7話 地球要塞(7)
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後で思い出しても、そのとき私は、さもしい気を起したものだと、冷汗が流れるのだが、日記のうえの、X大使の記事を見ると、私はついむらむらと不快な気分になった。そこで私は、ペンを取り上げて、日記の頁に向った。
「おい、黒馬博士。待ちたまえ」
「うむ」
X大使の声だ。大使は、まだ私の身辺にいたのである。
「折角わしの書いておいた記事を、君は消すつもりではあるまいね」
私は無言で、ペンを捨てた。私は赤面した。
「黒馬博士。わしは、二度、君の希望に従い、協力した。もう一つ、わしは君に力を貸してもいいと思っている。で、どうだね、これから、米艦隊の旗艦に、司令長官ピース提督を訪問してみてはどうかね」
X大使は、とんでもないことをいいだした。
「もとより、それは希望するところであるが、これから、どうして敵の旗艦に近づけばいいか。私が甲板を踏む前に狙撃でもされれば、おしまいだ」
と、私がいえば、X大使の声は、
「そんな心配は無用だ。安全に行ける方法がある。君は、ピース提督に会い、そして安全にここへ戻って来られるのだ。決して間違いのないことを、わしは保証する」
「しかし、私には信じられない。少くとも敵は、私を捕虜にしないではいないだろう」
「安心したまえ。ねえ、黒馬博士。君は、わしの力を信じないのかね。あの七、八本の鎖を切断したときのことを考えて見給え。それから、一瞬のうちに、三角暗礁へ艇をつけてあげたことを考えてみるがいい。君は、私の力を信じないのか」
「いや、信じないわけではない。しかし、私には、君が何故そのような不思議な力を持っているか、それが解らないのだ。また、なぜ、そんな不思議なことが出来るのか、理解できないのだ。これまで君のやっていることは、物理学の法則を蹂躙している」
「あははは、物理学の法則を蹂躙しているは、よかったねえ。しかし、これは、人間――いや君たちの勉強が、まだ不充分なためだよ」
「なんだと……」
「わしの力の不思議さを探求したかったら、わしを信じてこれから旗艦ユーダにいってみるがいいではないか」
「うむ」私は、しばらく黙考した。
とにかく私は今、昔日の黒馬博士とは似もつかないほど、自信を失っている。X大使の、この超人間な偉力に圧倒されているうえに、クロクロ島は沈没し去り、魚雷型潜水艦はめずらしく故障となり、それから鬼塚元帥との連絡が、ぱったり杜絶えてしまったのである。なにもかも、滅茶滅茶である。しかも、クロクロ島を沈没させ、私を捕虜にしようとした憎むべき無礼なる米連艦隊は、なお付近を游弋しており、もし自分の推測にまちがいないならば北上して日本本土を衝こうとしているのだ。過去において、これほど私が自信を失った経験はないのである。そこで私はあえてX大使のすすめに従おうと決意したのであった。
(X大使の魔術にのるなんて、危いではないか!)
と、後世、或いはいう人があろう。しかし私は、X大使のこの超人間的な力を、単に魔術だとは、解していないのであった。それは、或る非常にすぐれた科学だと思っている。科学というよりも、技術といった方がいいかもしれないが……。
X大使は、恐らく、世界最高の学者ではないかと思う。真にすぐれた学者が、自分の究めた科学力をひっさげて、自分の意志のままに、世の中を闊歩しはじめたら、これは手がつけられないだろう。
X大使は、正にそれだ。
汎米連邦の国力よりも、欧弗同盟の兵力よりも、X大使の意志こそ、この際、最も恐るべきものである――と、私は信じたことであった。
行こう、X大使とともに。そして、しばらくX大使の魔術ではない魔術を静観しよう。
「では、X大使。私を、米連艦隊の旗艦へつれていって呉れたまえ」
「よろしい。向うへいったら、君が訊きたいと思うことを訊いてよろしい。しかし、わしの代りに、一つ二つ訊いてもらいたいことが出来るかもしれない。そのときは、ぬかりなく、やってくれたまえ。むろん相手には、悟られぬようにな」
X大使は、妙な注文をつけた。私は承知した。
「さあ、それでは……」
と、X大使がいったかと思うと、私は、急に目まいがした……。と、またX大使の声だ。
