妖怪学

6話 秘法彙集ならびにその説明(1)

7,449字 約15分 2013年4月28日 公開

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 手の先より細糸を引き出す秘法 俗間に伝わるところのいろいろの奇怪ある中に、糸引きの秘法と申すものあり。糸引きとは、身体のいろいろの部分より自然に細糸を引き出す法にして、ちょっと聞いても、ずいぶん奇怪千万のことのように思わる。すでに世間に宝物として遺存せるものの中に、糸引きの名号(みょうごう)と称するものあり。すなわち、名号とは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と題する六字にして、これに対して合掌礼拝するときは、その手より糸の出ずるを見るという。ゆえに、これを糸引きの名号と名づくるなり。しかれども、その糸の出ずるは、必ずしも六字の名号に限るにあらず、仏像に対するも、神像に対するも、画像に対するも、同様の次第にて、これに対して合掌礼拝すれば、必ず細糸の指端に出ずるを見るなり。ゆえに、民間にていろいろの像に対して礼拝をなして糸の出ずるときは、その人、信心よろしき故なりといい、糸の出でざるときは、その人に罪業あるによるなどと申す由に聞き及べり。

 しかるにまた、先年ある人の話に、東京府下駒込辺りのある信者の家に、念仏行者体のもの止宿して、参詣(さんけい)人の手の掌中に「仏」の字五つを書し、その手を取りて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と数回唱うるときは、必ずその手の周囲に細糸の生ずるを見る。よって人々大いに不審に思い、諸方より群集してその行者を念ぜしという。

 その手より出ずるところの細糸のことについて、余、先年ある寺に至り、糸引き名号を拝して、これを試みたることあり。また、不思議研究会において試験を行いたることありき。そのとき得たる糸は、その色白く、その長さは一、二分より五、六分くらいありて、太さは髪の毛より細く、あたかも日本紙を引き裂きたるときに、その裂き口に立ちたる細毛と同様なり。中に色の赤きもあり、また青きもあれども、たいてい白きを常とす。かくのごとき細毛の指端に立ちて動揺するを見て、これを世間にて糸の出ずるというなり。その状、あたかも小毛の肉中より生ずるがごとし。しかして、外よりこの毛に触るるときは、たやすくこれを取り離すことを得べし。そのとき、(ごう)も引き抜くがごとき感覚を起こすことなし。よって考うるに、その毛、果たして肉中より生ぜしものならば、これを取り離すときに、いくぶんか引き抜くがごとき感覚を起こすべき道理なり。しかるに、毫もその感覚なくして、他の指端をもってこれに触るれば、たやすく他の指に移すことを得るは、その毛の肉中より出ずるにあらずして、ほかより指端に加わりたるものならんと想像することを得べし。この想像によりて試験を施すときは、また、たやすくその道理を発見することを得るなり。

 第一に、六字名号とか、画像とか、木像とかを拝礼するときにのみ、細糸の生ずるにあらざるゆえんを試むるを必要なりとす。もし、たれびとにてもこれを試みんと欲せば、行灯(あんどん)にてもランプにても、または柱にても、適意のものに対して五分ないし十分間、合掌礼拝すべし。しかるときは、画像、木像に対すると同様に、細毛の指端に生ずるを見るべし。これ、すなわち細糸を引き出すは、必ずしも神仏に対して礼拝するを要せざるゆえんにして、その生ずると生ぜざるとは、神仏を信ずると信ぜざるとによるにあらざるゆえん、また推して知るべし。ここに至りてさらに考うるに、そのいわゆる細糸は、身体の組織間より出ずるにあらず、また神仏の力によりて生ずるにあらず、空中に浮かぶところの塵毛(じんもう)の、落ちて指端に掛かるものならんとの想像を起こすに至るなり。しかるときは、さらに試験を施して、その神仏を礼拝して生ずるところの細糸と、空中に浮かぶところの塵毛とを比較して見るべし。もし、空中に果たしてかくのごとき塵毛の存するかを試みんと欲せば、旭日の光線の戸隙(こげき)より入るときに、その光線中に無数の塵毛のかかるを見て知るべし。また、障子の骨あるいはランプの台などを一両日払わざるときは、無数の塵毛のその上にとどまるを見るなり。その塵毛は大小長短一定せずして、色はたいてい白きを常とすれども、折々、赤き色または青き色のものも見出だすことあり。

