2話 爆薬の花籠(2)
読み方を変える
曾呂利青年は、妙なことをいいだしたものである。房枝は、この話をきいているうちに、いらいらしてきた。
「ねえ、早くおしえてよ。曾呂利さん」
曾呂利青年は、さらにこえを低くして、
「あなたは、まだほんとうに気がついていないのですね。その怪しい事件というのは、ほかでもありません。団長の松ヶ谷さんが、やっぱりさっきから、行方不明になっていることです」
「えっ、松ヶ谷団長が?」と、房枝は、意外なことをきいて、びっくりした。
「曾呂利さん。あなたはどうして、そんなことを、お知りになったの」
誰が、そんなことを知っているだろうか。それを知っているのは、この謎の青年、曾呂利本馬だけではないか。房枝はさっきから、この曾呂利青年に、たしかにあやしい節があるとにらんでいたので、ことばするどく問いかけた。
しかし曾呂利は、あんがいおちついた態度で、
「いやなに、僕は、べつに団長の船室へいって、それをたしかめたわけではないのですが、ただそういう気がするのです」
「うそ、うそ。曾呂利さんは、ずるいわ。ほんとうのことを、おっしゃらないのね」
「今いっているのは、ほんとうのことですよ。だって、誰にだって、そういうふうに考えられるではありませんか」と、事もなげに、いってのけ、
「ねえ、いいですか。トラ十のことで、これだけ、皆がさわいでいるのに、かんじんの松ヶ谷団長がちっともあらわれないではありませんか。あの耳の早い、そして人一倍に口やかましい団長が、なぜ、ここへとんでこないのでしょう」
「あら、そうね」
「ね、わかるでしょう。ミマツ曲馬団の中に起ったトラ十事件のさわぎをよそにして、ここへかけつけないところを思うと、これはどうも、団長も、行方不明になっているのじゃないかと思うのです」
「まあ、曾呂利さん。あなたはこれまで、青い顔をした、いくじのない方だと思っていたけれど、今日は、とても、すばらしいのね。まるで名探偵そっくりだわ」
「房枝さんは口が上手だね。そんなに僕をひやかすのは、よしにしてください」
「いや、ほんとうのことをいっているのよ。あたしいつだか、新聞だったか、本だったかで読んだのですけれど、帆村荘六という名探偵があるでしょう。その名探偵帆村荘六のことを、今思い出したのよ。そう名探偵は、背が高くて、青い顔をしていて、唇をへの字にまげるのがくせなんですって」と、いいながらも、房枝は、目の前にいる曾呂利本馬が、ひどく帆村荘六に似ていることに気がつくと、なんだか、おそろしくなった。
「房枝さん。そんなばかばかしい話はもうよしにしましょう」
そういっているときだった。ろうかのむこうに、がたがたと、高い足音がきこえ、こっちへ、急いでくる様子だった。食堂へとびこんできたのをみると、それは、さっき甲板へ様子を見にいった連中だった。
「おい皆、船は大丈夫だから、安心しろ」
「えっ、大丈夫か。沈没するような心配はないか」
「うん、沈没なんかしやせんよ。さっきの爆弾は、左舷の横、五、六メートルの海中で炸裂したんだそうだ、それだけはなれていりゃ、大丈夫だ」
「へえ、そうかね。こっちの船体に異状がないと聞いて、大安心だ」
「なにしろ、灯火管制中だから、明りをつけて検査するわけにはいかないが、船腹の鉄板が、爆発のときのひどい水圧で、すこしへこんだらしい。しかし、大したことはないそうだ」
報告は、なかなかくわしい。
「爆発は、もう、それっきりなんだろう」
「そうだ」
「じゃあ、あとはもう心配なしだな」
と、一同は、ほっとためいきをついた。
「それから、もう一つ、へんな話をきいたぞ。甲板に立っていた船員の一人が、あの爆発のときに、たおれたんだそうだ。ほかの者が、それを見つけて抱きおこした。爆発の破片で、からだのどこかを、やられたんだろうと思ってしらべてみた。すると、別にどこもやられていない。そのとき、へんだなあと思うことが一つあった。お前たちは、それが分かるか、そのへんだなあという一件が」
「そんなこと、分かるものか。早くしゃべれ」
「それは、奴さんのたおれた場所に、きれいな花が、ばらばらと落ちていたんだ。だから、奴さん、爆弾にやられたんじゃなくて、花束でもって、なぐられたんじゃないかって、誰かそういっていたよ」
「へーえ、花束でなぐられて目をまわしたというわけか。まさか、はははは」
房枝も、さっきから、この話を、じっときいていたが、ここでおかしくなって、つりこまれたように笑った。
そのとき、気がつくと、曾呂利本馬の坐っていた席が、いつの間にやら、空になっていた。
