23話 悪魔の誓い 二
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どこやらで鴉の声がきこえたので、小坂部は初めて夢から醒めた。鳥の声はどこから曳れて来たのか知らないが、窓一つないらしい部屋のなかは、夜だか昼だか判らないように暗かった。ただ正面の神壇らしいものの前に、黄いろい蝋燭の灯がぼんやりとともっているばかりであった。
その弱い光りをたよりにして、かれはあたりを見まわすと、そこには眇目の男も見えなかった。采女のすがたも見えなかった。床の上になまなましい血のあとを形見に残しただけで、黒猫の死骸もそこには横たわっていなかった。怪鳥もどこに潜んでいるのか、その翅の音を聞かせなかった。さらに隈なく見まわすと、部屋の広さは三間四方もあるらしく、四方はすべて厚い壁で囲まれていた。かれは正面の神壇の秘密を見とどけようとして、足音を忍ばせて窺いよると、忽ち或る者につまずいてはっと息を嚥み込んだ。蝋燭の灯に透かして見ると、それは幾個かの骸骨で、人か獣か鳥かよくも判らないが、うず高く重なり合って白く黄いろく照らされていた。
神壇の扉は半ば開かれてあるので、かれは伸びあがってそっと覗くと、その奥には小さい古びた黄金の立像が祀られてあった。像はかれの曽て視たことのない奇怪なすがたで、何か一種の夜叉羅刹であろうと想像されたが、それをじっと見つめているうちに、かれはゆうべ啜った血の酔いがふたたび頭へのぼって来たようにも感じられて、思わずふらふらとよろめいて、足もとに積まれた薄気味のわるい骸骨の上に腰をおろした。そうして、夢のように男の名を呼んだ。
「采女……采女……。」
低い声も四方の壁にひびいて、蝋燭の灯も微かにゆれるかと思われた。その一刹那に、階段のあがり口の方から青白い光りが薄く流れて来て、その光りのなかに采女の立ちすがたが煙りのようにあらわれた。
「おお、采女……。」
小坂部はあわてて起き上がろうとしても、からだはしびれたようで動かなかった。采女は微かな声で言うように聞こえた。
「姫上……。」
「そなたもここに棲んでいるのか。」
「お前さまがお呼びなされば、いつでもまいりまする。」
「そばへは寄れぬか。」
「今はかないませぬ。それもやがては……。」
「やがてはそばへも寄らるるか。」
「お前さまの御修業一つで……。」
「修業とはなんの修業じゃ。」
「悪魔の業をお積みなされ。」
と言うかと思うと、采女の姿はだんだんに薄れてゆくので、小坂部はかなわぬ身をもがきながら、消えかかるそのまぼろしを追おうとする時、しずかにその肩に手を触れる者があった。かの蝙蝠か梟かと腹立たしげに見かえると、いつの間にかそこには眇目の男がほほえみながらたたずんでいた。
「われらは約束をたがえずに、采女の魂をこの世に呼び戻した。お身がここに棲んでいるかぎりは、呼べばいつでも来る。逢いたくばいつでも逢われる。どうじゃ、お身はこれでもわれらを仇とするか。親も捨て、兄弟も捨て、われらの教えをうけて、われらの世界に棲んでいれば、人のいう地獄が却って極楽じゃ。」
小坂部は頭を垂れて、おとなしく聴いていた。かれはもう懐剣を探るような心になれなかった。
「今でこそお身はわれらの弟子じゃ。われらの教えをうけねばならぬ。」と、男は少しく詞をあらためて、かれを敬うように言った。「しかし、われらの見るところでは、お身の行く末は所詮われわれの及ぶところではない。お身は神じゃ、われわれの尊崇する魔神の権化じゃ。ゆくゆくはわれらがひざまずいて、却ってお身の光りを拝まねばなるまい。われらも東海のこの国にさまようて、千万人に一人のお身を見いだしたというは、わが教えのいよいよ天地に栄ゆる兆じゃ。本国の人々もこれも伝え聞いたら、おそらく涙をながして喜ぶことであろう。」