「おい、しっかりしろ。旗艦ユーダ号の司令長官室だ。今、ピース提督が、ひとりで、この部屋へ戻ってくる。しっかりやれ!」
司令長官室――透明人間
さして広くはないけれど、どこかの宮殿の模型のような、飾りたてた部屋である。
正面にはどっしりした事務机があって、そのうえには書類がひろげ放しになっている。その前には会議卓子があって、周囲には、やわらかそうな皮製の椅子が、十ほど並んでいる。壁には、複雑なパネル型の通信機が、取りつけてあるすばらしい司令長官室だ。
私は、長官ピース提督の椅子に腰をおろして、彼がこの部屋に戻ってくるのを待つことにした。そしてそのついでに、長官の机上に散らばっている書類を、片っ端から拾い読みをしていった。
その書類の多くは電報だった。
それを読むと、米連艦隊は、いま日本を最後の目標として、南方から肉迫せんとしているところだし、他方欧弗同盟は、アジア大陸の日本を北及西から攻撃せんとしており、大東亜共栄圏はもちろんのこと、日本は南北から挟撃されようとしていることがはっきり分った。
(ひどいことをしやがる。有色人種の犠牲において、白人たちがいいことをしようというのだろう)
私は、そう思わないではいられなかった。これは私だけのひがみでないと思う。
そんなことを考えているとき、入口ががちゃりと鳴って扉があいた。銃剣をもった衛兵が、扉をひらいたのだ。
(おお、司令長官ピース提督だな)
私は提督をおどかすつもりで、あえて提督の椅子から立とうともせず、その廻転椅子をぎいぎいいわせていた。
扉をしめた提督は、ふと気がついたらしく、後をふりかえった。無髯の提督の顔は、不審そうに歪んでいた。そして彼は、呟いた。
「はあて、なにが、ぎいぎい鳴っているのだろうか」
そういって、提督の眼は、たしかに私の方にそそがれていた。
「はあて、あそこに、廻転椅子が、ひとりでぐるぐる廻っているが、どうしたことじゃろうか。たしかに、あの椅子が、ぎいぎいと音を立てているが……」
さすがに提督であった。おどろいてはいるが、大きなこえも出さなかった。
だが、そのとき、私は、
(おや、へんだな。提督は、へんなことをいったぞ)
と、不審にぶつかった。――提督は、廻転椅子が廻っているといったが、廻転椅子は見えて、私は見えないのであろうか、そんなことがあろうと思われない。
(ひょっとすると、提督は、わざと私が見えないような風を装っているのではなかろうか。つまり、提督は、私に弱味を見せないために……)
私の方は、いざとなったらX大使が助けに出てくれると思うから、気がつよい。――そこで私は、椅子から立ち上って、提督の方へ近づいた。
すると提督は、安心したような表情になって、
「おお、椅子は、ぴたりと停っている。余は、なにか思いちがいをしたらしい」
提督には、本当に私の姿が見えないようである。そうなると私は、反ってどきどきしてきた。私は、ことさら足音たかく、提督のまわりをどんどんと歩いてみた。
俄然、この効目はあった。
「ややややッ、足音だ。誰かの足音だ。息づかいも聞える。はてな、これはへんだ」
提督は、非常に愕いた様子であった。そして入口の扉の方へいこうとするから、私はそれをさせてはならぬと思い、
「ピース提督、おさわぎあると、貴官の生命を頂戴いたしますぞ」
「ええッ! 誰だ、そういう声の主は……」
「温和しく、貴官の椅子に腰をおろされたい。ちと伺いたい話があるのだ」
「おお、声だけは聞える。息づかいも、聞える。しかるに姿は見えない。君は、何者だ。姿を現わせ!」
ピース提督は愕きに負けまいとして、あぶら汗をかいて頑張っているのが、私にはよく分った。
私はいつの間にか、透明人間になっていたわけである。X大使はよくこれと同じことをやって、私を愕かせたものである。今それを私がやっているわけだ。ふしぎだ。ふしぎはふしぎであるが、なんという愉快なことであろう。こっちは絶対優勢、向うは白旗をかかげるほかはない。
そのとき提督は、自分の席についた。彼の顔はなんとなく、生気をとり戻したようだ。
「さあ、余は腰をかけた。君もその椅子に、腰をおろしたまえ、四次元の人!」
四次元跳躍術――大東亜共栄圏から
四次元の人!
