爆薬の花籠

1話 爆薬の花籠(1)

9,106字 約18分 2006年7月23日 公開

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   祖国(そこく)(ちか)

 房枝(ふさえ)は、三等船室の丸窓(まるまど)に、顔をおしあてて、左へ左へと走りさる大波のうねりを、ぼんやりと、ながめていた。

 波の背に、さっきまでは、入日の残光(ざんこう)がきらきらとうつくしくかがやいていたが、今はもう空も雲も海も、鼠色(ねずみいろ)の一色にぬりつぶされてしまった。

「ああ」

 房枝は、ため息をした。つめたい丸窓のガラスが、房枝の息でぼーっと白くくもった。

 なぜか、房枝は、しずかな夕暮の空を、ひとりぼっちで(なが)めるのがたまらなく好きだ。そしていつも心ぼそく吐息(といき)をついてしまうのである。

 彼女は、両親の顔も知らない曲馬団(きょくばだん)の一少女だった。

 彼女が、今(かか)えられているミマツ曲馬団は主に、外国をうってまわるのが、本筋(ほんすじ)だった。一年も二年も、ときによると三年も、外国の町々を、うってまわる。そうかと思うと、急に内地へまいもどって「新帰朝(しんきちょう)」を看板に、同胞のお客さまの前に立つこともあった。こんどは少しわけがあってわずか半年ぶりの、あわただしい帰朝だった。そうでなければ、ミマツ曲馬団は、まだまだメキシコの町々を、(かね)と笛とで、にぎやかにうちまわっていたことだろう。

 房枝が、曲馬団の一行とともに、のりこんでいたこの雷洋丸(らいようまる)は、もうあと一日とすこしで、なつかしい祖国の港、横浜に入る予定だった。

 だが、いま房枝はそんなことはどうでもよかったのだ。丸窓の外に、暮れていくものしずかな、そして大きな夕景(ゆうけい)の中に、じっと、いつまでもいつまでも、とけこんでいれば、よかったのであった。房枝にとって、それは、母のふところにだかれているような気がしてならなかった。

「あたしのお父さま、お母さま。日本へかえったら、こんどこそ、めぐりあえるでしょうね」

 房枝は、唇をかすかにうごかし、小さなこえで、そういってみた。

(だめ、だめ。君の両親は、もうこの世の中に、生きてはいないのだ)

 そういって、顔見知りの警官が、気の毒そうに、頭を左右にふるのが、まぼろしの中に見えた。

「まあ、やっぱり、房枝のおねがいごとは、だめなんでしょうか」

(そうとも、そうとも。もう、あきらめたまえ)

「ああ」

 彼女のまぶたに、あついものが、どっとわいてきた。そして、(ほほ)のうえを、つつーッと走りおちた。目を、ぱしぱしとまたたくと、丸窓の外に、黒い太平洋は、あいかわらず、どっどっと左へ流れていた。房枝のわびしい魂はどうすることも出来ないなやみを包んで、いつまでも、波間にゆられつづける。

「うわーっ、腹がへった。食堂のボーイは、なにをしているんだろうな」

「三等船客だと思って、いつも、一番あとにまわすのだ。けしからん」

 房枝の気持は、とつぜん、彼女のうしろに爆発した仲間の荒くれ男のことばに、うちやぶられた。

 彼等は、かいこだなのように、まわりの壁に、上中下の三段につった寝台のうえで、ねそべっていた。ある者は、古い雑誌を、もう何べん目か、よみかえしていたし、またある者は、ひとりでトランプを切って、運命をうらなっていたりした。この船室は、十八人室で、ミマツ曲馬団の一行で、しめていた。

「おい、房公(ふさこう)!」

 丸窓にしがみついて、後向きになっていた房枝が、あらあらしいこえで呼ばれた。

 房枝は、そのこえをきくと、からだが、ぴりぴりとふるえた。「トラ十」という通り名でよばれて皆から(おそ)れられているらんぼう者の曲芸師丁野十助(ていのじゅうすけ)だった。

「こら、房公。きこえないふりをしているな。こっちにはよくわかっているぞ。おい、食堂へいって、おれの(めし)をさいそくしてこい。あと五分間しか待てないぞと、きびしくいってくるんだ」