ニーナ嬢
この雷洋丸の一等船客に、一きわ目立って、姿のうつくしい、外国人の令嬢がいた。その名をニーナ・ルイといって、国籍は、メキシコと届けられていた。
ニーナ嬢は、いつもすっきりした軽い服に、豹の皮のガウンを着て、食堂へ入っていったり、またAデッキの籐椅子にもたれて、しきりに口をうごかしているのが、とくに船客の目をひいた。
ニーナ嬢は、一人旅ではなかった。伯父さんだという師父ターネフと、二人づれの船旅であった。
師父ターネフは、もちろん宣教師で、いつも裾をひきずるような長い黒服を着、首にまいたカラーは、普通の人とはあべこべに、うしろで合わせていた。いかにも行いすました宗教家らしく、ただ血色のいい丸顔や、分別くさくはげかかった後頭部などを見ると、たいへん元気にみえ、なんだか、その首を連隊長か旅団長ぐらいの軍服のうえにすげかえても、決しておかしくはないだろうと思われた。
そのニーナ嬢が、階段のところで、曾呂利本馬と、鉢合せをした。
ニーナ嬢は、うすぐらい階段を、急いで上からおりて来る。曾呂利は、松葉杖をついて、階段を四、五段のぼっていた。ニーナ嬢が、勢よくというより、少しあわて気味に足早におりて来たため、あっという間に、二人は下にころげおちた。
からだが不自由な曾呂利は、後頭部を床にうちつけて、しばらくは、気がとおくなっていた。
ニーナ嬢の方は、すぐさま起き上った。そして、いまいましいという表情で、たおれている曾呂利を、靴の先で蹴とばしておいて、そのまま行きすぎようとした。が、そのとき、彼女は、何おもったのか、また戻ってきて、さっきとは別人のようなふるまいで、曾呂利を抱きおこした。
「うーん」
曾呂利が、彼女の腕の中で、うなりごえをあげた。
ニーナ嬢は、ハンケチをだして、曾呂利の額をふいてやった。そして、
「ごめんなさい。ごめんなさい。わたくし、たいへん、あやまりました」
「……?」
曾呂利は、ちょっとうす目をあけたが、またすぐ目をつぶった。
「ごめんなさい。わたくし、あやまりました。おわびのため、このお金、さしあげます」
ニーナ嬢は、どこに持っていたのか、紙幣を一枚、曾呂利の手に握らせ、
「どうか、ごめんください。そして、わたくしのため、このことは、誰にもいわない、よろしいですか。きっと、きっと、誰にもいわない。わたくしと、ここで衝突したこといわない。あなたいいません! いわないこと、約束してくれますか。それを守ってくれるなら、あとでまた、お礼のお金をさしあげます」
ニーナ嬢は、ねっしんに、そして早口で、曾呂利をかきくどいた。
曾呂利は、かすかにうなずいた。
「よろしいですね。わたくし、あなたを信用します。お礼のお金、あとできっとさしあげます。あっ!」
ニーナ嬢は、とつぜん、おどろきのこえをあげた。階段の上に、誰かのわめきごえがきこえたからである。
「約束、きっと、守るのです!」
ニーナ嬢は、最後にもう一度、命令するかのように、曾呂利の耳にのこすと、曾呂利をそこに寝かしたまま、とぶように立ち去ったのであった。
階段の上から、あらあらしい足音とともに、二、三人の船員がおりてきた。
「やっぱり、こっちじゃないかな」
「どうも、こう暗くては、探せやしない」
船員たちは、おりてくると、そこに曾呂利がたおれているのを発見して、おどろいてかけより、
「おう、あなた。ここへ誰か来なかったでしょうか。この階段を、あわてて上からおりてきたものはありませんか」
曾呂利をだき起そうともせずに、いきなり質問だ。
曾呂利は、首をふって、
「誰も、見えませんでしたね。僕は、松葉杖を階段からつきはずして、落ちたんです」
と、わりあい、しっかりしたこえでいった。曾呂利は、ニーナとの約束を守ったのである。というよりも、うそをついたのである。彼は、ニーナ嬢から握らされた紙幣に、良心を売ったのであろうか。
疑問の空襲
曾呂利が、医務室につれこまれるところを、ちょうどそこを通りかかった房枝が、見かけた。
「まあ、曾呂利さん。足のわるいのに、ひとりで出かけたりするから、また、どうかしたんだわ」と、つづいて、彼女も、曾呂利のあとから、医務室に入った。
曾呂利は、診察用の肘かけ椅子に、腰をかけさせられていた。
船医が、すぐやってきて、曾呂利が痛みを訴える後頭部をかんたんに診察した。
「なあに、大したことはありませんよ。湿布してあげましょう」
船医は、看護婦を呼んで、湿布のことを命じているとき、入口の扉をあけて、船長が入ってきた。
「やあ、ドクトル。赤石は、その後、どうです」
