7話 秘法彙集ならびにその説明(2)
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以上は、我人の精神作用に関係すべき理なきこと明らかなりといえども、また全く、偶然、暗合ばかりに帰すべからず。その雨を祈り晴れを祈るがごときは、大いに人の心を慰め、多少これによりて安心を営み、雨を待つに時日の長きをも、さほど意にせざることあるべし。これ、いわゆる精神作用なり。また、舟待ちするにも呪文を信じて、その心に安んずるところあれば、たとい現に舟待ちすることあるも、さほどに感ぜざるべし。ゆえにマジナイは、大抵みな精神作用の関係せざるはなしと知るべし。
このことにつき、余が昨年哲学会にて演説したる、縁起、マジナイと、心性作用中連想との関係を一言せざるを得ず。およそマジナイが人の心を安んずるを得るは、思想連合の道理にもとづくもの多しとす。その説明は、すでに『哲学会雑誌』にのせて世に公にせるも、左にその一部分を抜粋節略し、かつこれに説明を付記すべし。
縁起、マジナイの類は、今日少しく学問あり、知識あり、事理を解するものの、一笑に付し去りて顧みざるところなりといえども、現に御幣担ぎ連の持てはやす以上は、必ずしかるべき原因あることなるべし。今、その原因を知らんと欲せば、まず思想連合の道理を知らざるべからず。そもそも人の思想なるものは、互いに連合してその作用を呈するものにして、あるいは感覚上、その種類の似同せるより連合するものあり、あるいは経験上、その位置の付近せるより連合するものありて、縁起、マジナイの類も、またこれと同一に属するもののごとし。世間普通の思考によれば、かかるものはみな不可思議のもののごとく考え、なにか天神、鬼神と称すべきものありて、かかることをなすもののごとく思うべけれど、余はこれをもって心理作用の一部に属するなり。すなわち、思想連合に起因するものなり。思想連合の作用は、今述ぶるごとく、一名称もしくは一音調の名称、音調に相同じきか、あるいは相類するがために、その一種の心中に浮かび出でしときは、他もまたしたがって思い出さるるの類、すなわち耳の感覚に属するものあり、もしくは形色等の類似によりて、一思想より諸思想を喚起するものあることを、縁起、マジナイにつきて例証を示すこと、実に容易なり。
まず、世間にて数につき、七、九、四などの数をいたく嫌忌するがごとし。昔時、江戸火消しの数に、いろは四十七字を用い、これが組を分かつに一、二、三の数によりたりしが、この一、二、三の名称を与うるにも、特に四と七との名称はこれを省きたり。一説にいう。これ、四はその音、死に通ずるがためなるべしという。また、いろは四十七文字中、火消しに、ら、へ、ひの三字を除けるは、音調上きたすところの連想のあしきによるなるべし。また、物を人に贈らんとするにも、二、三もしくは五、六をよしとすれども、四を忌む。これまた、四と死と音調の通ずるより起こりしことならん。また、婦人の厄年と称して人の大いに嫌うは、十九と三十三と四十九なり。これ、十九は「重苦」に通じ、四十九は「始終苦」もしくは「死重苦」に通ずるによるなるべし。三十三はいまだその理由を知らず。もとより、婦人はこれらの年齢に至るときは、経験上より、病気など多きことも知りたるなるべし。しかれども、これを十九、四十九などと限るは、けだし、これらの連合によること疑いなし。また世俗、願成就日と不成就日ということあり。すなわち、一月の不成就日は三日にして、二月は二日、三月は一日なり。なにゆえにかく定めたるゆえんは明らかならず。しかして、これより九日目をもって、その五月の不成就日となすなり。例えば、一月は三日より九日目の十一日、さらに九日目の十九日をもって不成就日と定め、その日には願いごと一切かなわずというがごとし。これ音調上、苦の連想を避くるがためなるべし。また、世に病人の死生を知るの法あり。その方法は、その人の病を発したるときの年齢と、これにその発したる月と日とを合算し、これになお一定の乗除法ありて、結局、九の数の残れるときは必ず死すべしとするなり。これらはけだし、音調上の思想連合によるもの最も多かるべし。その他、金貸しの、茄子嫌いのものに金を貸すを嫌うは、金をなすの「なす」に通ずるによる。とうがらしを食うものに金を貸さずというは、とうがらしを食うものは大食するというの連想より起こりしならん。