 房枝も、やはり曲芸の方だった。綱わたりや、ブランコで、売りだしていたトラ十の丁野十助も、同じようなものをやって、お客のごきげんを、うかがっていたが、ちかごろ、房枝の方にお客の拍手が多くなったのをみて、いやに房枝に、ごつごつあたるようになった。

 房枝は、だまって、丸窓をはなれた。そして、指さきで涙をちょっとおさえて、ばたばたと食堂の方へかけだしていった。

「ちえっ、あいつめ、十五になって、いやになまいきな女になりやがった」

 と、トラ十は、房枝のあとを見送り、きたないことばを()いた。

 だれかが寝台のうえから、ハーモニカをふきはじめた、調子はずれのばかにしたような、間のぬけたふき方であった。

 トラ十は、目をぎろりと光らせて、その方へ、ぐっと太いくびをねじった。

「ハーモニカを、やめろ! 胃袋に、ひびが入らあ」

   曾呂利青年(そろりせいねん)

 房枝が、三等食堂へ、いきつくかいきつかないうちに、がらんがらんと、食事のしらせが、こっちの船室まで、きこえた。

 トランプをしていた者は、トランプを毛布(もうふ)のうえにたたきつけ、古雑誌を読んでいたものは折目をつけてページをとじ、いずれも寝台からいそいでとび下り、食堂の方へ走って行った。団員の娘たちは、あとで、いたずらをされないように、編物(あみもの)の毛糸を、そっと毛布の下にかくしていくことを忘れなかった。

 一番あとから、この部屋を出ていった顔の青い若者があった。彼は、すこぶる長身であったが、松葉杖(まつばづえ)をついていた。右足が、またのあたりから足首まで、板片をあて、繃帯(ほうたい)で、ぐるぐると、太くまいてあった。

曾呂利本馬(そろりほんま)さん。手を貸してあげましょうか」

 通路で、房枝が向こうから()けてきて、その足のわるい青年に、こえをかけた。曾呂利本馬という妙な名が、その青年の芸名(げいめい)だった。

「なあに、大丈夫」

 と、曾呂利青年は、うなずき、

「ねえ、房ちゃん、いつもいうとおり、僕なんかにかまわないがいい」

 そういって、彼は、あぶなっかしい足どりで、食堂の入口をまたいだのだった。

 この気の毒な曾呂利青年を、房枝がなにかと世話をしてやると、そのたびに、トラ十が、目をむいて、口ぎたなく(しか)りつけた。

(おい房公。お前、手を出すな。その曾呂利本馬てえ野郎は、正式の団員じゃないぞ。メキシコのどぶ川の中で、あっぷあっぷしていた奴を、おせっかいの団長が、えりくびとって引上げてやったのさ。それからこっち、いつの間にやら、ミマツ曲馬団のすみっこで、こそこそうごめいている奴さ。とんちきな芸名までもらいやがって、歯のない牝馬(めうま)のうえにのっかったと思うと、もうあれ、あのとおり、自分の足を、ひんまげてしまった。ざまあみろというんだ。正式の団員でもない野郎の世話なんかすると、このおれさまが、だまっちゃいないぞ!)

 と、今日も、朝っぱらから、トラ十は、船室で、ほえたてていた。

 たしかに正式の団員ではなかったが、この気の毒な曾呂利に、房枝は、同情をよせていた。そばで、トラ十の雑言(ぞうげん)をきいている房枝の方が、腹が立って、しらずしらず顔が青くなるほどだった。

 曾呂利が、一つ男らしく立って、口先だけでも、トラ十をがーんとやりかえすといいと思うのだったが、曾呂利本馬は、いつも無口で、小学一年生のように、えんりょぶかく、よわよわしい性格のように見え一度もやりかえしたことはなかった。

 房枝は、ふんがいのあまり、こっそりと、本馬にいうときがあった。

(ねえ、曾呂利さん。あたしには、あんたがどうしても、弱虫に見えないの。男なら、なぜ一つ、思いきり、きびしく、いってやらないの。あんた、わざと、強いのをかくしているんじゃない?)

