10話 疑惑(1)
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その翌朝、小林紋三は妙にぼんやりした顔をして、山野家の玄関に現れた。彼は一晩中悪夢にうなされ、その夢と昨夜の出来事とが混り合って、どこまでが現実でどこまでが夢だか、よく分らない気持だった。すっかり嘘の様な気もした。
気のせいか、山野の邸は以前とはどこかしら違った感じを与えた。門内の砂利道にゴミが落ちていたり、玄関の敷台に埃がたまっていたり、二階の雨戸が半分しか開いていなかったり、凡ての様子が物さびしく、すさんで見えた。
取次に出た書生の山木も変に蒼ざめた顔をしていた。紋三は山野夫人があのまま又行方不明になっているのではないかと、そればかり気がかりだった。
「奥さんは?」
彼は奥の方をのぞき込む様にして、小さな声で尋ねた。
「いらっしゃいません」
紋三はそれを聞くとギョッとした。
「いつから?」
「エ?」
山木は変な顔をして、紋三を見た。
「昨夜から御帰りがないのだろう」
「いいえ、今し方明智さんの所へお出でなすったばかりです」
「アア、明智さんとこへ」紋三はてれ隠しに口早やにいった。彼は恥しさで真赤になっていた。「じゃ、昨夜は、どっかへお出ましじゃなかったの」
「昨夜は片町の御親戚へいらっしゃいました」
書生は平然として答えた。
「で、何時頃お帰りになった?」
「九時ごろでしたよ」
書生が又変な顔をした。九時といえばまだ紋三があの暗い路地にうろうろしていた時分だった。彼は益々分らなくなった。山野夫人があの厳重な見張りをどうして抜け出すことが出来たか。そんなことは到底不可能だ。とすると、昨夜のはやっぱり一場の悪夢に過ぎなかったのか。彼は兎も角一度夫人に会って見たいと思った。
「じゃ、まだ明智さんとこにいらっしゃるだろうね」
「エエ、つい今し方お出かけだったのですから」
「その後別に変ったこともない?」紋三は帰り支度をしながら、ふと気がついて尋ねた。「大将の病気はどうだね」
「どうもよくない様です。熱が高くって、今朝から看護婦が二人来る様になったのですが、何だかどうも、内の中が滅茶苦茶ですよ。そこへ、小間使の小松が、昨夜医者へ行くといって出た切り帰らないのです」
「小松といえば、頭痛がするとかいって寝ていたあれだね」
「エエ、心当りへ電話をかけたり、使をやったりしたのですが、今の所行方不明です。それに又、今朝は早くから警察の人達がやって来る始末でしょう。奥さん一人で大変なんです」
「警察では、何か手がかりでもついたのかい」
紋三は一々出し抜かれた様で、いい気持はしなかった。
「駄目ですよ、何も分ってやしないのです」書生ははき出す様にいった。「例の片腕の小包のことを、明智さんから通知したのでしょう。で、それを調べに来たのですよ。あのやかましい百貨店の片腕事件が、うちのお嬢さんの事件と関係があることが分ったものだから、警察でもやっと本気に騒ぎ始めたのですよ。そんな訳で、お嬢さんのなくなったことは、主人には今まで内密にしていたのが、すっかり分ってしまって、一層病気がひどくなったのです。実際滅茶滅茶です。我々にしたって夜もろくろく寐られやしない」
書生はニキビ面をしかめて、大袈裟にこぼして見せた。
紋三はそれだけ聞いてしまうと山野家を辞して、夫人の跡を追い赤坂の明智の宿に向った。彼の頭には様々の事柄がモヤモヤと渦を巻いていた。疑問の人物が一日一日ふえて行く様にも見えた。第一が例の奇怪な一寸法師、暇を取った運転手の蕗屋、昨夜の不思議な眼鏡の男、今また小間使小松の失踪、それに彼の敬愛する百合枝夫人もまた、渦中の人に相違ないのだった。
昨夜のことはまさか夢ではないのだから、いくら好意に解釈しても、夫人がこの事件でかなり重要な役割を演じていることは確だし、悪く考えれば、夫人が彼女にとっては継子である三千子を、何かの手段でなきものにしたとも疑うことが出来た。紋三は昨夜から度々この恐しい疑問にぶつかった。ぶつかる毎に思わずギョッとして、強いて外の事を考え考えして来た。
