2話 二
読み方を変える
その客は、年のころ四十前後の、眼つきの妙に鋭い、顔も体もいやに大きな、洋服の紳士であった。
中折帽を眼深にかむって、鼠色のスプリング・コートのポケットへ、何故か右手を絶えず突込んだままでいる。
最初、紳士は、車室の中へはいって来ると、通路に立ったまま、素早く車内を眺めまわし、まだほかにも席がないではないのに、ふと、クルミさんのほうをみると、さも満足したような表情をチラッと見せて、すぐにやって来ると、クルミさんの眼の前の席へ、大きな体で無遠慮に、黙ったままドシンと腰掛けたのであった。
そして、笑うでもない、怒るでもない、まるでお面のような無表情な顔で、クルミさんの顔を、体を、シゲシゲと見るのだ。
帽子はかむったまま、右手はポケットへ入れたままである。
クルミさんは、ヒヤリとして、身をすくめると、窓の外へ顔をそむけてしまった。
列車はいつのまにか、新緑の大森の街を走っている。
空は、すばらしい日本晴れだ。
普通ならば、もうこの辺で、そろそろチューインガムを噛みはじめる予定だったのに、いまはそれどころではない。
「折角の楽しみも、これですっかりオジャンだわ」
クルミさんは、横顔のあたりに紳士の気味悪い視線を感じながら、ひそかに溜息をついた。
やがて紳士は、クルミさんのほうから顔をそらすと、窓の方を背にして、横向きになった。そして、コートの左のポケットから左手で新聞をとり出すと、相変らず右手はポケットへ入れたまま、不自由そうに片手で新聞をひろげて、それを顔の上へかぶせるようにしながら、熱心に読みはじめた。
窓の外を見ていても、クルミさんには、その動作がよくわかるのである。
時々、窓から流れ込む爽やかな風に吹かれて、新聞が、ペラペラと鳴る。すると紳士は、その都度顔をしかめて、こちらを見る様子である。
「窓をしめなければ、いけないかしら」
クルミさんはそう思った。
しかし、どうしたものか、妙にからだがすくんでしまって手が出せない。だいたい、この紳士が乗り込んで来てからは、まだ、身動きひとつしていないクルミさんである。それに、窓をしめるとすれば、どうしても、紳士の頭のうしろへ片手を持って行かなければならない。そう思うと、いよいよ固くなってしまうのだった。
突然、紳士が立ちあがった。
そして、窓から外を見ているクルミさんにはものも云わず荒々しい調子で、硝子窓をしめてしまった。
クルミさんは、ハッとなって身を退いた。
紳士の不機嫌が、クルミさんの心を鞭打ったのだ。が、そればかりではない。もう一つ大きな理由があったのだ。クルミさんは、紳士の右手を、はじめて見たのである。
誰でも知っているように、汽車の窓をしめるには、必ず両手を使わなければならない。それで、今、立ちあがった紳士も、この時はじめて右手をポケットから出して、両手で窓をしめたのであるが、丁度その右手が、窓の外を見ているクルミさんの顔の前へ来てとまった。が、窓がしまると、素早く紳士はその手を引ッこめて、ポケットへ入れ、再び前の姿勢になって、新聞を読みはじめたのだ。
しかし、その短い間に、クルミさんは、紳士の右手を見てしまった。
その手は、中指が根元からなくて、四本指である。
「ああ、傷痍軍人の方か知ら?」
瞬間、クルミさんはそう思って、みるみる身内が熱くなった。
「もしそうだったなら、あたしはなんて愚かな少女だろう。そういう立派なお方と、同席したことを不愉快に思っていたなんて!」
しかし、すぐにクルミさんの頭の中には、ムラムラとひとつの疑惑が持上った。
「でも、もし軍人さんだったなら、どうしてそのように貴い御負傷を、こんなに不自然にお隠しになるのだろう?」
――そうだ、たとい、軍人さんでなくって、普通にお怪我をなさった方にしても、こんなに不自然な、隠されかたをされる筈はない。
クルミさんは、そう思うと、なんだか前よりも体が引きしまるような気がして、一層小さくなりながら、硝子越しに、ひたすら窓の外を見詰めつづけるのだった。