香水紳士

1話

1,579字 約3分 2002年1月22日 公開

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 品川(しながわ)の駅で、すぐ前の席へ、その無遠慮(ぶえんりょ)なお客さんが乗り込んで来ると、クルミさんは、すっかり元気をなくしてしまった。

「今日は、日本晴れですから、国府津(こうづ)の叔母さんのお家からは、富士(ふじ)さんがとてもよく見られますよ」

 お母さんからそう聞かされて、喜び勇んでお家を出たときの元気はどこへやら、座席(ざせき)の片隅へ小さくなったまま、すっかり(しょ)げかえって、窓越しに、うしろへ飛び去って行く郊外近い街の屋根々々を、ションボリ見詰めつづけるのだった。

 東京駅発午前八時二十五分の、伊東行(いとうゆき)の普通列車である。

 その列車の三等車の、片隅(かたすみ)の座席に、クルミさんは固くなって座っているのだ。

 日曜日で、客車の中には、新緑の箱根(はこね)や伊豆へ出掛けるらしい人びとが、大勢乗っている。

 しかしクルミさんは、箱根や伊豆(いず)へ出掛けるのではない。ずっと手前の、国府津の叔母さんのところへ行くのだった。

 国府津の叔母さんのところには、従姉(いとこ)の信子さんがいる。信子さんは、クルミさんより五つ年上の二十一で、この月の末にお嫁入りするのである。クルミさんは、日曜日を利用して、娘時代の信子(のぶこ)さんへの、お別れとお(よろこび)を兼ねて、叔母さんのお家へ出掛けるのだった。

 網棚(あみだな)の上の風呂敷(ふろしき)の中には、お母さんから托された、お祝いの品が包んである。昨日、お母さんと二人で、新宿へ出てととのえた品であった。が、その時、おなじ店で、お母さんに知れないように、自分だけのお祝いのつもりで、買い求めたもう一つの品物がある。

 それは、クルミさんの制服のポケットの中に、こっそり忍ばせてあった。

 可愛い真紅(まっか)のリボンをかけた、小さな美しい細工の木箱にはいった香水だった。

「なにか、あたしだけのお祝いをあげたい‥‥」

 と思い、

「なんにしようか知ら?」

 と考えて、思いついた品だった。

「これ、あたしだけの、お祝い‥‥」

 そういって、こっそり信子さんに渡すときの楽しみを、昨夜から胸に(えが)いていたクルミさんである。

 その香水の、可愛い木箱と一緒に、クルミさんのポケットの中には、チューインガムとキャラメルがはいっている。快い小旅行への、楽しい用意であるはいうまでもない。

 実際、クルミさんは、今日の国府津行(こうづゆき)を、もう三日も前から、夜も眠られないほど楽しみにしていた。

 いよいよ今朝になると、もう御飯もろくに咽喉(のど)を通らない。

「駄目ですよ、クルちゃん。御飯だけは、ウンと食べて行かなくっては‥‥」

 お母さんにたしなめられても、

「だって、いただきたくないんですもの。もし、おなかがすいたら、大船(おおふな)でサンドウィッチを買いますわ。あすこのサンドウィッチ、とてもおいしいんですもの」

「まア、あきれたおしゃまさんね。どこからそんなこと聞き(かじ)ったの?」

「あーラいやだ。だって、去年の夏、鎌倉(かまくら)の帰りに、お母さんが買って下さったじゃないの‥‥」

 そんなわけで、早々にお家を飛びだすと、いそいそとして東京駅へやって来たクルミさんである。

 日曜日で、列車はわりにたて混んでいたが、それでも車室の一番隅っこに、まだ誰も腰掛(こしか)けていない上等のボックスがみつかった。

 一番隅っこであったことが、わけもなくクルミさんを喜ばした。

「ここなら、ガムを()んだって、サンドウィッチを食べたって、恥かしくないわ」

 こころゆくまで、一時間半の小旅行が楽しめるのだ。

 まず、窓際へゆっくり席をとって、硝子窓(がらすまど)を思いッきり押しあける。と、こころよい五月の微風(びふう)が、()れかかるように流れこんで来た。

 やがて、ベルが鳴り、列車は動きだす。そして、クルミさんの楽しい小旅行がはじまったのだ。

 ところが――

 そうして、まだ十分もしないうちに、列車が品川の駅へとまると、クルミさんのボックスへ、一人の相客(あいきゃく)が割りこんで来た。そしてそのお客さんのお蔭で、とたんにクルミさんはすっかり(しょ)げかえって座席の片隅へ、小さくなってしまったのであった。

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