 と、ませた口で、年上の青年をなじると、曾呂利青年は首をふって、

(いやいや、僕は、だめですよ。悪口をいわれても、仕方のない人間なんです。ほうっておいてください)と、目を()せていう。

(そう。ほんとうに、力なしの、弱虫なの、じゃあ、あたしが、これから加勢してあげるわ)

(いやいや、めっそうもない。房ちゃんは、僕なんかに、かまわないがいい)

 そういって、曾呂利青年は、足がわるいのに、一番高い上段の寝台へのぼり、もう息をひきとりそうな老犬のように、小さくなって、寝てしまうのだった。

 夕暮の空の下では、房枝は、一時、両親を恋うるセンチメンタルな可憐(かれん)な少女にかわるが、ふだんは、すさまじい世渡りにきたえられて、十五歳の少女とは見えないほど、きびきびした少女だった。

 房枝は、松葉杖をついた曾呂利のあとから、三等食堂の中へ入っていった。

 ひろい食堂は、電灯も明るく、食慾のさかんな三等船客が、もう一ぱい、つめかけていた。皿やナイフの音が、かしましくするだけで、だれも、むだ口をきく者がなく、一生けんめいに皿の中のものを、胃袋へつめこんでいた。

 トラ十も、さかんにぱくついているので、曾呂利青年や房枝の入ってきたのも知らぬげであった。

「おい、ソースだ、ソースだ。ソースのびんがないぞ」

 トラ十が、たくましいこえで、どなった。

「ソースのびんは、目の前にあるじゃないか」

 ようやく、食事はだいぶん進んだらしく口をきく客もでてきた。

「目の前? うそをつけ。目の前には、ソースのびんなんかないぞ」

 トラ十は、どなりかえしたが、そのとき、おやという表情で、目をみはった。ソースのびんは見えないが、彼の目の前には、うつくしい大きな花籠(はなかご)があった。何というか、色とりどりの花を、一ぱいもりあげてある。どう見ても、三等食堂には、もったいないくらいの、りっぱな花籠だった。

「ほら、ソースのびんは、その花籠のかげに、あるじゃないか」

「なるほど」

 と、トラ十は、うめくようにいって、ソースのびんをとったが、彼の目は、なぜか、このりっぱな花籠のうえに、ピンづけになっていた。

   警報(けいほう)

 この雷洋丸の無電室は、船長以下の幹部がつめかけている船橋(せんきょう)よりも、一段上の高いところにあった。

 それは、ちょうど午後七時五十分であったが、この無電室の当直(とうちょく)中の並河技士(なみかわぎし)は、おどろくべき内容をもった無電が、アンテナに引っかかったのを知って、船橋に通ずる警鈴(けいれい)を押した。

 すると、間もなく、(ドア)があいて、一等運転士が、自身で電文をうけとりにとびこんできた。

「警報がはいったって、その電文はどれだ」

 無電技士は、だまって、机の上の受信紙(じゅしんし)一枚とって、一等運転士に手渡した。

 一等運転士は、紙上に走り書きされた電文を、口の中でよみくだいたが、とたんに、さっと顔色がかわった。

「おう、防空無電局からの警報だ。なんだって。国籍不明の爆撃機一機が一直線に北進中。その針路は、午後八時において、雷洋丸の針路と合う。雷洋丸は直ちに警戒せよ」

「ほう、これはたいへんだ」

 一等運転士は、青くなって無電室をとび出した。もう怪飛行機は、こりごりである。メキシコを出港してからこっち、どういうわけか、この雷洋丸は三回も、怪飛行機のため夜間追跡をうけている。こんどで四度目だ。先月他の汽船が、やはり追いかけられ、一発の強力爆弾で沈められたことがある。それ以来、怪飛行機の追跡には、おそれをなしているのだ。防空無電局は「国籍不明の爆撃機」といって来ている。気味のわるいこと、おびただしい。なにしろこっちは非武装の汽船だから、どうしようもない。

