一寸法師

9話 密会(2)

7,121字 約14分 2017年10月28日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 格子戸を開けて入ると、一坪程の土間があって、三畳の玄関、そこからすぐに二階への階段(はしごだん)がついていた。男は黙ってその階段を(あが)って行った。山野夫人はなぜか跫音(あしおと)を盗む様にして、そのあとに従った。足の不自由な男は、子供の様に両手を使って、階段を一段ずつ、のろのろとはい上った。夫人は下に待合せながら、まるで(かに)が石垣をはい上る様だと思った。

 二階は六畳と四畳半の二間切りだった。男はその六畳の座敷に入って、ふすまをピッタリとたて切った。

「立っていたって仕方がないでしょう。そこに座蒲団(ざぶとん)があるから、御自由にお敷きなさい。だが、百合枝さん、とうとう来ましたね」

 男は気味悪く笑いながらいった。そして、自分も一枚の座蒲団を取って、外套のままその上に腰をおろした。彼は足を曲げるのが非常に困難らしく、長い間かかって、やっと横坐(よこずわ)りに坐った。

「いやに堅くなってますね。もっとくつろいじゃどうです」

 彼は眼鏡の奥から蛇の様な目を光らせて、夫人を見た。

「ここにはだれもいないのですか」

 百合枝は隅の方に小さく坐って、(かわ)いた(くちびる)でいった。

「まあいない様なものです。耳の遠い婆さんが雇ってあるのだけれど、あなたがいやだろうと思って顔を出さない様にいいつけてあるのです。つんぼも同様の婆さんだから、大丈夫ですよ。少々大きな声をしたって聞える気遣(きづかい)はない」

 男はその時まで冠っていた大きな鳥打帽を脱いだ。その下にはモジャモジャした短い毛が汚らしく生えていた。不思議なことには、そうして帽子を脱ぐと、彼の相好(そうごう)がガラリと変って見えた。

「マア」

 それを見ると、百合枝はびっくりして息を引いた。

「ハハハハハハハ、これかね」男は頭をかき廻す様にして「これはかずらですよ。顔が違って見えるかね。これ位のことで驚いちゃいけない。もっとひどいことがあるんだ。だがどんなことがあったって、あなたはもう私のものだ。逃げようたって逃げられるものじゃない。逃げればあなたの身の破滅なんだからね」

 男は鼻の上に醜い皺をよせて、奇怪な笑い方をした。彼は少しずつ仮面をぬいで、残忍な正体を現し始めていた。

「ワハハハハハハ」彼は突然歯をむき出して気違いの様に笑った。「百合枝さん。アア、今こそ(おれ)はこうしてあなたに呼びかけることが出来るんだ。恋人の様に呼びかけることが出来るんだ。十年の(あいだ)己は、胸のうちでこの名を呼び続けていた。どうしたって出来るはずがないと分っていても、その望みを捨てることが出来なんだ。だが、今それがかなったのだ。まるで夢の様な仕合せだ。百合枝さん、私を愛してくれなんて、そんな無理なことは頼まない。この不幸な生れつきの男を、(あわれ)んで下さい。私の悪企みをにくまないで、そうまでしなければならなかった、私の切ない心持を察して下さい」

 男は威圧的な態度を一変して、身もだえをしながら哀願した。いつのまにか、外套姿の長い身体が、横倒しになって、奇怪な長虫の様に、身をくねらせながら、百合枝の方に近づいて来た。