正月の用い物には、最もこの思想連合よりきたるもの多しとす。まず第一は餅なり。あるいは昆布、煮豆、数の子のごときもしかり。餅は金持ち、子持ち等のもちに通じ、昆布は「子を産む婦」と音相類似し、豆はまめやかの「まめ」と同じく健康に通ずるによる。その他、正月の飾り物には苧と橙、小判、餅等なり。これ、親代々金持ち(緒や橙金餅)を祝するの意なりという。ある地方にありては、元日の雑煮中に必ず芋の頭を入れてこれを食うといえり。これ、人の頭となるを祝するものなり。東京などに、大晦日の蕎麦もしくは引っ越しの蕎麦ということあるは、音調上にはあらずして、その蕎麦の形の上よりきたれる連合にして、連続すなわちつづくことを表するなり。晦日の蕎麦は、その月より翌月まで蕎麦のようにつづくことを祝し、引っ越せしときに向こう三軒両隣へ蕎麦を配送するは、近辺に縁をつづけるようにとの意なり。また民間に、除夜に菊の茎あるいは茄子の茎を焼くの習慣存する所あり。菊の茎を焼くは、よきことをきくを願い、茄子の茎を焼くは、よきことをなすを願うなりという。これ、音調の連想なり。
婚礼に関しては、かかること最も多しと思わる。すなわち、結納の目録に、昆布を「子生婦」と書し、鯣を「寿留女」と書し、柳樽を「家内喜多留」と書するの類は、みな文字によりて祝する縁起なり。また結納の文面には、可被下を「下被可」に書す。これ、いったん家を出でて他に嫁せしものの家に帰りくるを不吉とし、文面に返り点を付くるを避くるがためなり。その他、婚礼の式には来客に茶を出さざるは、人を茶にするということの連合よりきたり、客の帰り去るを御帰りといわずして「御開き」というは、連想上帰るの意を避け、客の帰るを見送りせざるも同意なるべし。婚嫁に色の変わりやすき衣を着ざるは、結婚の変わらぬように祈るの意なり。贈り物の水引きは結び切りにして返さざるもまた、帰るを避くるなり。
かかる儀式のほかにも、かくのごとき類はなはだ多し。世間にて、人の頭に腫物のできたるを療治するマジナイ法あり。すなわち、その腫物の上に馬の字を三つ重ね、のごとき文字を書くなり。案ずるに、俗におできはこれを「くさ」というをもって、馬は草を食うの意より出できたりし連想ならん。また、足にできたる豆の上に鳥の字を書くこと、のごとくするもまた、鳥の豆を食うというより出でしものなるべし。その他、来客の長座するものを早く帰さんがために箒をさかさまに立つるは、掃き出すというよりきたりしならん。また、喉に骨の立ちしを取る法は、その類多し。なかにつきて最もやすきは、「ウノノド」ということを三遍唱うべしとなり。これ、鵜は物を丸のみにするものなれば、そのように骨の喉よりただちに下るように祈るの意ならん。また、土瓶あるいは鉄瓶より湯水をつがんとするとき、過ちて口の方ならずして尻の方よりつがんとすることあり。かかることをなせし日には、必ず坊さんの来客ありという。これ、土瓶の尻の方は、口のつき出るなくして丸きよりきたりし連想ならん。人の北を枕として寝ぬるを嫌うは、死人を常に北に向けて枕せしむると、北方は陰にして死をつかさどるというとよりきたりしなり。また、さきに田虫のマジナイに、「南」という字をかきて治するときに、「北」という字をかくときはもとのとおりにもどるというは、北も南の反対なる連想より起こる。また、浄土宗に狐落としの法あり。狐に取りつかれしものを落とすなり。すなわち、その宗所依の経に『阿弥陀経』あり。この経の末に六方の段というところあり。六方とは東西南北上下なり。この六方の段を読むに、六方のうち一方を落として読むときは、狐は落ち去るという。これ、「落とす」の同音なるより連合しきたりしならん。