船長(せんちょう)、また怪飛行機です!」

 一等運転士は船橋へかけあがると、大声でさけんだ。

「えっ!」

 と、船橋にいあわせた幹部船員は、おどろいて、一等運転士の方を、ふりむいた。

「すぐ灯火管制(とうかかんせい)にうつらねばなりませんが、こうだしぬけの警報では、ちょっと時間がかかりますが、いかが?」

「ただちに、電源の主幹(しゅかん)を切って、消灯(しょうとう)だ!」

 船長は電文を見終って、はっきり命令を出した。

「えっ、主幹を切りますか」

「早くやれ!」船長のはらは、すわっていた。

 これから消灯または遮光(しゃこう)の命令を出して、おおぜいの手で、船内の方々をくらくさせていたのでは、おそくなる。ことに、海を航行している汽船は、空中から、すこぶる見えやすい。船長の考えとしては、船の安全のために一秒でも早く灯火管制をやりとげるためには、こうするのがいいと思ったのである。

 命令は、ただちに、発電室に伝えられた。

「電灯用主幹、全部開放!」

 あっという一瞬間に、船内の電灯は、全部消えてしまった。どこもかしこも、たちまち、まっくらやみだ。

 ただ機関室などの大事なところは、夜光塗料が、かすかに青白く光って、機械の運転に、やっとさしつかえのないようには、なっていた。

 食事半ばの、三等食堂などは、文字どおり、暗黒の中にしずんでしまった.

「あっ、どうした。電灯をつけろ」

「停電で、飯がたべられるか」

「電灯料の支払いが、たまっているのだろう。ざまをみやがれ」

 やひなまぜっかえしに、一座は、たちまちどっと笑いくずれた。皿をたたく者がある。ソースのびんをひっくりかえした者がある。だれやらマッチをすったものがあるが、とたんに、ふき消されてしまった。

「ただ今、怪しい飛行機が近づきました。明りを消してください。マッチをすってはいけません」

 室内の高声器(こうせいき)から、とつぜん警戒警報が伝えられた。

「それみろ! もう、マッチをすっちゃ、いけねえぞ」だれかがさけんだ。

 そのうちに、丸窓が、がたんと閉まる音がきこえた。

「もういいか」

「一番、二番もよろしい」

「五番、六番もよろしい」船員たちは、おちついて、暗闇(くらやみ)の中に、こえをなげあっている。

「ようし。それで全部、窓は閉まった。予備灯点火(よびとうてんか)!」

「おうい」(ボタン)が、おされたのであろう。五つばかりの、小さい電球に明りがついた。

 人々は、はっと、よろこびのこえをあげて、一せいに、明りの方に、ふりむいた。

 そのとき、房枝も、明りをみた。そして、その次に、あのうつくしい大きい花籠を、卓子(テーブル)のうえに、さがしたのだった。

 どうしたわけか、花籠は、卓子のうえから消えていた。房枝は、おやと、思った。

 そのまま、だれも花籠のことをいいださなかったなら、房枝も、やがてきっと、その大きな花籠のことを、わすれてしまったことであろう。ところが、ひきつづいて、とんでもないさわぎが、まき起ったのだ。

   大音響(だいおんきょう)

「おう、いやだ、いやだ。これは血じゃないかな」

 とつぜん、ひとりの男が席からとびあがった。それは、同じ曲馬一団の黒川という調馬師(ちょうばし)だった。

 彼が、指をさししめす卓子(テーブル)のうえには、どうも人の血らしいものが、たくさん地図のような形に、白布(しろぬの)をそめていた。そして、なおもその附近には、手の形らしい血痕(けっこん)が、いくつも、べたべたと白布(はくふ)のうえについていた。そこは、ちょうど、あのうつくしい花籠がおいてあった前あたりであった。

