綺堂むかし語り

20話 市中の夏

2,175字 約4分 2001年10月15日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 市中に生まれて市中に暮らして来た私たちは、繁華熱鬧(はんかねつとう)のあいだにもおのずからなる涼味を見いだすことに多年馴らされている。したがって、盛夏の市中生活も遠い山村水郷は勿論、近い郊外に住んでいる人々が想像するほどに苦しいものではないのである。

 地方の都市は知らず、東京の市中では朝早くから朝顔(あさがお)売りや草花売りが来る。郊外にも売りに来るが、朝顔売りなどはやはり市中のもので、ほとんど一坪の庭をも持たないような家つづきの狭い町々を背景として、かれらが売り物とする幾鉢かの白や紅やむらさきの花の色が初めてあざやかに浮き出して来るのである。郊外の朝顔売りは絵にならない。夏のあかつきの薄い(もや)がようやく()げて、一町内の家々が大戸(おおど)をあける。店を飾り付ける。水をまく。そうして、きょう一日の活動に取りかかろうとする時、かの朝顔売りや草花売りが早くも車いっぱいの花を運んで来る。花も葉もまだ朝の露が乾かない。それを見て一味(いちみ)の涼を感じないであろうか。

 売りに来るものもあれば、無論、買う者もある。買われたひと鉢あるいはふた鉢は、店の主人または娘などに手入れをされて、それから幾日、長ければひと月ふた月のあいだも彼らの店先を飾って、朝夕の涼味を漂わしている。近ごろは店の前の街路樹を利用して、この周囲に小さい花壇を作って、そこに白粉(おしろい)や朝鮮朝顔や鳳仙花(ほうせんか)のたぐいを栽えているのもある。

 釣荵(つりしのぶ)は風流に似て俗であるが、東京の夏の景物として詩趣と画趣と涼味とを多分に併せ持っているのは、かの虎耳草(ゆきのした)であることを記憶しなければならない。村園にあれば勿論、たとい市中にあってもそれが人家の庭園に叢生(そうせい)する場合には、格別の値いあるものとして観賞されないらしいが、ひとたび(あわび)の貝に養われて人家の軒にかけられた時、俄かに風趣を添うること幾層倍である。鮑の貝と虎耳草、富貴の家にはほとんど縁のないもので、いわゆる裏店(うらだな)に於いてのみそれを見るようであるが、その裏長屋の古い軒先に吊るされて、(こけ)の生えそうな古い鮑の貝から長い蔓は垂れ、白い花はこぼれかかっているのを仰ぎ視れば、誰でも涼しいという心持を誘い出されるに相違ない。周囲が(きた)なければ穢ないほど、花の涼しげなのがいよいよ眼立ってみえる。いつの頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流を諸人に教え伝えたのであろう。

 虫の声、それを村園や郊外の庭に聴く時、たしかに幽寂(ゆうじゃく)の感をひくが、それが一つならず、二つならず、無数の秋虫一度にみだれ(むせ)んで、いわゆる「虫声満地」とか「虫声如雨」とかいう(きょう)に至ると、身にしみるような涼しさは掻き消されてしまう憾みがある。むしろ白日炎天に汗をふきながら下町の横町を通った時、どこかの窓の虫籠できりぎりすの声がひと声、ふた声、土用(どよう)のうちの日盛りにも秋をおぼえしめるのは、まさにこの声ではあるまいか。

 秋虫一度にみだれ鳴くのは却って涼味を消すものであると、私は前に云った。しかもその騒がしい虫の声を市中の虫売りの家台(やたい)のうちに聴く場合には、まったくその趣を(こと)にするのである。夜涼をたずねる市中の人は、往来の少ない幽暗の地を選ばないで、却って燈火のあかるい雑沓(ざっとう)の巷へ迷ってゆく。そこにはさまざまの露店が押し合って列んでいる。人もまた押し合って通る。その混雑のあいだに一軒の虫売りが市松障子(いちまつしょうじ)の家台をおろしている。松虫、鈴虫、草雲雀(くさひばり)のたぐいが掛行燈(かけあんどう)の下に声をそろえて鳴く。ガチャガチャ虫がひときわ高く鳴き立てている。周囲がそうぞうしい為であるかも知れないが、この時この声はちっとも騒がしくないばかりか、昼のように明るい夜の町のまんなかで俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足を停めるものは子供ばかりではあるまい。楊誠斎(ようせいさい)の詩に「時に微涼あり、是れ風ならず。」とあるのは、こういう場合にも適応されると思う。

 夏の夜店で見るから涼しげなものは西瓜(すいか)()ち売りである。衛生上の見地からは別に説明する人があろう。私たちは子供のときから何十たびか夜店の西瓜を買って食ったが、幸いに赤痢(せきり)にもチブスにもならないで、この年まで生きて来た。夜の灯に照らされた西瓜の色は、物の色の涼しげなる標本と云ってもよい。唐蜀黍(とうもろこし)の付け焼きも夏の夜店にふさわしいものである。強い火に焼いて売るのであるから、本来は暑苦しそうな筈であるが、街路樹などの葉蔭に小さい店を出して唐もろこしを焼いているのを見れば、決して暑い感じは起らない。却ってこれも秋らしい感じをあたえるものである。

 金魚も肩にかついで売りあるくよりも、夜店に金魚(おけ)をならべて見るべきものであろう。幾つもの桶をならべて、緋鯉(ひごい)、金魚、目高のたぐいがそれぞれの桶のなかに群がり遊んでいるのを、夜の灯にみると一層涼しく美しい。一緒に大きい亀の子などを売っていれば、更におもしろい。

 こんなことを一々かぞえたてていたら際限がない。

 心頭(しんとう)を滅却すれば火もおのずから涼し。――そんなむずかしい(さと)りを開くまでもなく、誰でもおのずから暑中の涼味を見いだすことを知っている。とりわけて市中に住むものは、山によらず、水に依らずして、到るところに涼味を見いだすことを最もよく知っているのである。

 わたしは滅多に避暑旅行などをしたことは無い。

目次に戻る

目次