「あなたは一体だれです。私の知っているあなたではないのですか。だれです、だれです」

 百合枝は一層隅の方へ身をすくめながら、(うわ)ずった声で叫んだ。

「あなたはそれが知りたいのですか。じゃ、今教えて上げる」

 横たわっていた男が、飛び上る様にはね起きて、つと電燈の方へ手を伸したかと思うと、パチッという音がして、突然部屋が真暗になった。

 二階の雨戸がすっかり閉っている上に、外の往来(ゆきき)にも薄暗い門燈の外には何の光もないので、電燈が消えると部屋の中は真の(やみ)であった。

 百合枝夫人はその中で、ある身構えをしてじっと男のいた方角を見つめて居た。彼女は何よりも今度の事件の真相が暴露することを恐れた。その秘密を保つ為にはどんな犠牲も忍ばねばならぬと覚悟を極めていた。それに、生娘(きむすめ)でもない彼女は、はしたなく悲鳴を上げる様なことはなかったけれど、でもやっぱり、いい知れぬ恐怖に胸の辺がビクビク震え出すのをどうすることも出来なかった。

 今にも飛びかかって来るかと思ったのに、男は不思議と鳴りをひそめていた。暫くの間は部屋の向うの隅から、何かカタカタいう物音に混って、彼の荒い息づかいが聞えて来るばかりだった。

「不意に電気を消したりしてびっくりするじゃありませんか。早くつけて下さい。でないと、私帰りますよ」

 百合枝は()いて何気ない声で、(しか)しかなり力強くいい放った。

「帰れるものなら、帰ってごらんなさい。そんな強がりをいったって駄目だ。あなたはどうしたって帰ることは出来ないんだ。電気を消したのはね、あなたが怖がるといけないからだよ」

 そして、ゾッとする様な含み笑いが、暗黒(くらやみ)の中から響いて来た。

「あなたは忘れているだろうが、始めて山野の(うち)で逢ったのはもう十年も昔のことだ。その時分あなたはまだ肩上げをした無邪気な娘さんだった。あなたはよく(せん)の奥さんの所へ遊びに来た。山野の邸が西片町にあった時代だ。ね、思い出すだろう。私はその頃からちょくちょく山野の邸へ出入りする様になった。というのは一つはあなたの顔が見たかったからだ。だが、そんなことは気振(けぶ)りにも見せなんだ。己は人並の恋なぞ出来る身体ではなかったのだ。この世のことは何もかもあきらめ果てていた。それが、何の因果か百合枝さん、あなたのことだけはあきらめてもあきらめても、あきらめ切れなんだ。一層(いっそ)あなたを刺殺(さしころ)して自分も死のうと思ったことが幾度あるか知れない。山野のところへ嫁入(よめいり)した時などは、本当に短刀を懐中(ふところ)に入れて、あなたに逢いに行ったことさえある。己はそれ程思いつめていたのだ。少しは不便(ふびん)に思ってくれてもいいだろう」

 途切れ途切れの切ない声だった。それが一こという度に、闇の中を、はう様に百合枝の方へ近寄って来た。事実声の主は少しずつ、少しずつ、彼女の方へにじり寄って来るらしく、黒いもののうごめく気勢(けはい)が、段々身近に感じられた。

 百合枝は変な気持だった。ただ怖いのではなくて、何かこう不気味な獣に襲われている様な、妙なすごさだった。それに不思議なことには、相手の告白を聞いている内に、その蛇の様な執念に、ある魅力を感じ出していた。それは憐みの情というよりも、もっと肉体的な一種の(なつか)しさであった。

 突然柔かいものが彼女の膝をはい廻って、逃げる暇も与えず、つと彼女の手を握った。冷く汗ばんだ男の(てのひら)が感じられた。

「アラ」

 百合枝は、思わず低い叫びを上げて、それを振り離そうとした。だが、思い込んだ男の手は、(もち)の様にねばり強くて、容易に離れなかった。離れないばかりか、段々強い力で彼女のきゃしゃな指を締めつけて行った。

 それと同時に妙な音が聞え始めた。百合枝は最初、男が(せき)をしているのかと思った。コホン、コホンと烈しく(のど)が鳴った。だが、間もなくそれが鼻をすする音に変り、そして、不意にククククククククククと、むせ返る様な声が起った。男が泣き出していたのだ。彼は百合枝の手先を締めつけ締めつけ、彼女の腕にポタポタと涙を落して、気でも狂った様に泣き続けた。