 これらの試験法によりて、余は先年、不思議研究会において、そのいわゆる細糸は、断じて空中に浮かぶところの塵毛なることを論定せり。かつ、その説の信拠すべき他の理由は、神仏に対して礼拝するときは、第一に、手を水にて清め、第二に、その手を静かに保ち、第三に、かくのごとき信仰家はたいてい婦人に多し、第四に、礼拝の時間はおよそ五分ないし十分間を用うるものなり。この四つの事情は、大いに空中の塵毛の手に触れてその皮膚面につくに、いたって便なるところの事情なるを知るべし。

 まず第一に、手を清むるときは手に湿気を帯ぶるをもって、いたって塵毛の粘着しやすき事情あり。第二に、手を静かに保つときは、また塵毛の皮膚面にとどまりやすき事情あり。第三に、婦人はその手に油気を帯ぶるをもって、これまた粘着しやすき事情あり。かつ、ひとたびとどまりたるものは、たちまち飛び去らざるの事情あり。第四に、時間も五分ないし十分に至れば、空中にありふれたる塵毛中、やや長くかつ大なるものの、手面に触るるべき機会を得やすき事情あり。かつまた、人の伝うるところによるに、同じく礼拝するうちにても、男子よりは婦人、老人よりは少年に、糸の出ずること多しという。余、かつて自宅において、柱またはランプに対して、男女老少四、五人相集まりてこれを試みたることありしが、そのときも、果たして同一の結果を得たり。けだし、少年のものと婦人とは、手に油気を帯びて、塵毛の粘着しやすきによること明らかなり。

 これによりてこれをみるに、その、いわゆる糸引きの秘法は、神仏の力にあらず、また身体の組織中より出ずる毛髪にあらず。すなわち、空中に散ずるところの塵毛中のやや長くしてかつ大なるものの、手の皮膚面に粘着してかかること疑いを入れざるなり。

 マジナイ療法 余、マジナイの種類を集めたる小冊子を読み、その中に「小児の(かん)の虫を取るマジナイ」と題する一項あるを見る。その法、実に奇にして怪しまざるを得ず。しかるに再考するに、この法に類したるもの世間はなはだ多くして、ひとりこれをもってうらむに足らざるを知る。今、左にその法を掲げ、あわせてその説明を与えんと欲するなり。

   (一)小児の疳の虫を取るマジナイ

 この法は、晴天の()の時に、白胡麻(ごま)の油を手の甲、指、額に塗り、日輪に向かいて()らしめ、手合わさしてわが口のうちにて、

小松かきわけ出づる月その下かげにとるぞかんの虫

と読むべし。一時すぎて、白髪のようなる虫多く出ずるなり。目に入れぬようにただちにとるべし。

 これ、その法の大略なり。先ごろ哲学館館外員、玉内某氏より寄せられたる書中に左の一項あり。よろしく参照すべし。

 血気盛んなる小児の腹中に寄生する小虫を見る法なりとて、俗間に伝うるものを述ぶるに、小児の掌面に呪文(じゅもん)三回墨書し、さらにその上を墨にて塗抹(とまつ)して文字をして不明ならしめ、これを握ること暫時にしてその手をひらき見れば、その爪甲(そうこう)より毛ようのごとき白繊維のもの続々出ずるなり。これ、虫気の小児にありてしかるなりという。(下略)

