4話 四
読み方を変える
沖縄と南洋諸島との交通が、察度以前に既に開けていたという証拠はあるが、南洋諸島の船舶が何港に碇泊したかということは判然しない。南洋諸島との貿易は十五、六世紀に至って漸く盛んになり、支那との往来もまた繁くなったが、泊港はこれらの船舶を入るるには余りに狭く、傍政治上の都合などもあって、那覇を築港して貿易港にあてた。『中山世譜』に、
本国自唐宋以来、与朝鮮日本暹羅瓜哇等諸国、互相通好、往来貿易、但世遠籍湮、往来年月、難以委記、即今那覇親見世者、因与諸国交通貿易、故建公館于那覇、令置官吏以掌其事、名其館曰親見世、又建公倉于那覇江中、以蔵貿物、名其倉、曰御物城、然何世建之、今難以詳考、
と書いてある。那覇が貿易港になったということは『那覇由来記』を見てもわかる。また「江戸立之時仰渡並応答之条々之写」という書にも「昔は沖縄島那覇港者唐融通の港にて候由」という記事がある。しかし『中山世譜』より前に出た、『中山世鑑』には少しもこういう記事がないというので、この事実を疑う人があったら、『中山世鑑』よりも二十三年も前に出来た『オモロ双紙』を一瞥するがよい。そうすると、
しよりおわるてだこが うきしまはげらへて たう なばんよりやうなはとまり ぐすくおわるてだこが 〔十三―八〕
というオモロを見出すであろう。これは右に出した漢文と殆ど同意義で首里に在す王が浮島を築港して唐南蛮の船舶の寄合う那覇港となした、という意である。今日の風月楼は昔の御物城の趾で、南洋貿易後代の遺物である。その附近から今でも青磁の破片が沢山発見される。これらの青磁には立派な唐草模様が付いていて、広東省広州府石湾で製造した青磁だということが証明された。『混効験集』を按ずるに「うきしま」は那覇のことである。今日地勢から見ても、那覇がかつて島であったということは容易く想像される。その昔、首里人が那覇を見おろして浮島と呼んだのも無理はない。四百五十五年前までは首里から那覇へ行くにはよほどの困難を感じたが、尚金福の時いわゆる長虹堤を築いて首里と那覇とを連絡した。『遺老説伝』に、
尚金福王命国公懐機築建長堤以便往来懐機以海底已深無力可施恭備祭品祈天告神一七日間海水乾涸即国内人民婦女運来石塊云々
とある記事や『那覇由来記』に、
扨沖道を築ける事は、前代尚金福王の御時国公といふ人有り、人を利し世を治むる故に、斯名付、其比封王有唐家の勅使此首里往復の路不平なり。此人俄に改め一七日にして石を布山を平ぐ、云々。
とある記事を見ても首里、那覇の往来は昔は干潮の時でなければ出来なかったがこの大工事によっていつでも渡ることが出来るようになったということがわかる。この長堤あるいは沖道というのは瀉原のツンマーシヤーの前から十貫瀬を経て崇元寺に至るまでの道路である。
こういうようにして、那覇は出来上ったのである。(最近神歌及び『由来記』の研究から、沖縄及び那覇の語源を発見したが、それは近著『沖縄考』で発表した。)爾来泊港は本島及び属島の船舶をつなぐ国港となり、那覇港は外国船を入れる貿易港となった。当時御物城の下に支那及び南洋の船の輻輳していたことはあのオモロを見てもわかる。察度の時に沖縄に帰化した三十六姓を那覇に置いたことや、武寧の時に始めて天使館を那覇に立てて冊封使時中を迎えたことなどを見ると、那覇の村落が五、六百年前からあったということは明かである。『中山世譜』〔『球陽』〕に、
尚清王嘉靖七戊子年命毛見彩授那覇里主此職自此始已無疑矣
この時に至って那覇は全く出来上って、泊港の繁昌を奪ったのである。
政治上に於ける浦添人は尚巴志の勃興によってその勢力を失ったが、牧湊、泊、那覇の三港を有する浦添は依然として「うらおそい」であった。記録の語る所によれば、宜野湾間切は寛文三年(二百二十年前)に浦添・北谷・中城の三間切を割いて置いたとのことである。而して嘉数・大謝名・伊佐・宜野湾などの村が浦添に属していたことはオモロによりて明白である。また西原間切の棚原村も浦添の中であった。案ずるに昔は真和志間切の大半も浦添間切に属していたのであろう。またオモロによりて首里の北部が浦添間切に属していたことも明かである。首里ももと浦添から分離したのではなかろうか。さてかくの如くかなり広い面積を有し、主要なる港湾を備え、而も多くの歴史的人物を産出した浦添の名称が浦々を支配する所という意味を有していることは殆ど争うべからざる事実である。
(明治三十八年稿『琉球新報』所載・昭和十七年七月改稿)