「おお、これは血にちがいない。ぷーんと、あのにおいがするぜ」

「ほんとだ。だれの血だろう」どやどやと席をたって集ってきた三等船客や、船のボーイたちは、とつぜんふってわいたような怪事件の席をかこんで、くちぐちにさわぎたてた。

「どうも、へんだ」例の黒川という最初の発見者が、きょろきょろと、あたりを見廻した。

「おい、トラ十。トラ十は、どこへいった」彼は、なおもきょろきょろと、あたりを見廻したのだった。

「おい、トラ十が、どうしたんだ」仲間の一人が、黒川の肩をたたいた。

「なぜって、お前、トラ十が、急にいなくなったんだ。室内の電灯が、消えるまでは、ちゃんと、おれの横に腰をかけていたんだがなあ。どうも、へんだ」

「トラ十のことなんか、どうでも、いいじゃないか」黒川は、つよく、かぶりをふって、

「いや、どうでもよくないことはない。なぜってお前、あの血は、トラ十が坐っていた席に流れているんだぜ」

「えっ、あの席には、トラ十が坐っていたのか。そいつはたいへんだ! 早く、それをいえばよかったんだ」

 さわぎは、ますます大きくなっていった。そのさわぎをすぐ知らせたものがあったと見えて、事務長が、かけつけた。

 事務長も、黒川の話をきいて、おどろいた。そして、すぐさま、トラ十こと丁野十助のありかを、手わけして、探させたのであった。

 電灯が消えてから、まだ、ものの二十分ぐらいしかたたないのに、トラ十は、どこへいったか行方がわからなかった。

「まさかと思うんですけれどねえ。事務長さん」と、黒川は、いった。

「まさか、どうしたというんですか」

 事務長は、太った体を、黒川の方にむけた。

「つまり、まさか、トラ十は、だれかに殺されたんじゃないでしょうか。そして、殺した犯人は、暗闇を幸い、死体をひっかついで、海の中へ放りこむなんか、したんじゃありませんかね」

「ほう、探偵小説(たんていしょうせつ)には、よく、そんな筋のものがありますがねえ」

 と、事務長は、まじめくさって、そんなことをいった後で、

「まさか、ねえ」と、反対の意をあらわして、黒川の顔を見たのだった。

「でも」と、黒川は、なおも疑いの色を眉のあいだにうかべ、「それから、もう一つへんなことがあるんですぜ、さっき、トラ十の前にあった美しいりっぱな花籠が、どこへいったか、一しょに、卓子(テーブル)のうえから見えなくなった!」

 ほうと、おどろきのこえがまわりの人々の口から出た。黒川の指さした消えた花籠のことを、彼らも思いだしたからであろう。

 房枝も、もちろん、人垣の間から、一生けんめいに、黒川たちの話に、きき耳を立てていた。

「なんだ、ばかばかしい」と事務長は、笑いだした。

「じゃあ、その丁野十助さんが、花籠を抱えて、どっかへ出かけたんじゃありませんかね。たとえば、水をさすためだとか、あるいは、どこかへ持っていって、(かざ)るために」

「じゃあ、なぜ、そこに、人の血が流れて、のこっているのですか。わしには、わけがわからない」

 黒川は、ますます疑いにとじこめられつつ、恐怖の色をうかべた。

 房枝も、黒川と同じように、トラ十の身のうえに、一種の不安を感じないではいられなかった。

 彼女は、自分のすぐ横に、足のわるい曾呂利青年が、これもねっしんに、きき耳をたてているのを発見して、これに話しかけた。

「曾呂利さん。お聞きになって。トラ十が、どうかしたんじゃないんでしょうか」

「さあ」と、曾呂利は、興味ありげに、首をかしげたが、「だれか、怪しい者が、まじっているようですね。さっきも、マッチをつけたとき、すぐ、マッチを消せと、叱りつけた者がありましたよ。しかも、警戒警報だから、明りを消しなさいと、この部屋の高声器が叫ぶよりも、まだ前のことなんですからねえ。そのへんのことが、たいへん謎にみちていますねえ」

 曾呂利青年は、ふだんの無口にもにず、しっかりした口調(くちょう)でいった。

「まあ、そんなことが、あったかしら。あたし、気がつかなかったわ」

 と、房枝は、曾呂利の顔を、あらためて見直しながらいった。

 そのときであった。とつぜん、甲板(かんぱん)の方で、どーんという大きな音がして、部屋の壁が、ぴりぴりと震動した。

 いったい、それはなんの音だったろうか。

 ねらわれているこの汽船雷洋丸の中に、ついに起った怪事件の真相は?

 らんぼう者のトラ十は、どうしたのであろうか。あやしい花籠は、どこにあるか?

