10話 三十三
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「こっちへ下さいよ、厭ですよ。」
と端へかけた手を手帳に控えて、麦畠へ真正面。話をわきへずらそうと、青天白日に身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
と唯笑う。
「絵をお描きになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、些と拝見いたしたいもんです。」
手を放したが、附着いた肩も退けないで、
「お見せ申しましょうかね。」
あどけない状で笑いながら、持直してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁は、この人の手にあたかも蝶の翼を重ねたようであったが、鉛筆で描いたのは……
一目見て散策子は蒼くなった。
大小濃薄乱雑に、半ばかきさしたのもあり、歪んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○《まる》と□《しかく》△《さんかく》ばかり。
「ね、上手でしょう。此処等の人たちは、貴下、玉脇では、絵を描くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時までもこうしていますのに、唯いては、谷戸口の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
大層評判が宜しゅうございますから……何ですよ、この頃に絵具を持出して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
この円いのが海、この三角が山、この四角いのが田圃だと思えばそれでもようござんす。それから○《まる》い顔にして、□《しかく》い胴にして△《さんかく》に坐っている、今戸焼の姉様だと思えばそれでも可うございます、袴を穿いた殿様だと思えばそれでも可いでしょう。
それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色をしても可いんですし、名を知らない死んだ人の戒名だと思って拝んでも可いんですよ。」
ようよう声が出て、
「戒名、」
と口が利ける。
「何、何んというんです。」
「四角院円々三角居士と、」
いいながら土手に胸をつけて、袖を草に、太脛のあたりまで、友染を敷乱して、すらりと片足片褄を泳がせながら、こう内へ掻込むようにして、鉛筆ですらすらとその三体の秘密を記した。
テンテンカラ、テンカラと、耳許に太鼓の音。二人の外に人のない世ではない。アノ椿の、燃え落ちるように、向うの茅屋へ、続いてぼたぼたと溢れたと思うと、菜種の路を葉がくれに、真黄色な花の上へ、ひらりと彩って出たものがある。
茅屋の軒へ、鶏が二羽舞上ったのかと思った。
二個の頭、獅子頭、高いのと低いのと、後になり先になり、縺れる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許からそなたへ続く青麦の畠の端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子。
汚れた萌黄の裁着に、泥草鞋の乾いた埃も、霞が麦にかかるよう、志して何処へ行く。早その太鼓を打留めて、急足に近づいた。いずれも子獅子の角兵衛大小。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷の出口を突切り、紅白の牡丹の花、はっと俤に立つばかり、ひらりと前を行き過ぎる。
「お待ちちょいと、」
と声をかけた美女は起直った。今の姿をそのままに、雪駄は獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐りになる。
ト獅子は紅の切を捌いて、二つとも、立って頭を向けた。
「ああ、あの、児たち、お待ちなね。」
テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の面に撥が飛んで、ぶるぶると細に躍る。
「アリャ」
小獅子は路へ橋に反った、のけ様の頤ふっくりと、二かわ目に紅を潮して、口許の可愛らしい、色の白い児であった。