彼の片眼の光りは、かつて小坂部をおびやかしたように爛々と燃えていた。彼は床の上にひざまずいて、まず神壇の燈火を拝し、さらに骸骨の前に身を投げ伏して、その詞の通りにうやうやしく小坂部を拝した。
彼は部屋の隅にある甕の水を汲んで、小坂部に飲ませてくれた。その水は天主閣の軒から筧を引いて、天水を呼ぶのであると教えた。彼が何かの合図をすると、一羽の梟がどこからか舞って来たのを、彼は懐中から短い剣をとり出して、ゆうべの猫のように無雑作に殺してしまった。
「生けるものを其のままに啖うがわれらの教えじゃ。」
その食い物は、蝙蝠、梟、蛇、蜥蜴、壁虎、蟆、犬、猫、狐、狸、鼬、鼠、貂のたぐいで、合図をすれば必ずどこからか現われて来るから、それをすべて生けるがままに屠って、飢えれば肉をくらい渇けば血をすするのであると彼は説明した。
「日を仰ぎ、月に祈り、雲を呼ぶ時は、この高い窓から空を見るのじゃ。」
窓一つないと思われたこの部屋にも、高い壁の上に小さい窓が作られてあることを小坂部は初めて知った。水甕に引いてある筧は、その窓から通っているのであった。そうして、その水は飲むためではない、まことは顔を洗い、手を浄めるためであると、彼はさらに説明した。小坂部は彼に扶けられながら、その水甕を踏台にして高い窓から覗いて見ると、秋の青空の果てに唯ひとかたまりのうす黒い雲が小さく浮かんでいた。
「あの雲はいかなる晴れた日でもわれらの眼にはかならず見ゆる。あの雲の消えぬかぎりは、われらの教えもほろびぬと思われい。」と、男は雲を指さして教えた。
小坂部も言い知れない敬虔の念に囚われて、うやうやしくその雲の影を拝んだ。かれは再びこの天主閣の頂上から下界へ降りようとは思わなくなった。かれはその日から眇目の男に一種の教えを授けられ、さらに秘密の呪文を伝えられたが、賢いが上に学問のあるかれは、教うる人をおどろかすほどに一々それをよく会得した。かれは生きながらに蛇をくらった。蜥蜴をくらった。猫をくらった、鼬をくらった。そうして、一日のうちに三度ずつ采女の名を呼ぶことを許された。呼べば、恋人はかならずその姿を見せた。
こうして幾年を送ったか、かれもおそらく記憶しなかったであろうが、その間も下界には兵乱が絶えなかった。取り分けて敵と味方が争奪の目標になっている都の巷には、剣と火との禍いが幾たびか繰り返されて、町の大半は焼け野になってしまった。塩冶をほろぼして、敵にはあざけられ、味方には憎まれた高師直は、その罪ほろぼしに真如寺を建立したが、彼はいつまでも敵味方の呪いのまとになっていた。そういう周囲の事情から、彼は次第に主君の信用をも墜しかけて来たところへ、足利兄弟が不和を生じて、兄の尊氏と弟の直義とが敵味方に引き分かれることになった。その不和の原因もやはり師直の讒誣中傷に因ると伝えられていた。直義はわが身のあやういのを恐れて、一旦は都を落ちのびたが、さらに大軍をあつめて攻めのぼって来たので、尊氏は播磨路まで出てそれを邀え撃つことになった。師直も無論に主君と共に出陣した。
姫山の天主閣の上では、小坂部が高い窓の隙きから夕空を眺めていた。それは正平五年二月の半ばであった。折りおりに下界の様子をうかがいに出る眇目の男は、頂上まで登って来て得意らしく報告した。
「姫。いくさは眼の下にひろがる。尊氏直義の兄弟が戦うのじゃ。高師直、その弟の師泰、いずれも尊氏にしたがうて出陣したという。さりとは面白い勝負でないか。」
かれら悪魔に取っては確かに得意の時節でなければならない。小坂部もほほえみながら聴いていると、春もまだ薄寒い夕暮れの風が天から吹きおろして来て、高い天主閣の甍をゆすって通った。いつもの黒い雲の影が常よりも大きく鮮かに見えた。小坂部は口の中で何かの呪文を唱えた。
