警察署まで行つて貰はう。」

「何が風俗壞亂だ――馬鹿々々しい!」大野はかう云つて、巡査をにらみ付けた。

 靜子がいつのまにか後ろへ來てゐたが、

「あなたの爲めに」と、泣き出しさうな顏をして義雄に向ひ、「こんな詰らない目に會ふのだ、わ。――さア、行きませう」と、大野の上衣の末を引ツ張つた。

「また風俗壞亂だぞ」と、大野は押さへた聲で叫んだ。

「馬鹿なことを云ふにも程があるぢやアないか」と、義雄は巡査にも聽えるやうに靜子に云つて、皆と共に建物の外へ出た。

 晴れた夜で、夜ふけの寒い風が星々の光をちらつかせてゐた。

「事件は何でもないのですから」と云ひながら、倶樂部の常任幹事もついて來て、當の巡査をなだめてゐたやうであつたが、義雄は巡査がなほうるさく從つて來るのを見て、

「もう、あなたがついて來るにやア及びますまい。」

「何だ、警察まで來なけりやならん。」

「馬鹿を云ふな!」大野もまたむきになつた。「貴さまは醉つてるんだぞ!」

「貴さまとは警官に向つて無禮だぞ!」巡査も少し身がまへをして、「おれをそんなに馬鹿にする氣なら、鐡拳を(くら)はせて見せる!」

「う、う、う、なぐるなら、なぐつて見ろ! 醉ツ拂ひの警官に、人民をなぐる權利があるなら、なぐつて見ろ!」

「手出しをすりやア、おれも承知しないぞ!」義雄も大野の勢ひにつり込まれて、腕がむづ/\してゐた。

「まア、さう手荒いことは云はないでも」と、幹事が云つてるところへ、別な巡査がやつて來て、この二人で兩方を引き分けた。

 巡査が去つてから、幹事は云つた。

「有樂座で歡待しないからと云つて、あの巡査がその鬱忿(うつぷん)をこちらへ漏らすのだから、たまりません。」

「不都合極まる」と、まだ大野は納まらなかつた。

「いろんなことが起つて、すみませんでした」と、義雄は幹事に詫びたが、あらゆる面目を失つてしまつた氣がした。

 見まはしたが、三名の女はいづれもそこにゐなかつた。

 數寄屋橋(すきやばし)から日比谷公園に至る道で、女どもの後ろに追ツ付いたが、靜子が昂奮した口調で早口にお鳥に物を云つてるのが聽えた。

「だから、ね、早く田村さんと別れるやうにおしなさい――どうせ、いつか、棄てられるにきまつてますから。」

「‥‥」

「ね」と、のぞき込むやうにして、「分りましたか?」

「‥‥」お鳥が高いあたまを少し(うなづ)かせるのが見えた。

「あなたも」と、靜子はちよこ/\千代子のがはにまはり、「あまりひどいでせう?」

「何がひどいのです!」千代子はその方へ向いて、顎に力を入れながら、「わたしが頼みもしないことを持つて來て、大野さんがぐづ/\云つたのです。」

「馬鹿を云ふな!」義雄も默つてゐられなくなり、つか/\と出て行つて、妻と、それから今の巡査とに對して押さへてゐた忿怒(ふんぬ)を一緒にして、この言葉と同時に、かの女の横ツつらを思ひ切りなぐつた。

「そんな野蠻なことを――」靜子はとめようとした。

「おれが貴さまを追ツ拂ふやうに大野君に頼んだのだ!」

「おほきなお世話です――かうしてつかまへてる以上は、うちまで引ツ張つて行つて處分を付けます。警察へでも、どこへでも突き出してやる!」

「あなたも少しお考へなさいよ、田村さんの――」

「考へた上のことですから、ね!」

「わたし、もう、知らん!――田村さんは女をみんなおもちやにしてしまはうとするのです」と、靜子は立ちどまつて泣き出した。すすり上げながら、「そんな人でもなかつたのに!」