また、文学、文章の上より起こる連想を挙ぐれば、さきのいわゆる祈雨祈晴の法、ならびに左に掲ぐる諸法を見て知るべし。すなわち、普通世間にて方角について吉凶を吟味するは人の知るところなるが、引っ越しの方角、家造りの方角等、いずれの方角にしても、知らず識らずあしき方角に当たることあり。かかるときはいかにすべきというに、これを避くる法は、「迷故三界常、悟故十方空、本来無東西、奈所有南北。」(迷うはもとより三界の常、悟るはもとより十方空。本来東西なし、いかなる所、南北ある)と書せる札をはるなり。また、悪夢よけの法中に、「赫赫陽陽日出東方、断絶悪夢辟除不祥。」(赫々陽々、日は東方より出ず。悪夢を断絶して、不祥を辟除す)と書きし札を、枕の近辺に置くことあり。また、瘧と称する病を治する方法は、梨を厚く切りて、これに向かいて呪文を唱うるなり。その文に曰く、「南方有池、池中有水、水中有魚、三頭九尾、不食人間五穀、唯食瘧鬼。」(南方に池あり、地中に水あり、水中に魚あり、三頭九尾、人間五穀を食わず、ただ瘧鬼を食らう)と。これみな、文章上の意味についてその実を連想し、必ずその結果あるべしと自ら信じ、自ら安んずるに過ぎざるべし。その他、さきに示したる立春大吉の文字を書したる札を、年始に当たりて門柱などにはりつくるは、その文字が表より見るも、また裏より見るも同一の文字なるがゆえに、裏表の別なく均々幸いあるを祝するものなりという。を四方の柱にはれば、火難、盗難、その他一切の厄難を免るべしといえるは、これけだし、四方より入りくる悪魔を防ぐの意なり。
古来、人に陰陽五行を配当して、その性質、気合を予定する法あり。例えば、男女相性のことにつき、男火性、女また火性なるときは大凶とす。なんとなれば、火に火を重ぬれば炎となる、炎は胸をこがすわけにて、夫婦相争ってやまざればなりという。また、男火性、女水性なるも大凶なり。なんとなれば、これまた水火相いれざればなり。また、天気を予知する法に、丙の日大風あれば必ず火災あり、丁の日大風あればその年旱すということあるも、火に属す日なるより連想したるものならん。また、人相見の書に、人面中、鼻を山とし、口を海と立つるゆえに、口と鼻との間のくぼみある筋は、これを山より海に通ずる溝と定む。その溝深きを吉相とす。なんとなれば、深ければ水の滞りなく流るるがごとく、人の一生の運もふさがることなかるべしとの意なりという。また人相家の言に、手を組む癖ある人は思いごとたえず、首を傾くる癖ある人はその心常に憂いありといい、また、人のもとへ談合に行く途中にて丸く全きものを見れば、頼みごと必ず成就し、欠けたるものを見れば、そのこと成就せずというの類、みな一方よりこれをみれば、思想連合上想起するものといわざるべからず。また、子の産せざるときに生まさするマジナイあり。その法、熊の手にて腹より腰をなで下ろすなり。これけだし、熊の力なれば必ず子の下ることを得べしとの連想によるものならん。また、土蔵の屋根の紋印に「水」の字をえがけるは、水よく火を消すの連想よりきたり、貸家の札を斜めにはるは、立たぬように祈るの意なり。
