6話 赤外線男(6)
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「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上拵えた創作的観念であって、実在ではなかった。
何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀ッと云わせて虚名を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費こんだ大金の穴埋めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分貢いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑むことよりも莫大な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
しかしダリアの使嗾に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好になった。其の後に来るもの――それを考えると彼は安閑としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸い、水素瓦斯を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒まされ、不成功に終ってしまったのだ。
ダリアはこの事を勿論感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立てる代りに、一層深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼は大した損傷もなかったが、左眼はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜には映ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視える。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者という恐ろしい犯罪者に堕ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色の液体をグーッと呑み乾した。筆者は壜をとりあげると、静かに酌いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害された。誰があの暗黒のなかで、選りに選って非常に正確を要する延髄の真中に鍼を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人でなければ、到底想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼をシャープペンシルの軸の中に隠して持っていたのだった。
これに対して僕の探偵力は、全く貧弱なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気たことがと排斥していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極く最近のことだ。以前に於ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化けの皮を剥いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴む計画を樹てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠のように円い標的を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟って拳銃をとりあげようとはしなかった。若しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱がれた。しかし射撃を拒んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能はあった。
さて、最後のトリック――それには鬼才ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意を催したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相を演ずることになる。彼女は極度に狼狽していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯がついている。彼女は扉を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
それは、この『便所』と書いた赤い灯は、普通の視力をもった人間には、到底発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石のダリア嬢もこうなっては策の施しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」