18話 不思議の旅 三
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「権右衛門。」と、小坂部はまず声をかけた。「そなたはここへ何しに来たのじゃ。」
「お迎いにまいりました。」と、権右衛門はさすがに会釈した。「大殿、若殿、お二方のお指図によりまして……。」
「もうこうなったら誰の指図でもわたしは戻らぬ。立ち帰って父上兄上にもそう申し上げい。」
「それでは権右衛門の役目が相立ちませぬ。」と、彼は押し返して言った。「山名殿は塩冶の追っ手、又わたくしはお前さま方の追っ手、たがいに大事の役目をうけたまわって参りましたに、山名どのは塩冶の奥方を捕り損じて、やみやみと火中させ、わたくしも又おめおめと手を束ねて戻りましては、殿の御不興いかばかりか、恐れながらお察しくださりませ。やあ、采女。お身も姫上におすすめ申して、おとなしく御帰館あるように取り計らえ。さすれば殿の御前も、われらがよいようにとりつくろって、お身の科を申しなだめてやる法もある。たって抗わば容赦はせぬ。どうじゃ、思案せい。」
「いや、それを采女に言うことか。わたしにはわたしの思案がある。人妻に恋してその家をほろぼした父上、うき世の義理を楯にして妹の恋を引き裂こうとする兄上、そのように我意のみ募る傍若無人の方々のもとへ、小坂部は決して戻りませぬと、立ち帰って申し伝えい。そのほかに用はない。権右衛門、そなたこそおとなしく帰るがよかろう。」
眇目の男に対する時とは、まったく別人であるかのように、小坂部はいつもの凜とした声音で、叱るように言い聞かせた。しかし今夜は、権右衛門の方でもなかなかおとなしく引き退がらなかった。
「お詞ではござりますれど、一旦こうしてお見受け申したる以上、いかにおむずかりなされても、荏原権右衛門、唯このままには戻れませぬ。くどくも申す通り、これは主命。権右衛門が口上は殿のお声とおぼしめされて。」
「そのお声が聞きとうない。」と、小坂部は呪うように言った。「そのお声は悪魔の声じゃ。塩冶の奥方はそれで亡ぼされた。直きじきにお手こそ下されねど、侍従もそれで身をうしのうた。しかし小坂部はそうはなるまい。父上がなんと仰せらりょうともわたしは戻らぬ。兄上がいかに叱らりょうともわたしは帰らぬ。」
「して、これからいずれへ……。」
「それは言うまい。どこへ行こうとわたしの勝手じゃ。さあ、邪魔せずにそこを退きゃれ。」
小坂部は自分と向かい合っている権右衛門に鋭い一瞥をくれて、そのままそこを通り抜けようとするのを、権右衛門はあわただしく遮った。
「では、どうでも御帰館のおん供を権右衛門に仰せ付け下さりませぬか。」
「くどいことを……。ならぬ言うに……。采女、来やれ。」
押して通ろうとする二人の前に、権右衛門はまた立ち塞がった。彼は内心に小坂部を恐れていながらも、ここで見すみすの獲物を取り逃がすことは出来なかった。相手があくまでも強情を張る以上、彼はよんどころなしに其の武力を用いなければならないことになった。しかしゆうべの仕損じに懲りているので、彼も十分に警戒しなければならなかった。彼は小坂部らのうしろを亀田新九郎、横井弥兵衛の二人に合図して、まず邪魔者の采女を不意に搦み取らせようと企てた。こうして采女を生け捕ってしまえば、小坂部もそれに牽かされて素直に都へ戻って来るに相違ない。彼は采女を一種の囮にして、強情な小坂部を引き戻して行こうと巧らんだのであった。
この打ち合わせはあらかじめ出来ていたと見えて、新九郎と弥兵衛の二人は早くも呑み込んで、不意にばらばらと采女のうしろから飛びかかった。両腕を捉られて太刀を抜くひまもない采女は、まず片足を働かせて一方の弥兵衛を蹴倒そうとした。蹴られて倒れかかったが、危うくも踏みこたえた彼は、相手の右の腕をしっかりと抱え込んで横さまに投げ出そうとすると、新九郎も左の方から嵩にかかって押し倒そうとした。その力が一つになって、敵も味方も折り重なって倒れた。
「あ、待って……。」
小坂部は身をひるがえして三人の間へ割って入ろうとするのを、権右衛門は駈け寄って曳き戻そうとした。その手が小坂部の袂に触れたと思う一刹那、彼はあっと叫んだ。小坂部の懐剣は彼の額を斜に突き破って、その切っ先が烏帽子の懸け緒を切り払ったのであった。眼にしみるなま血に権右衛門もしばらく立ちすくんでいると、その間に小坂部はころがるように駈け寄って、まず采女の上に重なっている新九郎の腕を突いた。
