小坂部姫

16話 不思議の旅 一

3,534字 約7分 2012年1月28日 公開

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 そこにたたずんでいる眇目の男よりも、いま目の前に沈んでゆく侍従の運命が小坂部には気遣われた。かれはあわてて洞穴から這い出すと、眇目の男は手をふってさえぎった。

「この川は瀬が早い。一度流されたらもう救われませぬ。」

 彼の言うのも嘘ではないらしい。采女は岩から岩をつたって、水に沈んだ侍従の姿を見いだそうと燥っているらしかったが、結局それは無効に終ったらしく、失望の眼をこなたの丘にむけて、とても救われない侍従の運命を悲しげに説明するように、渦巻く水のおもてを指さして示した。それでも小坂部は眇目の男の手の下をくぐりぬけて、丘の下へころがるように駈け降りて行った。

「采女。侍従どのは……。」

「どこへ吸い込まれたやら姿も見えませぬ。」と、采女はいたずらに落葉の上を見まわしていた。

「落葉に埋もれてよくも見えませんが、岩と岩との間には思いのほかに深い(ふち)があると見えまする。」

 少しは水練の心得もありながら、采女は底の知れないこの河へむざともぐり込むのを躊躇していると、眇目の男も丘を降りて、しずかに岸のほとりに近寄って来た。

「ここらの川は瀬も早い、底も深い。気の毒じゃが、あの人はもう救われぬ。おあきらめなされ。」と、彼は小坂部に言ったと同じように、采女にも注意をあたえた。

 それでも、もしや浮かびあがるかと、小坂部と采女とはしばらく水の上をうかがっていたが、一旦吸い込まれた女の姿はふたたびかれらの眼に映らなかった。むこう河岸では鷄の声がつづいてきこえた。

「夜が明け放れました。早うお越しなされ。」と、眇目の男はうながすように言った。

 彼はどこから貰って来たのか、古びた麻袋に入れた粟を掴み出した。ふちの欠けた素焼の土鍋に川の水をすくい込んで、もとの洞穴へもぐり込んだかと思うと、更にそこらから枯枝を拾いあつめて来て、それに(ひうち)の火をすり付けて、粟の粥を炊きはじめた。小坂部と采女とはまだ川のほとりを立ち去らなかった。

 川の底へ深く沈んでしまったのか、但しは岩と岩との下をくぐって川下の方へ遠く押し流されてしまったのか、侍従はついにその姿をあらわさないので、二人はもう根負けがしてしまった。不幸な女房の運命を悼みながら、かれらはしおしおともとの洞穴へ戻って来ると、枯枝の火は威勢よく燃えあがって、土鍋からは温かそうな白い煙りをふいていた。朝の寒さの身にしみて来た二人は黙ってその火のまわりに這い寄ると、眇目の男も黙って鍋の煙りを眺めていた。

 あたたかい粟の粥をすすって、小坂部も采女も余ほどはっきりした心持になった。眇目の男は枯枝の火を踏み消して、さきに立ってこの洞穴をぬけ出すと、あさひはそこらに散り敷いている落葉を一面に美しく照らしていた。二人は黙って彼のあとを付いて行った。ゆく時に、二人は川のおもてを再びのぞいたが、岩に()かれて白くむせんでいる水の上には、落葉がもつれ合って浮かんでいるばかりで、侍従の姿はやはり浮かび出なかった。小坂部の口からは低い溜め息がもれた。

 怪しい異国の男に伴われて、これから一体どこへ落ちてゆくのか、二人にはよく判っていないのであるが、半分は夢のような心持で唯おめおめと引き摺られて行くと、男は一里ほども川伝いにたどって行って、それから狭い河原を越えて、むこうの河岸のさびしい村に出た。人家はまばらに続いていて、その間には稲の黄ばんだ田も見えた。村を過ぎ、田圃(たんぼ)みちを越えて行くと、また低い丘の裾に行き着いた。男は二人を森の中に待たせて置いて、再びどこかへ食い物を探しに行ったが、今度は握り飯に乾魚(ほしうお)のあぶったのを取り添えて持って来た。こうして、ここで午飯(ひるめし)を食って、三人はまた黙ってあるき出した。きょうは風のないうららかに晴れた日で、ゆくさきに見える山々が真っ青な大空の下にくっきりと浮き出していた。そこらで小鳥のさえずる声も晴れやかにきこえた。路ばたには枯れ残った秋草などがしおらしく咲いていた。秋の旅――まことにすがすがしい気分であるべき筈であるが、小坂部も采女もやはり夢のようであった。かれらは自分たちの袂にからんで来る蝶のゆくえを見送ろうともしなかった。

 幾里あるいたか、もとより判らないが、行く行くうちに日は暮れかかって、三人はほの暗い野路をたどってゆくと、うしろの方から俄かにおびただしい人馬の音がきこえた。眇目の男は屹と見かえって、あわただしく二人に注意した。