赤石とは、れいの爆発事件のとき、甲板でたおれた船員の名だ。
「やあ、船長。赤石君は、奥に寝かせてあるが、もうすこし様子を見ないと、なんともいえませんねえ」
「うむ、そうすると、会って、こっちが聞きたいことを聞くわけには、いかんですかな」
「まあちょっと待ってください。もう三十分ぐらいは」
「そんなに、容体があぶないのかね」
「何ともわからんですよ、それは。すこし、ここに来ているらしいので、警戒しているのです」と、船医は、自分の頭を指さした。
船長は、困ったという表情で、
「じつは、本船の上を、怪しい飛行機が飛んだことについて、赤石に聞いてみないと、事実がはっきりしない点があるのでね」
「赤石君にきかないでも、外の人だけで、わからないのですかね、私も聞いたが、あれだけはっきりした爆発音だから、それでも分かりそうなものだが」
「いや、ドクトル。どうも、それだけのことじゃないらしいんでね、それで困っとる」
と、船長は、口を大きくむすんで、
「第一、空襲らしいというのに、本船の者で、誰も飛行機の近づく爆音を聞いたものがないのが、おかしい。もちろん、飛行機の姿も見えなかった」
「船長。爆弾がふってきたんだから、それでもう、飛行機の襲来だということは、たしかではありませんか」
「いや、それが、そうかんたんにきめられないのだ。それに、赤石のたおれていたとこに、ばらばらと落ちていたうつくしいきり花だが、こんなものがどうして、あんなところにあったか、これは赤石に聞かないと、わからないことなんだ」
と、船長は、手に握っていた数本のきり花を、机のうえに投げだすようにおいた。
「たったこれだけの花ぐらいのことを、そう気にすることはないでしょう」
「いや、これは、その一部なんだ。もっとたくさんある」
船長は、いよいよ苦りきって、
「もっと、困ったことがある。今しらべてみてわかったんだが、あの爆発事件の最中に、この船内から、二人の船客が、姿を消したんだ。二人ともミマツ曲馬団の人たちで、一人は団長の松ヶ谷さん、もう一人は、トラとよばれている丁野十助という曲芸師だ。船内を大捜査したが、たしかにこの二人の姿が見あたらない。それから、三等食堂の血染のテーブル・クロスの事件ね」
「ああ、あの血染事件の血液検査を、やることになっているが、こういう次第で、手が一ぱいですから、あとで、なるべく早くやります」
「とにかく、わしの直感では、この船は、横浜へ入るまでに、どうかなってしまうのじゃないかと思う。単なる空襲事件ではない。もっと何かあるのだ。今、手わけして、探してはいるがね。ねえ、ドクトル、あんたも、なにかいい智恵をひねりだしてくださいよ」
船長は、苦笑していった。
そのとき、房枝の手をひっぱるものがあった。房枝は、船長とドクトルの対話に、気をとられていたが、手をひっぱられたので、その方をみると、それは曾呂利がやったのだ。
「ねえ房枝さん。そこへ船長さんがもってきた花を、私に見せてください」
「まあ、あなたが見て、どうなさるの」といったが、房枝は、テーブルのうえから、花をとって、曾呂利に渡した。
曾呂利は、その花を手にとって自分の鼻に押しあてた。そのとき、彼の目が、急に生々と輝きだした。
「ほう、この花は、非常に煙硝くさい。おや、それに、なめてみると、塩辛いぞ、海水に浸っていたんだ。すると、この花は、船の上にあった花ではない、海の中にあった花だ。これは、ふしぎだ」
曾呂利は、まるでなにか怪物につかれた人のようにぶつぶつと口の中でひとりごとをいった。しかし房枝は、その一言半句も聞きのがさなかった。そして、曾呂利の顔を、穴のあくほど見つめていたが、はっとした面持で、
(この人は、どうしても、帆村荘六という名探偵にちがいないと思うんだけれど。なぜ、曾呂利本馬などと、名をかえているのでしょう)
と、ふしん顔。
そのとき、電話のベルが鳴った。看護婦が出ると、船長に急用だという。そこで船長が、かわって電話機をとりあげたが、一言二言いううちに、船長は、おどろきのこえをあげた。
「えっ、見つかったか。ふーん、そりゃ、たいへんだ。今すぐ、わしは、そこへいく」
なにが見つかったというのだろう。
それをきいて、曾呂利本馬が、すっくと立ち上った。松葉杖なしで、曾呂利がつっ立ったのである。
石炭庫の中
「おい、見つかったそうだ、ミマツ曲馬団の松ヶ谷団長が、石炭庫の中で」
船長は、おどろくべきことばをのこすと、すぐさま医務室をとびだした。
「えっ、団長さんが、見つかったんですって、まあ、よかったわ」