 以上はマジナイ療法とでも名づくべきものか。余は、その療法は断じて信仰療法の一種なりといわんとす。ただ、その信仰療法に属し難きは、毛ようの細虫の出ずるの一点にあり。しかるに、毛虫(もうちゅう)を抜きて病気を療する法は、ひとり小児の(かん)病に限らず、虫歯を治するにこの法を用うるものあり、また、諸病を医するに、この法を唱うるものあり。しかして曰く、「病根となりし虫を抜き去るなり」と。ゆえに、余がここに説明すべき要点は、果たしてかくのごとき毛虫ありて、病客の体中に存し病根となるものか、もし、しかるべき道理なしとするときは、その毛虫は果たしてなにものなるやにあり。

 余が考うるところによるに、かくのごとき毛虫は真に存するものにあらず、ただ、世人誤り認めて毛虫となすのみ。いかなるものを毛虫となすか。曰く、空気中の塵毛(じんもう)の指端にとどまるものこれなり。余が前章において糸引きの名号、糸引きの念仏と称するものは、真の細糸にあらずして、空気中の塵毛なることを証明せり。今、毛虫もこれと同一種なりと信ず。

 毛虫の塵毛なるべき理由は左のごとし。その療法中、白胡麻(ごま)の油を塗ることあり。油は空中に浮かびたる塵毛を引きとどむるに便なるものなり。晴天()の時、日輪に向かいて座するは、塵毛の目に触れやすきときなるによる。一時過ぎて毛虫を見るというは、塵毛の指端につくには多少の時間を要するによる。およそ空気中に塵毛の多く浮かびおるは、晴天の朝、旭光の戸隙(こげき)に入るときにたやすく見るべし。また白昼、障子の骨もしくは行灯(あんどん)、ランプ、燭台(しょくだい)等の内外を熟視するときは、細かなる塵毛の群がり立つを見る。その形、毛ようの繊維の立つがごとし。これみな同種類なり。もし、小児より出ずるところの毛虫(もうちゅう)は、これと全くその種類を異にすというものあらば、よろしく二者を比較して検察すべし。余は断じて同一種なりという。

 その療法中に呪文(じゅもん)を唱うることあるは、人の信仰を引くための手段のみ。しかして、その病のよく治するは信仰の力なり。たとい小児自ら信仰のなんたるを知らざるも、その父母および乳母のこれに信仰を置くときは、知らず識らずの間に、その信仰の小児に感染するものなり。小児は無心なり。無心なるをもって感染しやすし。父母不快を感ずれば、小児は無心にしてこれに感染し、父母満足の状を呈すれば、小児もまた満足を感染すると同一なり。ゆえに余は、(かん)虫マジナイは信仰療法の一種なりという。

 その他、世間に伝わる種々のマジナイのうち、左にそのおもなるものを掲ぐ。

   (二)歯のいたみをたちまちとむる呪術

 その法は、桃の枝の東へむきたるをとり、楊子(ようじ)にけずり、これにて痛む歯に「南」という字を三度かき、その歯にてくわえさせ、わが口のうちにて「アビラウンケンソワカ」と三度となうれば、たちまちいたみとまること奇妙なり。

   (三)(また)ずれをたちまち治する呪術

 その法は、(そで)の中へ生薑(なましょうが)を入れて歩くべし。ただちに治すること妙なり。薑の()たるときは、また生なるに取り替えるべし。

   (四)(のど)に魚の骨たちたるをとる呪術

 その法は、つるし柿を(さね)をとりてひしいで、歯にて食いきらぬようにかみて、一息にのむべし。抜けること妙なり。また、「左」の文字を杯の中へ書き、水にてとき、のむべし。抜けること妙なり。

   (五)目に物の入りたるを出だす呪術

 なににても目に物の入りたるときは、目をふさぎ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と三度唱え、「つ」をのむべし。出ずること奇妙なり。

   (六)しゃっくりを落とす呪術

 その人の舌の上に「水」という字を一字書きて、のますべし。奇妙に落つるなり。

 また一法に、その人が「法性寺入道前関白太政大臣」といったら腹が立ったから、これから「法性寺入道前関白太政大臣様」といおうの――「法性寺入道前関白云云(うんぬん)」と呼気を切らずに三遍くり返しいうときは、落つるなり。