ピース提督は私に対して、そうよばわった。
(ああ、四次元の人!)
私はそのことばを、青天の霹靂のごとく感じた。
(そうか、四次元の人だったか。うっかり私は、そのことを忘れていたのだ。そうだったか。これは魔術ではなかったのだ。私は今、四次元の世界にとびこんでいたわけか)
四次元の世界にとびこむとは、知っている人は知っている。知らない人には、これを説明して聞かせることがちょっと、むつかしい。しかし、なるべくわかりやすく、かんたんにいえばこうである。……
われわれ人間は、三次元の世界にすんでいる。三次元とは、すべての物が、三つの元からできていることで、すべて物には横があり縦があり、高さがある。
ところが、もし今、横と縦とだけがあって、高さのない世界があると考えよう。横と縦との二次元の世界である。われわれより一次だけ少い世界である。この二次元の世界は、横と縦とだけで、高さがないのだから恰も紙の表面だけの世界である。つまり平面の世界である。――これに反して、われわれの三次元世界は、立体の世界だ。
二次元の世界に、生物がすんでいたとしよう。その者は、われわれ三次元の世界を考える力がない。つまり高さということを全く知らないのだから。紙の表面のことは分るが、その表面から、わずか一ミリメートル上のところでさえ分らないのだ。だから、紙の上に、林檎がぶらさがっていても分らない。ただ、林檎を紙のうえへ置いたときは、紙の面に接した林檎のお尻だけはわかる。
だから、「これが林檎だよ」といえば、二次元の生物は、「林檎は輪の形をしている」と思う。紙と林檎との接したところは、大体輪になっているからである。そこで、人間が、林檎をもち上げると、二次元の世界から、直ちに林檎は消え失せる。ただ林檎の匂いだけは残る。
そういう訳で、こんどは反対に、四次元の世界を考えることが出来る。四次元の世界は、残念ながら我々は三次元の世界の生物だから、どんな世界だか知る力が欠けている。その世界には、横と縦と高さの外にもう一つ、何か形をこしらえている軸があるのだ。そういう四次元の世界から、われわれ三次元の世界の人間を見れば、それは、われわれ人間が、白紙の上に棲んでいると仮定した二次元の生物を見るのと同じことである。だから、もし私が、いま急に三次元の世界からつまみあげられて、四次元の世界へ移されたとしたら、どうであろう。すると、三次元の人間からは、私の姿は見えないであろう。しかし林檎の匂いが届くように、私の声だけは届くかもしれない。
ピース提督は、今私のことを、「四次元の人よ」と呼んだが、提督は私を、四次元の生物だと思ったからであろう。
私は、そうではない。
だが、謎のX大使こそ、まさしく四次元の生物であると思われる。
とにかく、私が気がつかなかったのにずばりと看破したピース提督の科学の眼力のほどを、畏敬しないではいられない。――といって、ここで私が引下がる手はあるまい。私は強いて自分の心を激励しながら、ピース提督に対した。
「提督、貴艦隊はなんの目的をもって、北上せられつつあるか」
私は、質問の第一矢を放った。司令官は、眼をぎょっとうごかして、
「それは、日本民族を、大東亜共栄圏から、叩きだすことにあるのだ」
「なに、日本民族を叩き出すといわれるか。日本民族を、元の日本内地へ押しこめることではないのか」
「ちがう。日本民族を叩きだすのだ」
「では、叩きだして、どこへ送るのか」
「適宜に使役するつもりだ。家僕として、日本人はなかなかよくつとめる」
「無礼なことをいうな」
と、私は思わず提督の机上の書類函をとって、机の上に叩きつけた。電報紙は、ばらばらと宙に飛んだ。
「四次元の人、乱暴はよせ。君は、紳士と話しているのだ」
「何が紳士か」
と私は、また呶鳴りつけたのだった。
「貴官は、日本民族を、家僕として使役するつもりだといっているのだ。日本民族が、アメリカ人の家僕などになってたまるか」
「おや、君はへんなことに腹を立てるではないか。――いや、日本人が使役されることを好まなければ、余は彼等を海の中になげこむばかりだ」
「云ったな」
私は憤然として、提督の頬桁をなぐりとばした。私は、もはやこれ以上、日本民族への侮辱にたえられなかったのである。
