春昼後刻

10話 三十三

1,415字 約3分 2006年8月26日 公開

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「こっちへ下さいよ、(いや)ですよ。」

 と(はし)へかけた手を手帳に控えて、麦畠(むぎばたけ)真正面(まっしょうめん)。話をわきへずらそうと、青天白日(せいてんはくじつ)に身構えつつ、

「歌がお出来なさいましたか。」

「ほほほほ、」

 と(ただ)笑う。

「絵をお()きになるんですか。」

「ほほほほ。」

「結構ですな、お楽しみですね、()と拝見いたしたいもんです。」

 手を(はな)したが、附着(くッつ)いた肩も退()けないで、

「お見せ申しましょうかね。」

 あどけない(さま)で笑いながら、持直(もちなお)してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の枚頁(ページ)は、この人の手にあたかも蝶の(つばさ)を重ねたようであったが、鉛筆で()いたのは……

 一目(ひとめ)見て散策子は(あお)くなった。

 大小濃薄(のうはく)乱雑に、(なか)ばかきさしたのもあり、(ゆが)んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、○《まる》と□《しかく》△《さんかく》ばかり。

「ね、上手(じょうず)でしょう。此処等(ここいら)の人たちは、貴下(あなた)玉脇(たまわき)では、絵を()くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、何時(いつ)までもこうしていますのに、(ただ)いては、谷戸口(やとぐち)の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。

 大層評判が(よろ)しゅうございますから……(なん)ですよ、この頃に絵具(えのぐ)持出(もちだ)して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。

 この(まる)いのが海、この三角が山、この四角(しかく)いのが田圃(たんぼ)だと思えばそれでもようござんす。それから○《まる》い顔にして、□《しかく》い胴にして△《さんかく》に坐っている、今戸焼(いまどやき)姉様(あねさん)だと思えばそれでも()うございます、(はかま)穿()いた殿様だと思えばそれでも()いでしょう。

 それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な顔色(かおつき)をしても()いんですし、名を知らない死んだ人の戒名(かいみょう)だと思って(おが)んでも()いんですよ。」

 ようよう声が出て、

戒名(かいみょう)、」

 と口が利ける。

(なに)、何んというんです。」

四角院円々三角居士(しかくいんまるまるさんかくこじ)と、」

 いいながら土手に胸をつけて、(そで)を草に、太脛(ふくらはぎ)のあたりまで、友染(ゆうぜん)敷乱(しきみだ)して、すらりと片足片褄(かたづま)を泳がせながら、こう(うち)掻込(かきこ)むようにして、鉛筆ですらすらとその三体(さんたい)の秘密を(しる)した。

 テンテンカラ、テンカラと、耳許(みみもと)太鼓(たいこ)の音。二人の(ほか)に人のない世ではない。アノ椿(つばき)の、燃え落ちるように、向うの茅屋(かやや)へ、続いてぼたぼたと(あふ)れたと思うと、菜種(なたね)(みち)を葉がくれに、真黄色(まっきいろ)な花の上へ、ひらりと(いろど)って出たものがある。

 茅屋(かやや)の軒へ、(にわとり)が二羽舞上(まいあが)ったのかと思った。

 二個(ふたつ)(かしら)獅子頭(ししがしら)、高いのと低いのと、(あと)になり先になり、(もつ)れる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、足許(あしもと)からそなたへ続く青麦の(はたけ)の端、玉脇の門の前へ、出て来た連獅子(れんじし)

 汚れた萌黄(もえぎ)裁着(たッつけ)に、泥草鞋(どろわらじ)の乾いた(ほこり)も、(かすみ)が麦にかかるよう、(こころざ)して何処(どこ)()く。(はや)その太鼓を打留(うちや)めて、急足(いそぎあし)に近づいた。いずれも子獅子の角兵衛(かくべえ)大小(だいしょう)。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに久能谷(くのや)の出口を突切(つッき)り、紅白の牡丹(ぼたん)の花、はっと(おもかげ)に立つばかり、ひらりと前を()き過ぎる。

「お待ちちょいと、」

 と声をかけた美女(たおやめ)起直(おきなお)った。今の姿をそのままに、雪駄(せった)は獅子の蝶に飛ばして、土手の草に横坐(よこずわ)りになる。

 ト獅子は(くれない)(きれ)(さば)いて、二つとも、立って(かしら)を向けた。

「ああ、あの、()たち、お待ちなね。」

 テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の(おも)(ばち)が飛んで、ぶるぶると(こまか)(おど)る。

「アリャ」

 小獅子は(みち)へ橋に()った、のけ(ざま)(あぎと)ふっくりと、(ふた)かわ()(こう)(ちょう)して、口許(くちもと)可愛(かわい)らしい、色の白い()であった。

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