春昼後刻

11話 三十四

1,420字 約3分 2006年8月26日 公開

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「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをして(ひっ)くりかえらなくっても()いんだよ、可いんだよ。」

 と(おさ)えつけるようにいうと、ぴょいと立直(たちなお)って(かしら)(うずたか)く大きく突出(つきで)た、(くれない)の花の(ひさし)の下に、くるッとした目を《みは》って立った。

 ブルブルッと、(あと)を引いて太鼓が()む。

 美女(たおやめ)は膝をずらしながら、帯に手をかけて、()り上げたが、

「お待ちよ、今お(あし)(あげ)るからね、」

 手帳の紙へはしり(がき)して、一枚手許(てもと)引切(ひきき)った、そのまま獅子をさし招いて、

「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その(かど)の二階家へ行って取っておいで。」

 留守へ言いつけた為替(かわせ)と見える。

 後馳(おくれば)せに散策子は(たもと)へ手を突込(つきこ)んで、

(こまか)いのならありますよ。」

(いいえ)()うござんすよ、さあ、(あに)や、行って来な。」

 (ばち)を片手で(ひッ)つかむと、恐る恐る差出(さしだ)した手を素疾(すばや)引込(ひっこ)め、とさかをはらりと振って()く。

「さあ、お前こっちへおいで、」

 小さな方を膝許(ひざもと)へ。

 きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、(じっ)と見て、

幾歳(いくつ)なの、」

八歳(やッつ)でごぜえス。」

(おっか)さんはないの、」

「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」

「お前は知らないでもね、母様(おっかさん)の方は知ってるかも知れないよ、」

 と()と手を袴越(はかまごし)に白くかける、とぐいと引寄(ひきよ)せて、横抱きに抱くと、獅子頭(ししがしら)はばくりと仰向(あおむ)けに地を払って、草鞋(わらんじ)は高く()った。(とり)(はね)(かざり)には、椰子(やし)の葉を吹く風が渡る。

貴下(あなた)、」

 と落着(おちつ)いて見返って、

「私の()かも知れないんですよ。」

 トタンに、つるりと(かいな)(すべ)って、獅子は、(さかさ)にトンと返って、ぶるぶると身体(からだ)をふったが、けろりとして突立(つッた)った。

「えへへへへへ、」

 此処(ここ)(いきおい)よく兄獅子が引返(ひきかえ)して、

「頂いたい、頂いたい。」

 二つばかり天窓(あたま)()ったが、小さい方の背中を突いて、テンとまた(ばち)を当てる。

()いよ、そんなことをしなくっても、」

 と(もすそ)をずりおろすようにして()めた顔と、まだ(つか)んだままの(おおき)な銀貨とを(たがい)見較(みくら)べ、二個(ふたり)ともとぼんとする。時に朱盆(しゅぼん)の口を開いて、(まなこ)(かがやか)すものは何。

「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」

 とその○□△を楽書(らくがき)の余白へ、鉛筆を真直(まっすぐ)に取ってすらすらと春の水の(なび)くさまに走らした仮名(かな)は、かくれもなく、散策子に読得(よみえ)られた。

君とまたみるめおひせば四方(よも)(うみ)

水の底をもかつき見てまし

 散策子は思わず海の(かた)(きっ)と見た。波は(たいら)かである。青麦につづく紺青(こんじょう)の、水平線上(ゆき)一山(いっさん)

 富士の影が(なぎさ)を打って、ひたひたと薄く(かぶ)さる、藍色(あいいろ)の西洋館の(むね)(たか)く、二、三羽(はと)(はね)をのして、ゆるく手巾(ハンケチ)()り動かす(さま)であった。

 小さく(たた)んで、(おさな)い方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした(おとがい)で、合点々々(がてんがてん)をすると見えたが、いきなり二階家の方へ()こうとした。

 使(つかい)を頼まれたと思ったらしい。

「おい、そっちへ()くんじゃない。」

 と立入(たちい)ったが声を懸けた。

 美女(たおやめ)莞爾(にっこり)して、

(ただ)持って行ってくれれば()いの、何処(どこ)へッて(あて)はないの。落したら其処(そこ)でよし、失くしたらそれッきりで(いい)んだから……(ただ)心持(こころもち)だけなんだから……」

「じゃ、(ただ)持って行きゃ()いのかね、奥さん、」

 と聞いて(うなず)くのを見て、年紀上(としうえ)だけに心得顔(こころえがお)で、(あぶな)っかしそうに仰向(あおむ)いて吃驚(びっくり)した(ふう)でいる幼い方の、獅子頭(ししがしら)背後(うしろ)へ引いて、

「こん中へ入れとくだア、(やっこ)、大事にして持ッとんねえよ。」

 獅子が並んでお辞儀(じぎ)をすると、すたすたと駈け出した。後白浪(あとしらなみ)に海の(かた)(くれない)母衣(ほろ)翩翻(へんぽん)として、青麦の根に(かす)()く。

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