 百合枝は男の激情に引入れられて、彼女もいつの間にか、不思議な興奮を覚えながら、片手を男のなすがままに任せて、黙って彼の泣き声を聞いていた。手の上に雨の様に降りかかる涙の感触が、彼女の恐怖を少しずつやわらげて行った。

「百合枝さん、百合枝さん」

 男は泣きじゃくりの間々(あいだあいだ)に、幾度となく彼女の名を呼んだ。そして、彼の一方の手は、大きな昆虫の様に、五本の足で百合枝の全身をはい歩いた。膝から帯を越し、むずがゆく乳の上をはって、なだらかな肩をすべり、背筋のくぼみを、あやす様になで廻した。百合枝は薄い着物を通して、ジトジト汗ばんだ柔かい掌を、直接肌に触れられでもした様に、不気味に感じた。だが、それは(はなは)だしく不気味であったにも拘らず、同時に怪しくも彼女の道念を麻痺(まひ)させる力を持っているかと見えた。

 彼女はいつの間にか抵抗力を失っていた。それ(ゆえ)、男のほてった顔が彼女の頬に触れ、熱い涙が彼女の脣をぬらし、(ほのお)の様な吐息が、彼女の呼吸と混り合っても、彼女はそれを払いのけ様ともしなかった。

 だが、暫くすると、突然彼女は恐怖の叫び声を立てて、男の腕から身を逃れ様とあせった。そうしている間に、彼女は相手の身体に起ったある恐しい変化に気づいたのだった。

 さい前から彼女の手が無意識に男の身体を探っていた。そして、ふと足の方に触れた時、今まで彼が坐っているとばかり思っていたのが、その実畸形的に短い足を一杯に伸して、立っていることを発見した。彼の顔は彼女の顔と同じ高さにあった。それでいて彼女は坐っているのに、相手は明かに起上(たちあが)っているのだった。つまり、男はいつの間にか、異常に脊の低い畸形児に変ってしまったのだった。彼女は一瞬間にすべての事情を悟った。男はかずらや眼鏡や外套によって、こよい変装していたと同じ様に、平常(ふだん)の彼自身が一つの変装姿に過ぎなかったのだ。もう一つ奥にはこの様ないまわしい彼の正体が隠されていたのだ。小林紋三に尾行され、百貨店の番頭に発見された、あの一寸法師こそこの男であったに相違ない。彼女を脅迫している男と、三千子の死体を切断して罪深い悪戯(あくぎ)をやった男とが、全く同一人物であることを、今まで気づかなんだのは、むしろ迂濶千万(うかつせんばん)であった。彼が十年という長い年月(としつき)、切ない恋を打開(うちあ)けないでいたのも、この様な犯罪事件のかげに隠れて、彼女の弱身につけ込んで、その思いをとげようとしたことも、彼が見るも恐しい畸形児であったとすれば、誠に無理でない訳だ。

 相手が一寸法師と分ると、いかに覚悟を()めているとはいえ、彼女はもう我慢が出来なかった。こんな怪物に、少しの間でも妙な魅力を感じていたかと思うと、彼女はゾーッと背筋が寒くなった。彼女はしゃ二無二(にむに)怪物の腕をふりもぎろうともがいた。

 だが、相手は彼女が悟ったと見ると、(ひと)しお力を加えて犠牲者を抱きすくめた。畸形児とはいえ死にもの狂いの腕力に、か弱い女の百合枝がどう抵抗出来るものではなかった。

今更(いまさら)逃げようたって逃すもんか」彼は(りき)(ごえ)をふりしぼった。

「声を立てるなら立てて見るがいい。ソラ、まさか忘れはしまい。そんなことをすればお前の身の破滅だぞ。いいか。山野一家の滅亡だぞ」

 一寸法師は、起上った百合枝の腰のあたりにからみついて、おどし文句を並べながら、相手のひるむすきを見て、短い足を彼女の足にからみ、恐ろしい力で彼女を倒そうとした。

 百合枝は叫ぼうにも叫ぶ自由を奪われ、逃げ出そうにも、逃げ出す力を失い、まるで悪夢にうなされている気持だった。畸形児は不気味な軟体動物の様に、ぺったりと彼女の半身に密着して、腰のあたりを締めつけた両腕は、刻一刻その力を増して行くのだった。

