香水紳士

2話

1,655字 約3分 2002年1月22日 公開

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 その客は、年のころ四十前後の、眼つきの妙に鋭い、顔も体もいやに大きな、洋服の紳士であった。

 中折帽を眼深(まぶか)にかむって、鼠色(ねずみいろ)のスプリング・コートのポケットへ、何故か右手を絶えず突込んだままでいる。

 最初、紳士は、車室の中へはいって来ると、通路に立ったまま、素早(すばや)く車内を眺めまわし、まだほかにも席がないではないのに、ふと、クルミさんのほうをみると、さも満足したような表情をチラッと見せて、すぐにやって来ると、クルミさんの眼の前の席へ、大きな体で無遠慮(ぶえんりょ)に、黙ったままドシンと腰掛けたのであった。

 そして、笑うでもない、怒るでもない、まるでお(めん)のような無表情な顔で、クルミさんの顔を、体を、シゲシゲと見るのだ。

 帽子はかむったまま、右手はポケットへ入れたままである。

 クルミさんは、ヒヤリとして、身をすくめると、窓の外へ顔をそむけてしまった。

 列車はいつのまにか、新緑の大森(おおもり)の街を走っている。

 空は、すばらしい日本晴れだ。

 普通ならば、もうこの辺で、そろそろチューインガムを()みはじめる予定(よてい)だったのに、いまはそれどころではない。

「折角の楽しみも、これですっかりオジャンだわ」

 クルミさんは、横顔のあたりに紳士(しんし)の気味悪い視線(しせん)を感じながら、ひそかに溜息(ためいき)をついた。

 やがて紳士は、クルミさんのほうから顔をそらすと、窓の方を背にして、横向きになった。そして、コートの左のポケットから左手で新聞をとり出すと、相変らず右手はポケットへ入れたまま、不自由そうに片手で新聞をひろげて、それを顔の上へかぶせるようにしながら、熱心に読みはじめた。

 窓の外を見ていても、クルミさんには、その動作がよくわかるのである。

 時々、窓から流れ込む爽やかな風に吹かれて、新聞が、ペラペラと鳴る。すると紳士(しんし)は、その都度顔をしかめて、こちらを見る様子である。

「窓をしめなければ、いけないかしら」

 クルミさんはそう思った。

 しかし、どうしたものか、妙にからだがすくんでしまって手が出せない。だいたい、この紳士が乗り込んで来てからは、まだ、身動きひとつしていないクルミさんである。それに、窓をしめるとすれば、どうしても、紳士の頭のうしろへ片手を持って行かなければならない。そう思うと、いよいよ固くなってしまうのだった。

 突然、紳士が立ちあがった。

 そして、窓から外を見ているクルミさんにはものも云わず荒々しい調子で、硝子窓をしめてしまった。

 クルミさんは、ハッとなって身を退()いた。

 紳士の不機嫌(ふきげん)が、クルミさんの心を鞭打(むちう)ったのだ。が、そればかりではない。もう一つ大きな理由があったのだ。クルミさんは、紳士の右手を、はじめて見たのである。

 誰でも知っているように、汽車の窓をしめるには、必ず両手を使わなければならない。それで、今、立ちあがった紳士も、この時はじめて右手をポケットから出して、両手で窓をしめたのであるが、丁度(ちょうど)その右手が、窓の外を見ているクルミさんの顔の前へ来てとまった。が、窓がしまると、素早(すばや)く紳士はその手を引ッこめて、ポケットへ入れ、再び前の姿勢になって、新聞を読みはじめたのだ。

 しかし、その短い間に、クルミさんは、紳士の右手を見てしまった。

 その手は、中指が根元(ねもと)からなくて、四本指である。

「ああ、傷痍軍人(しょういぐんじん)の方か知ら?」

 瞬間、クルミさんはそう思って、みるみる身内(みうち)が熱くなった。

「もしそうだったなら、あたしはなんて愚かな少女だろう。そういう立派なお方と、同席したことを不愉快に思っていたなんて!」

 しかし、すぐにクルミさんの頭の中には、ムラムラとひとつの疑惑(ぎわく)が持上った。

「でも、もし軍人さんだったなら、どうしてそのように貴い御負傷を、こんなに不自然にお隠しになるのだろう?」

 ――そうだ、たとい、軍人さんでなくって、普通にお怪我(けが)をなさった方にしても、こんなに不自然な、(かく)されかたをされる筈はない。

 クルミさんは、そう思うと、なんだか前よりも体が引きしまるような気がして、一層小さくなりながら、硝子越しに、ひたすら窓の外を見詰めつづけるのだった。

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