このありさまに、他の家来どもは一度にあっとどよめいたが、相手は女子である。しかも主人の息女である。迂濶に手あらいことも出来ないので、たがいに眼を見あわせて躊躇していると、新九邸が少し弱った隙きを見て、采女はにわかに跳ね起きようとした。それでも弥兵衛が固く捉えて放さないので采女は焦れて差添えをぬいて邪魔する彼の喉を突こうとしたが、相手が早くも頸を替わしたので、その切っ先は土に深く縫い込まれてしまった。それを抜こうとする腕の上に新九郎が又乗しかかって来たので、三人はひとかたまりになって再びころげた。その新九郎を今ひと突きと、小坂部が懐剣をふたたび振りあげるところへ、権右衛門は片眼を押さえながら駈け寄って、その利き腕をうしろから捉えた。
「姫とて遠慮はない。早う寄れ。」
権右衛門は吠えるような声で家来どもに命令すると、かれらももうおとなしく見物していられなくなった。持っている松明をからりと投げ捨てて、七、八人が一度に寄り合って来て、まず暴れ狂う小坂部を取り押さえた。同時に采女も押し伏せられた。もがいても狂っても、多勢に無勢である。采女は大地に捻じつけられて、両腕をひしひしと縛られてしまった。
「よい、よい。そやつを牽け。」と、権右衛門はひたいの血をぬぐいながら言った。「姫もお立ちゃれ。」
かれらもさすがに小坂部に縄をかけようとはしなかった。しかもかれは懐剣をしっかりと掴んで放さないので、家来の一人はその利き腕を捉えて引ったてて行った。縄にかかった采女はそのあとから引き摺られて行った。権右衛門は先きに立って、もと来た路を引っ返して、かの辻堂の前まで来ると焚火はまだとろとろと燃え残っていた。
「まず待て。」
権右衛門は辻堂の縁に腰をおろして、焚火の弱い光りをたよりに額の傷の始末をしようとした。新九郎も袒をくつろげて、腕の傷を朋輩に巻いて貰った。
「そこらに水はないか。」
眼に滲む血を洗おうとして、権右衛門はあたりを見まわすと、家来の一人はかの古沼に眼をつけてそこへ水を汲みに行こうとすると、堂の暗い蔭からかの眇目の男が幽霊のようにあらわれた。彼は古びた甕のようなものを抱えていた。
「沼の水はきたない。これをお使いなされ。」
「おお、其方か。」と、権右衛門は一方の眼を誇り顔に晃らせた。「先刻は大儀じゃ。姫も家来もこの通りじゃ。」
男は黙ってうなずいて、その水甕をうやうやしく権右衛門の前にささげた。
「清い水か。」
「はい。あちらの村から汲んでまいりました。」
「それはかたじけない。」
権右衛門はその甕の水を手にすくって、渇いているままにひと口呑んだ。それから両の手のひらに注がせて、まず左の眼を洗った。つづいて右の眼をも洗った。
「いかがでござりまする。」と、男は訊いた。
「おお、これで両眼もすがすがしゅうなった。」
彼はさらに額の傷を洗って、白布で幾重にも鉢巻をすると、眇目の男は水甕を振って見て、他の家来どもに言った。
「水はまだ少しある。どなたかお飲みなされぬか。」
「おお、わしにくれ。」
手負いの新九郎はその甕をうけ取って、甕の口からひと息にこころよく飲み干してしまった。かれらの前に燃えている焚火も、もうだんだんに消えかかって来た。
「もういい。いざ行こうぞ。」
権右衛門は起ち上がろうとして、にわかに眼でも眩んだように、堂の縁に再びどっかりと腰をおろした。新九郎も俄かによろめいて焚火の上に小膝を折って倒れた。ほかの者どもは驚いて、一人はあわてて新九郎を火の中から救い出した。二、三人は権右衛門のまわりに集まって介抱した。
「眼が見えぬ。胸が苦しい。」と、権右衛門は唸った。彼は起とうとして又倒れた。
権右衛門といい、新九郎といい、二人が二人までこうした不思議を見る以上、その疑いはまず眇目の男の上に置かれなければならなかった。彼のすすめた甕の水に何かの秘密がひそんでいたものと認めるのが当然であった。家来どもは今更のように眼をけわしくして、彼の方を見かえると、この混雑の間にどこへ隠れたのか、眇目の男の姿はもうそこらには見えなかった。
「あいつ、曲者じゃ。」
一同はいよいよ驚き騒いで、ある者は堂のうしろへ追って行った。ある者は堂の扉を引きめくって見た。しかも彼の影はどこにも見付けられなかった。
焚火はもう消えて来た。そのうす暗いなかで、権右衛門と新九郎とが傷ついた獣のように唸っていた。