だが、万一その疑いが事実だったとしても彼は決して夫人を憎まないばかりか、寧ろ彼女と共にその罪の発覚を恐れ秘密を保つ為に努力したに相違ない。そして、この様な夫人の弱味を握ったことを彼女との間の永久の絆として、私に喜んだかも知れないのだ。彼の夫人に対する一種のあこがれは、この数日の間に、それ程までに育てられていた。随って、彼は明智の才能を恐れないではいられなかった。もし彼が首尾よく三千子殺害の犯人を発見し得たならば、そして、その犯人が外ならぬ百合枝夫人だったら、と思うと気が気でなかった。そんな意味からも彼は一度明智に逢って様子を探って置きたかった。
「併し、まさかそんなことはあるまい。もし夫人にやましいところがあれば、最初から明智なんか頼まないだろうし、昨夜の今日、彼女の方から明智を訪ねるというのも辻褄が合わない」
それを考えると少し安心が出来た。
そうした物思いに耽っている間に、電車はいつか目的の停留場に着いていた。車掌が大きな声を出さなかったら、彼はうっかり乗越しをするところだった。菊水旅館を訪ねると、直ぐに明智の部屋へ通されたが、そこには明智一人きりで目的の山野夫人の姿はなかった。
「山野の奥さんはみえていないのですか」
紋三は座りながら、まずそれを聞いた。
「今、帰られたところだ。もう一足早ければ逢えた」
明智は相変らずニコニコして紋三を迎えた。
「そうですか、急いで来たんだけど、……それはそうと、その後何か手がかりでも見つかりましたか」
年齢や社会的地位は違っても、昔の下宿友達の心易さが、つい口を軽くした。それに紋三は昨夜の冒険でいくらか思い上っていた。彼の様な素人があの重大な秘密をかぎつけているのに、名探偵といわれる明智がまだ何事も知らないらしい様が、もどかしくもあり、少からず愉快でもあった。
「イヤ、発見というほどのこともないよ」
明智は落ちついていた。
「この事件はかなり難かしそうですね。あなたにも似合わない進行が遅いじゃありませんか」
紋三はついそんな口が利いて見たくなった。いってしまってからハッとして明智の顔色を読んだ。
「随分変な事件だからね」だが明智は別に怒る様子もなくて、やっぱりニコニコしていった。「それはそうと、君は昨夜は大いに活動したそうだね。僕の方の手がかりなんかより、一つそれを聞こうじゃないか。君も中々隅に置けないね」
紋三はいきなり赤くなってしまった。明智がどうして昨夜の出来事を知っているのか、不思議で仕様がなかった。彼のニコニコ顔がにわかに薄気味の悪いものに思われて来た。
「君は、今山野夫人から何か聞いたと思うかも知れないが、その心配はない。奥さんは決して君の変装を感づきはしなかった」明智は紋三の表情を巧に読んでいった。「奥さんはこのごろ何もいわなくなった。一寸した事でも隠そう隠そうとしている。僕に探偵を依頼したのを後悔している様子さえ見える。だから、今日来たのも、早く犯人が見つけたい為ではなくて、僕がどこまで真相を探っているか、ビクビクもので、それを聞き出しにやって来たのだ」
「じゃ、あなたは奥さんが今度の犯罪に何か関係があると思うのですか」
紋三は明智の底意が知りたかった。
「関係のあることは明白だ。併しなぜ夫人が自ら進んで僕なんかに探偵を依頼したか、そして今になってそれを後悔し始めたか、この点がよく分らない。大体あの女自身が一つの疑問だよ。非常に貞淑の様でもあり、どうかすると馬鹿にコケットな所も見える。一寸とらえ所がない。だから、ひょっとしたら彼女は、態と僕の前にこの事件をなげ出して見せて、大胆なお芝居を打とうとしたのかも知れない。秘密がバレるおそれはないと信じ切って、たかを括っていたのかも知れない。女の犯罪者には、そういう突飛なのがあるものだ」
「もしそうだとすると、最近にその自信を失う様な事件が起った訳ですね」
「僕だって、これで中々働いているんだよ。彼女にもしうしろ暗い点があれば、心配し出すのは無理ではない。君なんか、僕が手をつかねて遊んでいた様に思っているだろうが、どうして、そんなものじゃないよ。現に君の昨夜の行動だって、すっかり分っているのだからね」
「昨夜の行動っていいますと?」
「ハハハハハ、しらばくれても駄目だ。自動車の番号まで調べがついているんだから。君が昨夜助手に変装して夫人ともう一人の男をのせて行った車は、君だって知るまいけれど、二九三六という番号なんだ」