   (やみ)甲板(かんぱん)

 とつぜん、甲板の方で、どーんという大きな音がしたものだから、船客たちは、きっと、顔色をかえた。ミマツ曲馬団の一行も、びっくり仰天(ぎょうてん)

「あっ、あの物音はなんだ」

「今の音は、爆弾でも落ちたのかな。この船は、しずめられちまう! おい、どうしよう」

「どうしようたって、仕方がないじゃないか。そのときは、この汽船につかまってりゃ、それこそ海の底まで、ひっぱりこまれる」

「おい、じょうだんじゃないぞ。われわれは、どうすればいいんだ」

「どうにも仕方がないさ。いずれそのうち、鼻の穴と口とに海水がぱしゃぱしゃあたるようになるだろう。そのときはなるべく早く、泳ぎ出すことだねえ」

「泳げといっても、お前がいうように、そうかんたんにいくものか。ここから何百キロ先の横浜まで、泳いでわたるのはたいへんだ」

 などと、さわぎたてる。

 あやしい血痕のことについて、この三等食堂へかけつけ、取りしらべをしていた事務長は、しらべをやめて、ろうかの方へ走り去った。

「おい、お前たち、そんなくだらんことをしゃべるひまがあったら、甲板へ上って、この汽船がどうなったのか、ようすを見てこい!」

 (すみ)っこの席で、ゆうゆうとまだ飯をくっているカナリヤ使の老芸人鳥山が、どなった。

「ああ、そうだ。じゃあ、大冒険だが、ちょっといって、見てこよう」

「待て、おれもついていってやる」

 若い団員が二人、猿のようにすばやく、昇降階段(しょうこうかいだん)をよじのぼっていった。

 甲板の方できこえた爆音のような大きな音は、一発きりで、あとはきこえなかった。もっとつづけさまに、爆撃されるだろうと、ふるえあがった船客たちは、このとき、ようやく人心地(ひとごこち)に戻った。

「おや、爆撃は一発でおしまいで、もう怪飛行機はにげていったか」

「ちがうよ。爆弾なんか落しやしない。あの飛行機は、ただこの船の上を飛んで、われわれをおどかしていっただけだ」

 房枝も、そのころ、ようやくわれにかえったのだった。ふと気がついて、あたりを見廻すと例の謎の青年曾呂利本馬が、テーブルに頬杖(ほほづえ)ついて、こわいような顔で、なにか考えこんでいる様子であった。

 房枝は、こえをかけた。

「曾呂利さん。なにを考えこんでいるの」

 曾呂利は、はっとしたようすで、顔をあげた。かれの目は、きらりとするどく光っていた。だが、その目が房枝の目にぶつかったとたんに、ちょっとあわてる色が見えた。

(この人、ゆだんのならない人だわ)

 と、房枝は、曾呂利青年に、きついうたがいをかけないわけにはいかなかった。

「ああ、房枝さん。僕たちはとんでもない怪事件の中に、まきこまれてしまいましたよ」

 曾呂利本馬は、小声(こごえ)で、ささやくようにいった。

「とんでもない怪事件ですって、やっぱり、トラ十は殺され、美しい花籠は盗まれてしまったのですか。あの人は、ふだんから、にくまれているから、あたりまえよ」

 すると、曾呂利が、いそいで房枝のことばをとがめた。

「あたりまえだなんて、そんなことを、かるがるしく、いってはいけません。へんなうたがいが房枝さんにかかってくるかもしれません」

「でもあたし、トラ十を殺した犯人じゃないから、いいわ」

「なるほど」と、曾呂利はうなずいたが、房枝の方へ、さらにすりよって、

「房枝さん、ここに今、もう一つ、あやしいことが起っているのですが、あなたは、それに気がつきませんか」

 曾呂利は、もう一つ、あやしい事件が、すでに起っているというのだ。

「え? 飛行機のことですの」

「うむ、それもありますが、それはまた別にして、僕のいうあやしいことというのは、われわれミマツ曲馬団の中のことです」

「まあ。あたしたちの中に、まだ、あやしい事件が起っているとおっしゃるの。それは、なんですの。曾呂利さん、早くおしえてよ」

   しのばれる名探偵(めいたんてい)

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