 小林紋三はうそ寒いのを我慢して、執念深く路地の入口に立ちつくしていた。まだ夜更けというでもないのに、その町はいやに暗くて静だった。どの家もどの家も、まるで空家の様に、黙りこくっていた。

 蝙蝠(こうもり)みたいに路地の板塀に身体をくっつけて、薄暗い往来を見ていると、時たま灰色の影の様なものがスーッと通り過ぎた。それが人間に違いないのだけれど、少しも音を立てないので、何か(もの)()という感じがした。

 彼は山野夫人が二階に上った気勢(けはい)を感じたので、もしや話し声でも漏れて来ないかと、その方を見上げて耳をすましたが、密閉された雨戸の中はひっそりとして、燈火(ともしび)の影さえささなかった。

 ふと何か聞えた様に思って、耳をそばだてると、遠くの方から力ない赤ん坊の泣き声が聞えて来たりした。

 紋三はこの数日、長い間の倦怠(けんたい)をのがれて、可なり緊張した気持を味うことが出来た。彼はやっとこの世に(いき)がいを見出した様に思った。奇怪な犯罪事件の渦中(かちゅう)にまき込まれて、素人探偵を気取ることも、子供らしい彼には随分面白かったが、それよりも、今までは、何か段違いの相手の様な気がして、口を利くことさえ(はばか)られた山野夫人が、思いもかけず、くだけた調子で彼に接近して来たことが、何よりもうれしかった。彼は三千子のことをかこつけに、機会さえあれば山野家を訪れ、夫人の身辺につきまとった。

 そして、遂には夫人の秘密を握ることが出来た。恋という曲者が、彼を異常に敏感にしたのだ。夫人の一挙一動、どんな些細(ささい)な事柄も彼の監視を(まぬが)れることは出来なかった。彼は小間使のお雪と同様に今宵(こよい)の密会を悟った。そして、お雪には真似の出来ない芸当をやった。彼は機敏にも怪人物の自動車の助手を買収して、とうとうこの隠れ家をつきとめることが出来たのだ。専門家の明智小五郎をだし抜いて、彼の夢にも知らない手がかりを握ったかと思うと、紋三はひどく得意だった。

 だが、相手の奇怪な人物が何者だかは、まるで見当がつかなんだ。ふと、どこかで一度逢った人の様な気がしないでもなかったが、それ以上のことは少しも分らないのだ。分っているのは、彼奴(あいつ)が夫人の弱味につけ込んで彼女を脅迫していることと、夫人が何か恐しい秘密を持っていて、甘んじて男の意のままに動いていることだった。

 だが、夫人にどんな秘密があろうと、紋三は彼女をにくむ気にはなれなかった。にくいのは相手の男だった。彼は男に対して烈しい嫉妬(しっと)を感じた。か弱い夫人が、今ごろあいつのためにどんな目に会っているかと思うと、気が狂い相だった。

 様々の醜い場面が、まざまざと目の先にちらついた。そこには(けだもの)の様な男がいた。なまめかしく取乱(とりみだ)した夫人の姿があった。それを思うと彼は肉体的な痛みを感じた。幾度家の中へ飛びこもうとしたか知れなかった。だが、夫人の迷惑を察して僅に踏み(とど)まった。

 待っても待っても彼等は出て来る様子がなかった。さい前からほとんど一時間も闇の中に立っていた。妄想は(つの)るばかりだった。もう辛抱(しんぼう)がし切れなかった。それに、丁度その時、彼は二階の方から女の悲鳴らしいものを聞いた。聞いた様に思った。