 義雄は引き入れられるやうな感じがして、かの女の姉妹と直接に行き來してゐた時のことを今一度親しく思ひ浮べさせられた。そばへ行つて、

「兎に角、ねえ、奧さん、これから大野君の家へ行つて、あいつによく以後こんなことをしないやうに話して貰ふつもりですから。」

「兎に角、奧さん」と、大野も千代子をなだめるやうに、「これから僕の家へいらツしやい。」

「わたし、不賛成です!」靜子はからだを振つて、その所天(をつと)から一歩を退いた。「田村さんのやうな人は、もう、來て貰ひたくありません。」

「貴さまにそんなことを云ふ」と、大野はおも/\しい聲を出して、「權利があるか?」

「わたしだツて、大野さんのところなどへちツとも行きたかアありません!」

「默れ!」義雄は妻の言葉を制してから、友人に向ひ、「君まで夫婦喧嘩をしちやア困るぢやアないか!」

「あいつが獨り勝手な横暴なことを云やアがるから!」

「ぢやア、わたしはあなたの家庭をおいとま致します。」

「勝手にしやアがれ!」

「そんなことを云ふなよ、君。」

「なアに」と、大野はまた巡査に向つた時のやうに怒りの聲を顫はせて、力づよく、「生意氣なことを云やアがる!」

 お鳥はただ默つて、何かの機を見てゐたのだらう、この時、さきを握られてゐる自分の袂を兩手で(つか)んで、うん―うん―うんと云ふやうに、左右に三度振つたかと思ふと、それが千代子の手から離れた。

「あんなことをしましたよ」と、千代子は甘えるやうに義雄を見あげたので、渠はいやで/\ならない妻がまだこツちに頼る氣があるのだと知つて、自分も逃げ出したくなつた。

 靜子はその家路とは反對の電車に乘つた――曾て義雄がかの女と一緒にそこから乘るが早いか、窓からへどを吐いた方角へだ。

 お鳥はその脊高い眞ツ直ぐなからだをそと輪に運んで、靜子とは反對の方へずん/\行つてしまふ。その歩き方は持ち前だが、これを(うし)ろから見るたびに、かの女のまだ本統に直らない(しも)の病を義雄は思ひ出さずにはゐられないのであつた。

「今夜は、おいやでせうが、ね、どうしても離れませんよ」と云つて、千代子は渠がかの女から綿服主義にさせられてゐるそのごつ/\した羽織りの袂を握つた。

「今、僕が逃げたら」と、言葉を英語に換へて、「こいつが君の重荷だから、ね――君、先づ電車に乘り給へ。」

「君ア色をとこだよ。まア、やさしくついて行つてやり給へ。――僕はもツと醉ひのさめるまで散歩する。」

「ぢやア」と、邦語(はうご)に返つた、「失敬するよ。」

「僕のワイフは、實際、飯田町へ歸つたのか、なア?」

「大丈夫、君の方へまはつて行つたの、さ――どいつも、こいつも、おどかしやアがつて!」

「わたしは一生懸命です、おどかすの、おどかさないのなど云ふさわぎぢやアありません!」

「默れ! 人をさわがせたぢやアないか?」

「まア、奧さん、お靜かに」と、大野は少しうつ向きになり、兩手をうは向きに、低く擴げて、一歩を退いた。

「また芝居をしてゐる。」義雄はかう思ひながら、「ぢやア、失敬するよ。」

「おれは獨りぽツちだ、なア。」

 大野は投げ出すやうに云つて、力なささうにつツ立つた。多くの街燈から落ちる光が混亂して、渠の姿を舞臺の脚燈が反對にうへから照らして、明暗の光をそこに集めたやうに見えた。そして電車の響きさへ丁度途切れて、相變らず外套が欲しいやうな寒い風が吹いてゐた。

「失敬」と、今一度義雄は大野の方に向いたまま云はなければならなかつた。

 大野は軍人のやうな直立の姿勢に直り、右の手を横顏のところまであげ、ゆツくりした、低い、沈んだ調子で、同じく、

「失敬」と云つて、靴の底で少しつま立つと同時に、首を前方へ傾けた。

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