苦悶する米提督――欧弗同盟軍に砲門は開けない
「おお、では君は、日本人だったのか。なぜ初めから、そのとおり姿を見せてくれなかったのか」
提督は、非常な驚愕を示して、椅子から立ち上った。そして、呻くように、
「おお、日本人、たしかに日本人だ。……」
と云って、手で自分の眼を蔽う。
私は悟った。私の姿が、提督の前に現われたのだ。それは全て、X大使の余計なおせっかいであった。このへんで、私の姿を、ピース提督に見せてやろうと考えて、いきなり実行したのであろう。私には何の相談もなかったのだ。私は結局、傀儡である。X大使の手によって、勝手にうごかされている人形でしかない。私は口惜しかった。だが、どうすることもできない。なに分にも、相手は四次元の生物X大使だから……。
私は観念して、ピース提督の前に立ち、彼がどうするかを凝視した。
ところが、提督は思いの外、周章狼狽しているのだった。彼は、後ろの壁に、ぴったりと体をつけ、恐怖の眼なざしをもって、私を見据えた。
「おお黒馬博士。余は、博士に謝罪をするものである」
提督は、私の顔を見て、黒馬博士だと悟ったのだ――そんなに愕かれる程の私でもないが……。
「おお黒馬博士。余は博士が、四次元の世界に跳躍せられる力があるとは、想像していなかった。先程からの非礼をことごとく詫びる。そして……」
提督は、ひとりで喋った。
「そして、余は、黒馬博士と識るを得たことを悦ぶ者である。そこで博士よ。余は突然ながら、折入って博士に相談したいことがある。その内容を、はっきりというならば、博士よ、余にその四次元世界への跳躍術をコーチしてくださるまいか。そのために、余はアメリカに有する七千万ドルの財産を、すべて博士に贈ることを、ここに誓う者である。どうです。さあ、イエスと返事をしてください」
提督は、勘ちがいをしている。X大使にねだるべきことを、私に訴えているのだ。
もちろん私は、提督の願いを一蹴した。すると提督は、私の真意を勘ちがいして、更に歎願するのであった。
そのとき、私の耳許に、囁いた声があった。
「黒馬博士。ピース提督に、こう云ってみたまえ。“では提督は今直ちに立って、欧弗同盟国軍に対して、砲門を開くだけの決心があるか”と……」
それは、X大使のこえだった。
私は、ちょっと無念だったけれど、前からの約束でもあったから、大使のことばを、提督につたえた。
すると提督は、失心せんばかりに愕いて、
「いや、そんなことは出来ない。それは、絶対に不可能だ」
X大使のこえが、また私の耳にささやいた。私は大使の代弁者となって、大使のささやくとおりを云う。
“君が、欧弗同盟軍に対して砲門を開くことは、絶対不可能だというなら、こっちも四次元跳躍術をコーチすることは真平だ”
「ま、待ってください。余に、しばらく考える時間をあたえよ」
“ぐずぐずしていられないぞ。副長が、こっちへ来る様子だ”
「あっ、副長が……。ここからは見えない筈の艦内まで、博士は見る力を持っているのか。うむ、愕いた。……が、今しばらく……」
気の毒にピース提督は、すっかり元気をなくしてしまった。彼はどうしていいかわからないという風に、身悶えしていたが、やがて、やっと決心がついたという顔になって、
「では、こうしましょう。欧弗同盟軍へ砲を向けることは出来ないが、欧弗同盟軍に対し、戦闘を中止するように勧告しましょう。それで、日本も大東亜共栄圏も安泰です。このへんを妥協点として、我慢していただきたい」
すると、X大使は、急に狼狽したようなこえになって、
“それは賛成できない。平和になってしまうのでは、仕様がない。あくまで、欧弗同盟軍と闘ってもらわないと困る。闘わないというのなら、こっちにも覚悟がある”
「それは無理というものだ。余には、欧弗同盟軍を砲撃せよと命令する権限がない。ワイベルト大統領にいっていただきたい」
“おいおい、呑気なことをいっては困る。貴官の話を聞いていると、まるで、ワシントンの海軍省の応接室で、貴官の話を承っているようじゃないか。現在の事態は、そんなものではないぞ。おいピース提督、貴官及び貴艦隊は、いま私の掌中ににぎられていることを知らないのか”
「それは分っている。しかし余には、そんなことはできない」
