2話 妖怪年代記(2)
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「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、談話を傍へそらしたるにぞ推しては問はで黙して休めり。ために折角の酔は醒めたれども、酔うて席に堪へずといひなし、予は寝室に退きつ。思へば好事には泣くとぞ謂ふなる密閉室の一件が、今宵誕辰の祝宴に悠々歓を尽すを嫉み、不快なる声を発して其快楽を乱せるならむか、あはれ忌むべしと夜着を被りぬ。眼は眠れども神は覚めたり。
寝られぬまゝに夜は更けぬ。時計一点を聞きて後、漸く少しく眠気ざし、精神朦々として我我を弁ぜず、所謂無現の境にあり。時に予が寝ねたる室の襖の、スツとばかりに開く音せり。否唯音のしたりと思へるのみ、別に誰そやと問ひもせず、はた起直りて見むともせず、うつら/\となし居れり。然るにまた畳を摺来る跫音聞えて、物あり、予が枕頭に近寄る気勢す、はてなと思ふ内に引返せり。少時してまた来る、再び引返せり、三たびせり。
此に於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ眼を《みひら》き、不図一見して蒼くなりぬ。予は殆ど絶せむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける裸体の婦人、あるが如く無きが如き灯の蔭に朦朧と乳房のあたりほの見えて描ける如く彳めり。
予は叫ばむとするに声出でず、蹶起きて逃げむと急るに、磐石一座夜着を圧して、身動きさへも得ならねば、我あることを気取らるまじと、愚や一縷の鼻息だもせず、心中に仏の御名を唱へながら、戦く手足は夜着を煽りて、波の如くに揺らめいたり。
婦人は予を凝視むるやらむ、一種の電気を身体に感じて一際毛穴の弥立てる時、彼は得もいはれぬ声を以て「藪にて見しは此人なり、テモ暖かに寝たる事よ」と呟けるが、まざ/\と聞ゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は一竦に縮みたり。
斯くて婦人が無体にも予が寝し衾をかゝげつゝ、衝と身を入るゝに絶叫して、護謨球の如く飛上り、室の外に転出でて畢生の力を籠め、艶魔を封ずるかの如く、襖を圧へて立ちけるまでは、自分なせし業とは思はず、祈念を凝せる神仏がしかなさしめしを信ずるなり。
寒さは寒し恐しさにがた/\震少しも止まず、遂に東雲まで立竦みつ、四辺のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸には藻脱の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。
然らでも前日の竹藪以来、怖気の附きたる我なるに、昨夜の怪異に胆を消し、もはや斯塾に堪らずなりぬ。其日の中に逃帰らむかと已に心を決せしが、さりとては余り本意無し、今夜一夜辛抱して、もし再び昨夜の如く婦人の来ることもあらば度胸を据ゑて其の容貌と其姿態とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交し試むべきなり。よしや執着の留りて怨を後世に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人も爾く英雄になるぞかし。逢魔が時の薄暗がりより漸次に元気衰へつ、夜に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増りぬ。漫に昨夜を憶起して、転た恐怖の念に堪へず、斯くと知らば日の中に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。
只管洋灯を明くする、これせめてもの附元気、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯一人更け行く鐘を数へつゝ「早一時か」と呟く時、陰々として響き来る、怨むが如き婦人の泣声、柱を回り襖を潜り、壁に浸入る如くなり。
南無三膝を立直し、立ちもやらず坐りも果てで、魂宙に浮く処に、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田山田」と我が名を呼ぶ、呀と頭を掉傾け、聞けば聞くほど判然と疑も無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ堪らじ。
六
今はハヤ須臾の間も忍び難し、臆病者と笑はば笑へ、恥も外聞も要らばこそ、予は慌しく書斎を出でて奥座敷の方に駈行きぬ。蓋し松川の臥戸に身を投じて、味方を得ばやと欲ひしなり。
既にして、松川が閨に到れば、こはそもいかに彼の泣声は正に此室の裡よりす、予は入るにも入られず愕然として襖の外に戦きながら突立てり。
然るに松川は未だ眠らでぞある。鬱し怒れる音調以て、「愛想の尽きた獣だな、汝、苟くも諸生を教へる松川の妹でありながら、十二にもなつて何の事だ、何うしたらまたそんなに学校が嫌なのだ。これまで幾度と数知れず根競と思つて意見をしても少しも料簡が直らない、道で遊んで居ては人眼に立つと思ふかして途方も無い学校へ行くてつちやあ家を出て、此頃は庭の竹藪に隠れて居る。此間見着けた時には、腹は立たないで涙が出たぞ」と切歯をなして憤る。
傍より老いたる婦人の声として「これお長、母様のいふ事も兄様のおつしやる事もお前は合点が行かないかい、狂気の様な娘を持つた私や何といふ因果であらうね。其癖、犬に吠えられた時、お弁当のお菜を遣つて口塞をした気転なんぞ、満更の馬鹿でも無いに」と愚痴を零すは母親ならむ。
松川は腹立たしげに「其が馬鹿智慧と謂ふもんだ、馬鹿に小才のあるのはまるつきりの馬鹿よりなほ不可い。彼の時藪の中から引摺出して押入の中へ入れて置くと、死ぬ様な声を出して泣くもんだから――何時だつけ、むゝ俺が誕生の晩だ――山田に何が泣いてるのだと問はれて冷汗を掻いたぞ。貴様が法外な白痴だから己に妹があると謂ふことは人に秘して居る位、山田の知らないのも道理だが、これ/\で意見をするとは恥かしくつて言はれもしない。それでも親の慈悲や兄の情で何うかして学校へも行く様に真人間にして遣りたいと思へばこそ性懲を附けよう為に、昨夜だつて左様だ、一晩裸にして夜着も被せずに打棄つて置いたのだ。すると何うだ、己にお謝罪をすれば未しも可愛気があるけれど、いくら寒いたつて余りな、山田の寝床へ潜込みに行きをつた。彼が妖怪と思違ひをして居るのも否とは謂はれぬ。妖怪より余程怖い馬鹿だもの、今夜はもう意見をするんぢやあないから謝罪たつて承知はしない、撲殺すのだから左様思へ」と笞の音ひうと鳴りて肉を鞭つ響せり。女はひい/\と泣きながら、「姉様謝罪をして頂戴よう、あいたゝ、姉様よう」と、哀なる声にて助を呼ぶ。
今姉さんと呼ばれしは松川の細君なり。「これまで幾度謝罪をして進げましても、お前様の料簡が直らないから、もうもう何と謂つたつて御肯入れなさらない、妾が謂つたつて所詮駄目です、あゝ、余り酷うございますよ。少し御手柔に遊ばせ、あれ/\それぢやあ真個に死んでしまひますわね、母様、もし旦那つてば、御二人で御折檻なさるから仕様が無い、えゝ何うせうね、一寸来て下さい」と声震はし「山田さん、山田さん」我を呼びしは、さては是か。