   (七)やけどを治する呪術

「さる沢の池のほとりに有りけるがあじかの入道をふてこそ入れ」この歌を三遍よみ、やけどの所を口にて吹くまね三度して、また、そこを足にてふむまね三度すべし。あともなく治するなり。

   (八)いぼの呪術

 雷の鳴るとき外に出て、みごぼうきをもて三遍はきおとすまねをすれば消ゆるという。また、精霊(しょうりょう)祭りに用いたるみそはぎをたくわえおきて、それにてなでたるもよしといえり。

   (九)血どめの呪術

 切りきずなどにて血出でて止まらざるときは、何草にても三品とり、わが手中にてもみ付くるなり。一草ごとに天にむかい手を合わせ、「朝日が下の三の葉草付くるととまる血がとまる、あびらうんけんそわか」と三度唱え、一草よりまたはじめのごとく唱えて一草とり、また唱えて一草とり、以上三草をもみて付くるときは、たちまち血とまること神のごとし。歌は一遍よみ、「あびら……」は三遍唱うるなり。

   (一〇)痔疾(じしつ)を治する呪術

 茗荷(みょうが)をとりて信心にいのり、一生茗荷を食すまじき(がん)をたつれば、奇妙にしるしあること神のごとし。

   (一一)田虫の呪術

 田虫の食いたる所へ「南」という字をかきて、上を墨にて塗る。奇妙にいゆるなり。また、半分にしたくば半分に「南」という字をかき、上を塗るなり。また、もとのごとく田虫おきたくば、「北」という字をかきて墨にて塗るべし。田虫、もとのごとく生ずるなり。

 また一方に、小刀の先にて田虫の上に、「犬」という字をいくつも書くべし。あるいは白(はし)をもって(えのき)へ取り移すまねを三度すれば、その木かぶれて、こちらの田虫消ゆという。

   (一二)脚気の呪術

 雪駄(せった)の鉄を人通り繁き所の石垣のすき間へ、人の見しらぬようにかたく狭みおけば、必ずその験ありという。

   (一三)小児、夜なきの呪術

 小児、夜なきするときは、当人の(へそ)の下へ「田」の字を書きおけばやむという。

   (一四)風を引かざる呪術

 毎月朔日(ついたち)の朝、梅干しを一つ茶に入れて食い、そのたねを口より紙の中に吐き出して、風のあたらぬように幾重も包みて、箱の内にしまいおくべし。果たして風を引かずという。また、手足の(つめ)をとるたびごとに、風を引きてくせのごとくなりたるには、男ならば、右の方の小指より薬指、中指、人差し指、大指と順にとり、その後、左の方も同じ次第に取るべし。女は、左の方の小指をはじめにして同様にすれば、風を引くうれいなし。これは、常に心掛くればできやすきことなれば、たとえ前条のくせなきも、この方を用いて爪をとるべきことなり。

   (一五)船に酔わざる呪術

 船に乗るときは、その河の水を一口のめば船に酔わぬなり。また、船に乗るときに、陸の土を少々紙に包み、(へそ)のうえにあてておけば、船に酔うことなし。

 また一方に、付け木を二、三枚、人にしらせず懐中すれば船に酔わぬなり。

 また一方に、船の中に「賦」の字を書き、「武」の点を人の額にうつべし。少しも酔わざること奇妙なり。また船は、かた足のりかけたるとき、「ながきよのとおのねむりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな」と三遍よみてのるべし。

   (一六)駕籠(かご)に酔わざる呪術

 かごに酔う人は、駕籠の戸を開けて乗るべし。南天の葉を駕籠のうちに立て、それを見て乗れば、かごに酔うことなし。

 以上は『秘事百撰(ひじひゃくせん)』『人家必用(じんかひつよう)』『旅行用心集(りょうこうようじんしゅう)』『大雑書三世相(おおざっしょさんぜそう)』等の書中に見えたるものを掲ぐ。これみな、マジナイそのものに効験あるにあらずして、マジナイそのものが人の心を安んじ、かつ、これを強くし、すなわち精神作用より生ずる結果なり。病気の癒ゆるも精神作用の大いに関係するものなれば、病者自らマジナイの効験を信じてこれを実行すれば、信仰の効験によりて、その病のたちまち癒ゆるものなり。余は、これを信仰療法とも心理療法ともいう。また、その療法の偶然、医家療法の道理に合するものあり、また、物理の規則にかなうものあり。例えば、田虫に墨を塗るの類は、多少墨そのものが直接に効験あるに相違なし。しかして、ここに信仰作用に帰し難きものあり。左にその例を挙げん。