「追っ手じゃ。草にかくれて……。」

 追っ手と聞いて二人もうろたえた。かれらは伊勢物語に見る武蔵野の落人(おちうど)のように、そこらの高い草むらをかき分けて身を忍ばせていると、やがて武者一騎が馬の腹にとどくほどの枯れすすきをざわめかして駈けて来た。

「人数は十四五人か、二十人。女の乗物を囲んで通ったを知らぬか。」と、彼は鞍の上から呼びかけた。

 眇目の男は無言で向こうを指さすと、武者はうなずいて馬に一鞭(ひとむち)あてた。つづいて十騎二十騎、あとには(かち)の者も七八十人付き添って、あき草の中を泳いで通った。

「もうよい。みな行き過ぎてしもうた。」

 男は草むらにむかって声をかけると、二人は狐のようにそっと這い起きた。小坂部は不審そうに、采女にささやいた。

「あの人数は屋形の者ともおぼえぬが……。」

「お屋形の者ではござりませぬ。桃井か、山名か、塩冶を追っ手の者と見申した。」と、采女も小声で答えた。

 いずれにしも、こんなところで彼等の眼にとまっては面倒である。首尾よく彼等をやり過ごしたのを喜びながら、二人は男のあとに付いて、この広い野を行きぬけると、やがて小さい村に出た、と思うと、采女は急に立ち停まった。

「あ、あの物音は……。」

 彼はさすがに武士である。自分の眼の前に黒く横たわっている村の中に、(つる)の音や太刀の音が微かにひびくのを早くも聞き付けたのであった。小坂部も思わず足を停めた。今しがた通り過ぎた人数が果たして塩冶を追っ手の者どもであるなら、落人はかしこの村で追い付かれたのであろう。足弱(あしよわ)を連れた塩冶の家来どもは目ざす所まで落ち延び得ないで、ここで都の討っ手に追い付かれて、とても叶わぬところとは知りながらも、必死に防ぎ闘っているのではあるまいか。今更それをどうして救うという方法もないのであるが、小坂部は塩冶の奥方の身の上が気にかかった。

「のう、采女、塩冶の人々が討っ手に囲まれたのではあるまいか。」

「わたくしも左様かと存じまする。」と、采女も悼ましげにささやいた。

「せめては奥方だけでも無事に救い出す(すべ)はあるまいかのう。」

「さあ。」と、采女は難儀そうに溜め息をついた。

 塩冶の奥方を救おうとするには、同士撃ちをしなければならない。同士撃ちはよんどころないとしても、敵は大勢である。そこへ采女一人が迂濶に斬り入ったところで、無事に奥方を救い出すことはおぼつかない。討っ手もおそらく奥方に眼をかけるに相違ない。それを斬りひらいて奥方を奪い出すのは、采女一人の力で成就しそうにも思われなかった。

「いずれにしても何分不安でござりますれば、わたくしが忍んで様子をうかがってまいりまする。」

 行こうとする采女を、小坂部はあわてて引き留めた。

「まあ、お待ちゃれ。わたしも一緒にゆく。」

 心の()いている二人は、そこにいる眇目の男のことなどは忘れてしまって、灯のかげの暗い村の方角へ駈け出した。村といっても、そこには五、六軒の人家がまばらに続いているばかりで、杉や榎らしい大木が路を挾んですくすくと立っているのが薄闇の中にも窺われた。闘いはその大木の二、三本を前にした小さい家の内そとを足場にして、追いつ追われつ(いど)み合っているらしく、小勢ながらも必死の敵をあしらいかねて、討っ手も少しく攻めあぐんでいるようにも見られた。

「流れ矢が危のうござりまする。」

 采女は小坂部に注意しながら、路ばたの大木のかげに身を忍ばせて、闘いの成り行きをしばらく窺っていると、やがてその家の奥から薄白い煙りがうず巻いて湧き出したかと思うと、紅い焔の舌が茅屋根を破ってへらへらと吐き出された。小勢の塩冶方は防ぎ疲れて、かれらの楯籠った家に火をかけて一度に自滅するのであろう。あの火のなかで塩冶の奥方も灰になるのかと思うと、小坂部は悲しさと悼ましさで胸がいっぱいに塞がってしまった。さりとて、もう見殺しにするよりほかはない。かれはその火を仰ぎながら、ひざまずいて手を合わせた。

 なよ竹も、小夜衣も、こうなっては問題ではない。高武蔵守師直という無道人に(みい)られた、塩冶の奥方という貞淑の婦人は、丹波路の名も知れない小さい村の百姓家で、その若い命を焼かれてしまうのである。小坂部は今更のように罪ぶかい自分の父を呪わずにはいられなかった。

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