絵のない絵本 01 絵のない絵本

9話 第八夜

784字 約2分 2018年4月2日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 重い雲が空一面にたれこめて、月はまったく姿を現わしませんでした。わたしは二重のさびしい思いにかられながら、わたしの小部屋の中に立って、いつも月が(かがや)き出てくるあたりの空をながめていました。わたしの思いは広くかけめぐりました。そして、毎晩あんなに美しい話を聞かせてくれたり、すばらしい絵を見せてくれたりした、偉大(いだい)な友だちのことに思い(およ)びました。

 そうです、いままでにこの月の体験しなかったことがあるでしょうか! ノアの大洪水(だいこうずい)のときにも、その水の上を帆走(ほばし)ったのです。そして、ちょうどいまわたしにほほえみかけているのと同じように、箱船(はこぶね)の上にほほえみかけて、やがて花()き出ようとする新しい世界の(なぐさ)めをもたらしたのです。イスラエルの人民が泣きぬれてバビロンの河辺(かわべ)に立ったとき、あの月は竪琴(たてごと)のかかっているヤナギの木のあいだから、悲しげにそれをのぞいたこともあるのです。ロメオが露台(ろだい)の上によじのぼって、まことの愛の接吻(せっぷん)が天使の思いのように天へとのぼって行ったとき、まるい月は黒い糸杉(いとすぎ)のあいだに半ばかくれて、()みきった空に(うか)んでいたこともあるのです。また、セント・ヘレナの島に幽閉(ゆうへい)された英雄(えいゆう)が、荒寥(こうりょう)たる岩頭に立って、胸に雄志を(いだ)きながら大海原(おおうなばら)をながめやっている姿を見たこともあるのです。

 そうです、月にとって話せないようなことが何かあるでしょうか! この世界の生活は、月にとっては一つのおとぎばなしなのです。なつかしい友よ、今夜わたしはきみの姿を見ません。きみの訪問の記念に、どんな絵をもかくことができません。――こうしてわたしが、夢想(むそう)にふけりながら雲の中を見上げますと、そこが明るくなりました。それは一すじの月の光でした。けれども、その光はすぐまた消えてしまいました。黒い雲がすべって行ったのです。しかし、それこそ挨拶(あいさつ)でした。月がわたしに送ってくれた、やさしい晩の挨拶だったのです。

目次に戻る

目次