   (一七)馬の船に乗らざるを心やすくのせる法

 馬の額に「賦」の字を書き、(つくり)の「武」の字の点を船の中へすつべし。乗ること奇妙なり。

   (一八)乗りたる馬つなぐ所なきとき、乗りはなし、つながずしてそこを動かぬ呪術

 つなぐ所なきときは、「西東北や南にませさして中にたちたる駒ぞとどまる」この歌を三遍よむべし。とどまること奇妙なり。

 右の法にてとどまりたる馬を歩まする法は、「西東北や南のませぬきて中に立ちたる駒ぞはなるる」この歌を三度よむべし。歩むこと奇妙なり。

   (一九)人食い犬あるいは()えかかる犬を退くる法

 その犬に向かい、「我は虎いかになくとも犬は犬獅子のはがみをおそれざらめや」とよみ、右の手の親指より、(いぬ)()()(うし)(とら)と指を折りてつよく握るなり。犬、恐れてにぐること奇妙なり。

 これらは自己の身体上に関することにあらざれば、精神作用に関せざるもののごときも、その実、やはり精神作用より起こる。例えば、犬の一例にて知らるるごとく、犬は人の気込みに応ずるものにて、気を強く持つときは、犬の方にてこれを恐れ、気を弱く持つときは、犬の方にてこれに乗ずるものなり。ゆえに、人にして呪術を信ずるときは、犬を恐るるものもこれによりて気強くなり、犬の方にてかえってこれを恐れて避けのがるるなり。馬の例も、これに準じて知るべし。およそ獣類は無心なるも、多少、人の容貌、気風を見る力ありて、これによりてその挙動を変ずるは、その例はなはだ多し。ゆえに、以上挙ぐるところのものは、みな精神作用によりて起こるものと知るべし。

 これと同一理にして、世間に用うる御札も、一つは人の心を安んじ精神を強くするによりて、多少効験もあるなり。例えば、年始に立春大吉の札を張り、方角悪きときはその方に四神之御札を張り、また、夜道に物恐れせぬために我是鬼の三字を書したるものを懐中にするか、またはこれを手に書きて固く握り、(ばく)と名づくる獣の図を枕の下に置けば、悪夢の払いとなるなどは、みな人の心を安むるの目的にほかならざるなり。

 しかるにまた、世間に左のごときマジナイあり。これ、精神に関係なきもののごとし。

   (二〇)舟待ちせざる呪術

「ゆらのとをわたる舟人かぢをたえゆくへもしらぬ恋の道かな」の歌を唱うれば、舟待ちすることなしという。

   (二一)旱魃(かんばつ)の際、雨を祈る法

 その法は、「皇皇上天照臨下土集地之霊神降甘雨庶物群生咸得其所」(皇々たる上天、下土を照臨して、地の霊を集め、神は甘雨を降らし、庶物は群生して、みなその所を得)の文を唱うるなり。

   (二二)霖雨(りんう)の節、晴れを祈る法

 その法は、「天生五穀以養人民今天雨不止用傷五穀如何如何霊而不幸殺牲以賽神霊而則不止鳴鼓攻之朱緑縄索而脅之」(天は五穀を生じて、もって人民を養う。いま天、雨ふりてやまず。もって五穀を(やぶ)る。いかんぞ、いかなる霊にして幸いせず。牲を殺して、もって賽神(さいしん)す。霊には、すなわち鼓を鳴らすをやめず、これを攻むるに朱緑の縄索(じょうさく)もてす。しかしてこれを脅かす)の文を唱うるなり。

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