その他、夢につきて、悪夢を見れば善事あり、善夢を見れば悪事ありということ、たれびとも知るところなるが、これ思うに、昼と夜とは反対のものなるより、昼のことは夜に反し、夜のことは昼に反すと想せしより出でしにはあらざるか。夢に歯の落ちしを見れば、必ず一人の死者ありというは、歯はよわいにして齢に通ずるがゆえ、齢落つれば死なるによるならんと思わる。その他、かかる類の例はなおなお数多かり。今、いちいち挙ぐるにたえざれば、これを略す。けだし、世間の風俗、儀式のごときは、多くはかくのごとき意味より起因せり。葬式、婚礼、祝日、祭日に用うる衣服、飲食、引っ越し、家作に時日を選び方角を定むる等、多少みな連想に関係せざるはなし。これを要するに、これら縁起、マジナイのごときものは、畢竟、人々の連合上、その不快を避けんがために出でし安心の一法にほかならざるなり。
また、世間に用うる符丁のごときも、この縁起、マジナイと一様のものなり。米屋の符丁は、一、二、三などの代わりに、「アキナイタカラブネ」の語を用う。すなわち、アは一、キは二、ないしブは八、ネは九なり。古着商の符丁は「フクハキタリメデタヤ」といい、茶屋の下女の符丁は「馬車デクル人マツテ居」なり。これみな、連想上、縁起を祝する意ならん。
これにつぎて、人名のごときもまた、これらの一種に過ぎざるを知るべし。世に、その名によき字を用うるは通常一般なれども、あしき字を選ぶものは、おそらくはなかるべし。例えば、福、吉、平、正、喜、嘉、忠、長、善などはよく用いらるる文字にして、なお、かく直接に意味を有せざるも、虎、亀などのごとく、間接に勇または寿などの意味をあらわす文字を使用するなり。また、留吉など呼ぶ「留」の字を名に用うるは、多くは、あまり子の多き人として、これにて子を生むことをとどめんとの意にて、子どめのマジナイなれば、この名は末子に多しとかいう。その他、相撲の類にても、剣山は阿波より出でたるがゆえに、阿波第一の山名を取り、大鳴門は淡路より出でたるゆえ、鳴門に取り、西の海は西国に出でたるゆえ、かの名あるがごとく、みな高山、名川、大海などの名によりて、その強く盛んなるを表する一種の縁起なり。いにしえより、わが国には名字拝領、実名拝領ということ多く行われたるが、特に芸人社会には、現今にても行わるることなり。例えば、囲碁社会にては本因坊は代々「秀」の字を襲い、画人狩野家にては「信」の字を命ずるがごとし。これ、その名人の名を襲って、一部分なりとも、この名人に似んことを願うの縁起なり。秀吉の丹羽、柴田を慕って羽柴を称し、大塩の本田忠勝を慕って平八郎と名のりしも、同一の理由による。今日、伊藤、佐藤など唱うるも、畢竟、藤氏の盛んなるに当たり、これより分かれたるものにあらずんば、これを慕って族籍の不明なるものなどはみな、かく称したるものなり。そのほか、村名、町名、橋名等、一つもかかる縁起によらざるはなし。有楽町と称する町あれども、有苦町など呼ぶ町なし。永代橋あれども短命橋なし。学校にも、明倫学校、積善学校あれども、不善学校、不徳学校などはなきなり。されば、名称に関することもまた、多くこの縁起の類に過ぎず。縁起は思想連合にほかならざることを知るべし。
これを要するに、余が以上述べきたりし種々の例証は、世俗一般に縁起、マジナイ等と称して、神仏、不可思議力の所作と考うるところのものにして、これらは種々の原因により生じきたりたるものなれば、いまだそのよって出でし本源の不明なるもあり、または他の原因によるもあるべしといえども、その中の多くは思想連合の作用より生ずるものにして、音調、名称、その他種々類似の点より、その一つの心中に浮かびきたれば、他もまた伴随して現じきたるゆえ、死苦等のごとき、人のいたく嫌忌するところのものの伴い浮かぶときはこれを避け、よってもって一時を安心せしめんとするより出でしに過ぎずして、その他に深き理由あるにあらざるがごとし。
以上はマジナイと連想との関係を述べたるが、なおここに、マジナイと治療法との関係を一言せざることを得ず。すなわち、さきにいわゆる心理療法これなり。よって左にその療法の一項を掲げて、これより論述すべし。