と、ピース提督は、あくまで欧弗同盟軍に砲火を向けることを好まないと、云いはった。
宙吊り戦艦――有りえない奇蹟
私は、X大使の代弁者をつとめながら、妙な感にうたれていた。
X大使は、平和はいけないという。米連艦隊は欧弗同盟軍に対して戦闘を開始せよというのである。なぜ平和はいけないのであろうか。
これは、私の口をもっていっているのであるから、ピース提督には、この言葉が、あたかも日本は、米連と欧弗同盟軍とを衝突させ、自分は両虎相闘って疲れるのを待っているようにとれるのであった。その結果は、明白だ。日本は闘わずして、世界を支配することになるのだ。そんなことを、ピース提督が承知する筈がない。
(X大使は、日本を後援するつもりらしい)
私は、一先ず、そういう結論に落着いた。なぜかはしらないが、たびたび私に力を貸したり、今また日本のために、米連と欧弗同盟との間に戦争を誘致しようと、つとめているのであった。
X大使は、しばらく黙っていたが、やがて重々しく口を開いた。
“それを、貴官の最後的回答と認めて、よろしいかね”
私は、そのとおり代弁した。
「博士のお気に入らんらしいが、余には、このような権限はない。重ねて、そうお答えするほかない」
“よろしい。そうはっきり云えば、こっちでも、やりようがある。では、貴官は、そのカーテンを揚げて、海を見られるがいいであろう。提督のために、私は、ちょっとした魔術をごらんに入れる。早く見られよ。さもないと、肝腎のいい場面を逸するであろう”
これを聞いた提督は、ぎくんとしたようであった。彼は強いて平心を装い、カーテンを揚げて窓から外を見た。
“見えるだろう。この旗艦ユーダ号につづく主力艦隊の諸艦が”
X大使のこえは、意地悪い響をもっている。
“さあ、見たまえ。後続艦オレンジ号が、これからどんなことになるか”
私は大使の代弁をしながらも、大使が戦艦オレンジ号に対して何をするのかと、好奇心にかられた。
ピース提督は、今や不安の色をかくす余裕もなく、窓外を注視している。
“さあ今だ。戦艦オレンジ号を見ているがいい”
X大使は、あざけるようにいった。私もまた、その口調を真似て、ピース提督にぶっつけた。
その刹那であった。
有り得べからざる奇蹟――提督にとっては、全く有り得べからざる奇蹟が海上において起ったのである。
見よ、戦艦オレンジ号は、とつぜん艦首を水面から持ち上げた。赤いペンキで塗った膨れあがったバルジが、海面から現われた。そして、なおも艦首は高く引き上げられていく。甲板では、大騒ぎが始まった。
もう四十五度ほど傾いた甲板を、水兵達は滑りおちまいとして、懸命に舷索や煙突にぶら下っている。恐怖と狼狽のあまり、海中へとびこむ水兵もいる。そのうちに、艦尾できらりと光ったものがある。それは推進機であった。推進機は、空中で空まわりをしている。戦艦オレンジ号は遂に宙に吊り上げられてしまったのだ。それがX大使の怪力によることは、私によく分っていた。
提督は、驚きのあまり、両眼を大きく見開き、そして大きな息をはいて、窓にしがみついていた。
「わかった。もう、わかった。停められい、黒馬博士!」
しかしX大使は、なおも意地悪くいった。
“これからが、見物なんだ。まだ愕くのは早い。よく見ているがいい”
戦艦オレンジ号は、見えない糸によって宙吊りになってるようであったが、このとき、とつぜん戦艦オレンジ号の艦体が、真中のところから、切断されてしまった。つまり前部煙突のところから後が、切断されて、無くなったのであった。尤も、その切断された半分が、海上へ墜落していくところは見えなかったが……。
「あっ、もう、よしてくれ。もう、わかった。お、黒馬博士。これ以上、艦隊のうえに、怪力をふるうのは許してくれ」
“今さら狼狽するのは見苦しいぞ。なぜ初めから、わが申し入れに応じないのか”
そういっているうちに、戦艦オレンジ号の艦隊の半分も見えなくなった。戦艦一隻が、一、二分の間に見えなくなってしまったのである。……
室内では、警報ベルがしきりに鳴っている。そして入口の扉は、破れんばかりに、うち叩かれている。怪事は、果然、米連主力艦隊を大恐慌の中に抛げこんでしまった。
恫喝代行――人間でなければ彼は何者ぞ?