あくる日の合戦は、尊氏方の惨めな敗北に終った。大将の尊氏はすでに自害と覚悟を極めたほどであったが、幸いに直義との和議が整って、尊氏は生きた。しかし生きられないのは師直兄弟の身の上で、今度の合戦もその根本は彼等にあるというので、直義の憎しみは強かった。勝利者の直義に呪われては、とても我が身をまっとうすることは出来ないと覚って、師直師泰は兵庫から船路で鎌倉へ落ちようと相談した。そこには三河守師冬が東国の管領として威勢を振るっているからであった。父の師直とは何かに付けて意見が合わないのみか、かの塩冶の滅亡以来まったく父を見限って、無断同様に関東へ下ってしまって、この頃は音信も絶え勝ちになってはいるが、それでも義理ある父子である以上、この危急の場合をよもや見殺しにする筈もあるまい。彼のもとに隠まわれて、しばらく世の成り行きを窺おうと思っていると、二月廿五日の夜半に、甲斐国から使いが来て、思いもよらない報告をもたらした。師冬は上野に蜂起した敵共を追い散らすために、鎌倉を出発してゆく途中で、味方の多くは心変わりして同士撃ちが始まった。よんどころなく甲州へ落ち延びて、洲沢の城へ引き籠っていると、そこへ諏訪の方から敵が押し寄せて来て、三日の後に城はほろび、師冬は討ち死したというのである。この報告をうけとって、師直と師泰も生きている顔色はなかった。
師冬が亡びてしまっては、関東に頼むべき味方もない。さりとて西国には師直の敵が多い。足利将軍の執事として威勢を振るっている間は、味方の大小名も虫を押さえて彼等の前に膝をかがめていたが、その信用も権威も失墜して、かれらを生かすも殺すも勝利者の心まかせという場合になると、一人も身を楯にしてかれらを擁護するものは無かった。平生から畳まっていた鬱憤や嫉妬や憎悪が一度に発露して、勝利者は勿論、現在かれらと敗北の運命を倶にした味方すらも、ことごとく彼等の敵となってしまったので、師直兄弟はもうどうしても生きてはいられない破目に陥ったのである。それでも彼等は何とかして生きる方法を見付け出そうとあせった。
「しょせんは出家じゃ。鎧をぬいで墨染めの法衣に換えたら、さすがに執念くも咎めまい。」
師直は思い切って言い出すと、師泰も唸くような溜め息をつきながら答えた。
「それじゃ。それよりほかに逃がるる途もござるまい。しかし家来どもは何と申そうか。」
「勿論それには異論もあろう。さりとて今の場合じゃ。一時の方便にこの頭を剃り丸めたとて何があろう。時節が来れば再び還俗するまでじゃ。」
敗軍の陣屋はひっそりと鎮まって、焚きさしの篝火の光りもこの兄弟の影のように薄かった。木戸の外には宵から降り出した春雨の音がしとしとときこえた。運命の急転を痛切に感じた二人は、陣扇のかなめを膝に突き立てたままで、しばらくは黙って顔を見あわせていた。
「将軍家は明早朝に京へ引き揚げらるるという。われらも成るべくお側を離れぬようにして、轡をならべてまいるが肝要じゃ。将軍家の見る前では、何者もさすがに手出しはあるまいぞ。」と、師直はやがて小声で言った。
この期に及んでも、彼は猶その主君の袖にかくれて、敵味方の迫害を逃がれようとするのであった。師泰もそれに同意した。かれらは家来の横井弥兵衛を呼んで、袈裟や法衣や珠数や蓮葉笠や、僧形に必要な品々を取り揃えてまいれと命じた。不得心らしい彼を急かし立てて追いやって、二人は先ずほっと息をついた。
「これで生きらるるわ。」
師直はさびしく笑った。しかもその笑い顔は俄かにゆがんで、彼はあわてて傍にある太刀を引き寄せた。
「おのれは誰じゃ。」と、彼は庭さきの闇を透かしながら、叱るように訊いた。
消えかかった篝火の前には、黒い影がまぼろしのように立っていた。