浦添考

3話

1,021字 約2分 2021年8月13日 公開

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 案ずるに沖縄の港は牧那渡(まちなと)(とまり)、那覇という順に開けたのであろう。察度(さっと)王時代に牧湊(まきみなと)が中山で重要な港であったことは、『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』に、

当時牧那渡に倭人商船数多参りけるが、過半は皆鉄をぞ積みてける。彼男子(察度)(この)鉄を皆買取てけり。其比(そのころ)は牧那渡の橋は無くて、上下往来の大道は金宮(こがねみや)の麓よりぞ有りける。

とあるのでもわかる。また同書によって察度の第宅(ていたく)なる大謝名(おおじゃな)の金宮の辺がかなり繁昌した所であった事もわかる。『オモロ双紙』によれば泊も那覇?――も古くは浦添間切(まぎり)の中であったという事がわかる。浦添間切内の事を歌った「うらおそいのおもろさうし」(明の天啓三年編纂)に、

あさとおきておやみかま

かまゑつむしよりおやぐに

あめくぐちおやどまり

なはどまりおやどまり 〔十五―一〕

という事がある。「あさと」は真和志(まわし)間切の安里村で、「あめくぐち」は天久の港即ち泊港の事である。「なはどまり」は那覇港の事で、「おやどまり」は大きな港という事である。このオモロは安里の役人のオヤミカマが属島から首里政府に奉る貢物を受取る事を歌ったのである。当時、泊は安里村の一部で浦添間切に属する港であって、那覇は浦添間切の西南端に位する小な島であった。英祖の時代に西北諸島すなわち久米、慶良間(けらま)伊平屋(いへや)及び奄美(あまみ)大島がはじめて入貢したので官衙(かんが)を泊村に官舎をその北に建てた。この頃には泊港が沖縄第一の港であったのである。察度の時代に宮古、八重山が附属するようになったので、いわゆる「ぢばなれ」(属島)の船舶の出入が頻繁となり、三山統一後には一層頻繁となった。

きこゑうらおそいに

にしひがのかまへもちよせて

とよむうらおそいに 〔十五―二六〕

というオモロはこの辺の事を歌ったのである。名高き浦添に西東の貢物を寄せ集めて云々というほどの意である。

きこゑうらおそいや

しまのおややれば

もゝぢやらのかまへつでみおやせ

とよむうらおそいや 〔十五―二一〕

 前のと似て、名高き浦添は島々の頭なれば諸按司より献じ来る貢物を取立てて奉れよとの意である。さて始めのほどは泊港に関する一切の事務は安里(うっち)に一任しておいたが、最早(もはや)間に合わなくなったのである。『中山世譜(ちゅうざんせいふ)』〔『球陽』〕に、

尚徳王成化二年王命呉弘肇(泊里主宗重)始任泊地頭職而掌管泊邑及大島徳島鬼界与論永良部島至于近世改称泊町奉行後亦仍称泊地頭兼任取次職(始建泊地頭)

と見えている如く、いつしか泊地頭を置く必要を感じたのである。今をさること四百四十一年前のことである。

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