「じゃ昨夜、あなたもどっかに隠れていたんですか」
「ソラごらん。とうとう白状してしまった。想像なんだよ。多分君だと思ったものだから、鎌をかけて見たんだよ。種をあかすとね。山野の内のお雪という小間使が僕の腹心なんだ。二度目にあすこへ行って雇人達を一人一人調べた時、適当なのを選り出したのだ。無論報酬も約束したけれど、あのお雪というのは雇人の内でも一番忠義者で、お邸の為だというと、進んで僕の頼みを聞いてくれた。中々役に立つ女だよ。それが昨夜夫人のあとを尾行して、自動車の番号を覚えていてくれたのだ。それから先はお雪からの電話で、僕自身が出動して取調べた。車の番号が分っているのだから、その帳場を探し出すのは訳はない。帳場が分って運転手が分れば、今度は五円札一枚ですっかり調べがつく。君らしい男に頼まれて運転台にのせたことも、その男が二人の乗客のあとを追ったことも明白になった。だが夫人をつれ出した男は随分用心深くやったね。悪事には慣れた奴だ。目的の家の前まで車にのる様なことはしなかった。だから僕には君達の行った内までは分らないけれど、自動車を止めたのが本所中之郷T町だから、僕の想像では、同じ中之郷O町の小さな門のある無商家じゃないかと思うのだが、どうだね」
「その通りです。どうして分りました」
紋三は明智の名察にめんくらって、夫人のためにその内を秘密にして置くつもりのを、つい忘れてしまって叫んだ。
「やっぱりそうだったか。じゃ序だからすっかり話しをするがね。その前に、見せるものがあるんだ」
明智は手文庫の中から、細長く破れた幾つかの紙切れを取だし、丁寧に皺をのばして、卓上に並べ、順序をそろえて継ぎ合せた。
明智は妙な紙切を継ぎ合せてしまうと、それを卓の隅におしやって置いて、手文庫の中から次々と色々な品物を取出した。例のピアノのスプリングに引懸っていた黒い金属の束髪針、三千子の鏡台から持って来た沢山の化粧品類、三千子の机の上にあった指紋つきの吸取紙、えたいの知れない石膏のかけら、網の様な春のショール、小型の婦人持手提、一枚の写真、三通の封書、それだけの品々をまるで夜店の骨董屋の様に、ズラリと卓上に置き並べた。外にまだ、手文庫の底には穿きふるしたフェルトぞうりが一足残っていた。
小林紋三はこの驚くべき光景を見て、あっけにとられてしまった。その品々は凡て今度の事件の証拠品に相違ないのだが、いつの間に明智がこれだけのものを集めたか、一々説明を聞かないでも、その物々しい様子を見ただけで、ついさっきまで明智に対して抱いていた、多少の軽蔑の念が、あとかたもなくなってしまった。
「どうだい小林君、僕が怠けていなかったしるしだよ。この品々は間もなく僕の手を離れる。僕の友人の田村検事が今度の事件の受持に極ったということだから、みんなあの男に渡してやる積りだ。これだけあれば随分調の足しになる。いや足しになるどころではない、これを十分吟味すれば、何もジタバタしなくたって、坐っていて事件の真相をつかむことが出来るかも知れない。で、僕の手を離れる前に、丁度いい機会だから君に一応見て置いてもらおう。君は今度の事件の紹介者でもあるし、君自身中々熱心な素人探偵でもある様だから、僕にしてはいわば職業上の秘密なんだけれど、特にお目にかける訳だ。その代りこの品々に対する僕の判断は一切いわない。いえないのじゃない。いうことを差控えて置くのだ。君も知っている通り、僕は事件がすっかり解決するまでは、中途半端な想像なんかしゃべらない癖なんだ」
明智はそれらの品物を愛撫する様にひねくり廻しながら、一寸奥底の知れない薄笑いを浮べていった。骨董屋の親父が古道具の値ぶみでもしている恰好だった。
「どれから始めるかな」彼はさも楽しげに見えた。「そうそうO町の家のことを話し始めていたね。君は驚いた様だが、実はこんな種があるんだよ。この破れた紙切だ。一寸読んで見給え」
それは半紙の半分程の分量の紙が、細かく切り裂かれた上に、所々焼けこげがあって、多分手紙の切れはしなのであろうが、とても完全に読むことは出来なかった。
……御依頼により埋葬仕……と小生とかの蕗屋の三人のみに有之……右につき篤と御談合申上度……郷表(一二字分不明)六三中村……御一読の上は必ず火中……