美術学校時代の岡倉先生

4話 慰労会や遠足

2,704字 約5分 2019年10月10日 公開

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 学校では、なにか騒ぎがあっていろいろ忙しいようなあと、慰労会があるんです。たとえば学校の記念日なんかのあと、慰労会をかならずやった。その慰労会は、先生の趣向でなかなかこっていました。慰労会の尤なるものは向島の八洲園の大きな庭で園遊会をやった。舞台ができていて、みんなそこで踊ったり騒いだりしたんです。

 その趣向が凝っているんです。橋本雅邦の「狂女」、文庫にいまでもあるでしょう。こどもを抱いて石段をあがるところ、岡部覚弥の役で、そいつが狂女になって着物を着て、絵のすがたのとおり、はじめはネンネコヤネンネコヤとやっていて、終りに気狂いになるところをやる。私の「元禄美人」が踊りだして、三味線をつれてきて蔭で弾かせる。それが元禄の頭を結って春雨を踊る。新納の「達磨」それがアホダラ経をやりました。毛布をかぶって達磨さんになってやる。そういうふうな趣向をやるんです。それから学校の腰掛、四角になっている椅子を逆さまにして、行灯にして、四本の脚の回りへ紙を貼って絵を描くんです。その絵がふるっていました。神楽の絵なんです。それを大きな幕で隠してお神楽隠そう(岡倉覚三)。橋本先生は、足もとに烏がいて、先生の似顔が描いてある。福地復一先生は、顔が曲がって股が一の字になってあぐらをかいているんです。(ふぐちまたいち)。川崎千虎なんか、虎が朱で描いてある。牙が竹の葉で(歯は竹朱虎)。みんな生徒が描いたもんですが、下村なんかよく描いたはずです。

 それから岡倉先生らしいのは、友だちをいろいろ呼んで、本田種竹だの其他の文墨関係の人がたくさん来ましたし、曲水の宴をやった。食べた弁当のから箱におちょこをのせて、なにか書いて庭の小川に流す。川のふちに寄せて、歌を書くひとも、俳句を書くひともありました。しゃれたことをやりました。

 遠足なんかにいっても、なにか趣向をしなければおもしろくないくせがあるんです。猫実の遠足なんかおもしろかった。猫実は行徳の先、隅田川をいけば行徳のならびです。四、五里ありましょう。隅田川の川ふちをずっと伝わって、鵜縄を曳いてボラの小さい時分のイナをとったんです。両方の舟で縄をひいて水の上をひっぱっていくと、鵜がきたと思って魚が逃げるんです。浅いところに網をはっておくと、魚がにげていっていきどころがないんで、飛上って上にはってある網のなかへ入っちゃう。とれるとれる。其夜は土地のお寺に泊り獲物の魚を焼いてたべる。

 行くときがよかったですよ。ちょうど朝四時ですから、周囲にまだ朝もやがあって、あんまり趣向がいいのでびっくりしました。舟が五十隻で、二十五隻づつ分けたんです。片方は赤い旗をたてて、片方は白い旗。長い源平の旗みたいなので、両方掛声をかけて舟歌を歌って分乗して朝もやのなかをいくと、そのうちに旭がさしてひらめいている旗しかみえない。源平合戦のような感じがしました。先生そんな趣向をやるんです。

 先生が頭をぶたれた話があります。卒業生などが集って校友会という会があって、いろいろの催しをやりました。校友会の名義で学校でお茶だのお花だのの稽古ができたんです。それに撃剣が入っていました。先生ふつうの一刀流じゃ満足しないんです。信州の飯田の撃剣の指南番をしていたひとをつれてきてやったんです。その先生の撃剣がおもしろい。みんなで間抜流といったんですが、受け太刀の人は短い扇をさしたり、小さな木剣を持ったりしているんです。打つ方は長い木剣で、それで頭を打ちにいく。そうすると、ひょいと扇を出す。それでひどいやつは後ろに倒れますよ。いわゆる気合みたいなものでしょう。

 それを先生稽古するんです。その指南番は校長に説明して、棒の撃剣じゃない、心の撃剣、心胆を練る撃剣だと。しかし生徒はあきちゃっておもしろくもなんともない。中心を打ちにくると、短いのを目と目の間へひょっとつき出す。向うは倒れちゃう。倒れなくても、木剣をふりあげたままどうにもならない。胸を突けば死んじゃうでしょうね。何流とかいっていましたよ。息子が学校の小使なんです。そのお父さんが来て、腰がまがって、もう七十くらいのおじいさんでしたよ。それで岡倉先生うまくなったというんで、打ってみろというと、体操の先生が、わざわざやったわけでもないけれども、正面を木剣でぶって、岡倉先生泣いちゃった。そんなことがありましたよ。

 先生根岸に住んでいまして、根岸会というのがありました。饗庭篁村だの、高橋健三だの、みんなおもしろいひとが入っていまして、幹事が廻り持ちで趣向しまして、そのときお酒をやたらに飲んだらしいんです。友人ですすめたのでしょう、それで禁酒をするという、そのときの手紙を私持っていたんですが、戦災で焼いたのか、どうしたかわからなくなってしまいました。その便がしゃれていましたよ。すみの方に師宣の美人画が、二人ばかり座っているのが印刷してありました。

 先生が旅行するときはしじゅう寺内銀治郎がついていた。みんな銀、銀といっているうちに、どんどんうまくなって、たいへんなものになったけれども、それが滑稽なやつで、先生のとりまきで京都へいったんです。それで京都のどこかの風呂へ入ったんでしょう。熱いものだから東京流に羽目を叩いたんです。京都は羽目をはたかんです。はたいちゃいかん、とおこっている。先生も銀も裸で、銀が江戸っ子のどうとかいって風呂のふたを振りあげたもんだから、びっくりして逃げちゃった。銀は後ろを向いて先生此勢はどうですと再三繰返して大笑いだったという。そんな話がありました。しかし銀はそういう江戸前のおもしろい男でしたが、一流の経師屋の親方になって、橋本さんにお世話になったといって、橋本さんの等身大の木像を作って美術院に寄贈した。米原雲海が作ったと思います。よくできておりました。

先生が谷中の初音町にいったのは、学校をやめて美術院のなかに家をもったからです。塩田力蔵君に聞いた話だったか、書斎の前の撞木へふくろうをとまらせて、それを雀がいじめにくるのをにやにや笑ってみていたが、それはじぶんの境遇にひきくらべていたんじゃないか、といっていました。

 あるとき先生が塩田氏を夜訪問したことがあるそうです。岡倉先生じゃなければしないな、といっていましたけれども、それは月の晩だったそうです。塩田さんがいなかったものだから、落ちた柿の葉へ、――先生はいつも矢立をもっていましたが――それで「訪君不遇」と書いて、門のところにはさんで帰ったそうです。それで塩田氏は次の日に「反明月為至憾」と書いておいてきた、といっていました。

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