 彼は半狂乱の(てい)で、門を入ると手荒く格子戸を開けた。

「ご免なさい」

 家の中はシーンとしずまり返っていた。

「だれもいないのですか」

 彼は二度も三度も大声に怒鳴ったが、何の返事もなかった。彼は思い切って玄関の障子を開けた。それでもまだだれも出て来ないので(つぎ)()との境の(ふすま)を開いて中をのぞいて見た。そこには人の影もなかった。

 紋三は、万一とがめられた所で、何とでもいい逃れの道はつくと(たか)(くく)った。彼は臆病者の癖に、どうかすると非常に向う見ずな大胆な所があった。

 彼はいきなり靴を脱いで玄関に上ったが、流石(さすが)にあわてていたので、そこの土間に山野夫人の履物(はきもの)が見えないことを気づかなかった。ふすまを一杯に開くと、次の茶の間らしい部屋へ踏込んで、奥の間との境のふすまを開けて見た。そこに一人の汚ならしい老婆が、ハッと居眠りからさめた様なとぼけた顔をして坐っていた。

「アラマア、ちっとも存じませんで、どなた様でございます」

 老婆はなじり顔に、大声でいった。

「どうも失礼、いくら呼んでも返事がないものだから、こちらに山野の奥さんが見えているでしょう。実は急な用事が出来てお迎いに来たのですよ」

「どなた様で、今旦那はお留守でございますが」

 老婆は耳が遠いらしく、とんちんかんな返事をした。

 紋三は二言三言問答をしている内に、もどかしくなって、老婆など相手にしないで、勝手にその辺の障子やふすまを開いて、山野夫人のありかを探した。だが、階下には(ほか)に狭い台所がある切りでどこにも人影は見えなかった。

 彼は老婆が止めるのも聞かないで、二階へ上って行った。今にもだれかに怒鳴りつけられるかと、身構えさえして階段を上ったが、不思議なことには、そこにも人の気勢(けはい)はなかった。二間切りの二階で、その六畳の方に、暗い電燈がついて、調度類もきちんとかたづいていた。妙にガランとして、今まで人のいた様子はどこにも見えなかった。

「この人はまあ、何という無茶なことをなさる。旦那はお留守だといっているじゃありませんか。私のほかにはねこの子一匹いやしないのですよ」

 老婆はノコノコ二階までついてきて、紋三を監視しながら、ぶつぶつつぶやいた。

「だが、確にこの家へ入るところを見たんだが。変だな。君はうそをいっているね」

 しかし何をいっても、ほとんど老婆には通じなかった。彼女は段々声を大きくして、しまいには隣近所に聞える様な悲鳴を上げた。

 紋三は押入なども一々開けて見て、(くま)なく家中を探したけれど、老婆のいった通りねこの子一匹いなかった。あの様に表口裏口を監視していたのだから、夫人達が若し家を出たとすれば彼の目につかぬはずはないのだし、彼が表から入った物音を聞きつけて、その隙に彼等が裏口から逃げるという様なことは、不可能だった。そんな余裕のあろう訳がない。つまり、彼等はこの家の中で消えうせてしまったとしか考えられなかった。

 紋三は又しても狐につままれた気持だった。考えて見ると今度の事件には、妙に幾度も同じ様なことが起った。三千子も部屋の中で消失した。例の気味の悪い一寸法師は、養源寺の庫裏へはいったまま消えてなくなった。そして今夜は山野夫人の番だ。紋三はうんざりした。

 彼は老婆に(しか)られながら、すごすごと家を出た。

「このごろ己の頭はどうかしているのか。それとも、悪人が神変不思議(しんぺんふしぎ)の妖術でも心得ているのか。一体どっちが本当なんだ」

 まるで悪夢にうなされている様な感じだった。彼は電車道を探して暗い町を歩きながら、ふと子供の時分に聞いた、狐や(たぬき)が人を化かす話を思い出していた。あの荒唐無稽(こうとうむけい)な恐怖が、彼の背筋を冷くした。

目次に戻る

目次