と、房枝は、よろこびの色をうかべて、曾呂利本馬の方をふりかえった。
行方不明をつたえられた二人のうち、一人は見つかったのだ。ことに、松ヶ谷団長が、このまま、行方不明だったら、このミマツ曲馬団は、これから満足な興行ができないであろう。やがて、一座は解散となって、団員たちは、ばらばらになってしまうにきまっている。ああ、そんなことになれば、房枝のような孤児を、だれが面倒みてくれるであろうか。団長が見つかったという知らせに、房枝が、ほっと安心の吐息をもらしたのも、わけのあることだった。
「あ、曾呂利さん」
曾呂利の方をふりかえった房枝は、いぶかしそうに、彼にこえをかけた。
曾呂利本馬は、足がわるく、おまけに、ニーナ嬢につきあたられて、後頭部をいやというほどうったので、ふらふらの病人であるはずのところ、彼が、足もともしっかり、すっくと立ち上っていたのを見て、房枝は、たいへんふしぎに思ったのである。
「曾呂利さん。もうおなおりになったの」
「いや、あいかわらず痛むのですけれど、今、団長が見つかったときいたものだから、おどろいて、思わず立ち上がったんですよ」と、彼は、いいわけしながら苦笑した。
「いやな曾呂利さんね。そんならんぼうなことをなさると、いつまでも丈夫になれないわ。ねえ、ドクトルさん」
ドクトルは、看護婦相手に、船員赤石の容体を見守っていたが、
「そうですよ。若い人は、どうもらんぼうをするので、いかんですよ。いくら丈夫でも、人間の体力には、かぎりがある。それをふみこすと、体をこわしてしまう。曾呂利さん、房枝さんのいうのが、ほんとうだ」
曾呂利は、肘かけ椅子に腰をおろし、たいへんよわった顔で、あたまをかいた。
そこへ、また電話がかかってきた。看護婦が出ると、こんどは、船長のとこへかかってきたのではない。船長から船医のところへ、かかってきたのである。
「あ、ドクトルだね、たいへんだ。すぐ来てくれたまえ。場所は、第一石炭庫。見つけだした松ヶ谷団長は、顔にひどい怪我をしている。そして、なんだか、様子がへんだ。妙なことを口走っている。うごかせそうもないから、すぐに来てくれたまえ」
と、船長のこえは、うわずっていた。
船医は、薬や注射器をもってすぐかけつけると返事をした。そして、看護婦をいそがせて、自分は鞄をもち、看護婦には、洗滌器などの道具をもたせて、あたふたと、医務室を出ていった。
あとには、赤石と曾呂利と房枝の三人きりとなってしまった。
そのとき房枝も、そわそわしていたが、団長の様子が気になるとみえ、彼女もまたそこを出ていった。あとには、赤石と曾呂利の二人きりとなった。
船員赤石は、死んだようになって、ベッドに寝ている。眼をあいているのは、曾呂利一人だった。
その曾呂利青年は、しばらくあたりの様子をうかがっていたが、誰も近づく者がないのを見すますと、肘かけ椅子から、すっくと立ち上った。彼の右足は、膝のうえから下を、板切ではさみ、そのうえに、繃帯でぐるぐるとまいていて、いかにも痛そうであったが、ふしぎにも、このとき、彼は、室内をすたすたと歩きだしたのであった。そして手をのばして、赤石の倒れていたという疑問の花をつかむと、部屋の片隅にある顕微鏡の前にいった。もしもこのとき、誰かが、この曾呂利青年のあやしい行動を見つけた者があったとしたら、きっと、部屋にとびこんで、このにせ怪我人の曾呂利を、やにわにとりおさえたことであろう。
彼は、爆薬で黒くよごれた花片をむしりとると、器用な手つきで、それを顕微鏡にかけて、のぞきこんだのであった。
数秒間、彼は、石像のようになって、顕微鏡をのぞいていたが、やがて顔をあげると、
「おお、これはたしかに、今大問題になっているBB火薬だ! これはたいへんだぞ」と、思わず、口走った。
いよいよ怪しき曾呂利青年だ。
今や、曾呂利青年の正体は、読者の前に、明らかにされなければならない。曾呂利本馬とは、真赤ないつわり、彼こそは、理学士の肩書のある青年探偵、帆村荘六その人だったのである。
おお、あの有名な名探偵、帆村荘六。
彼はなぜか一芸人として、このミマツ曲馬団に加わっていたが、雷洋丸上にしきりに起る怪事件にだまって見ていられず、ひそかに探偵の歩をすすめていたのだった。
そういうことが分かれば、曾呂利本馬として、これまでにたびたびおかしな振舞があったが、それは探偵のための行動であったのだ。
BB火薬
曾呂利本馬は、もう解消して、名探偵帆村荘六は、顕微鏡からはなれた。
彼は、きりりとした顔で、またしばらく、あたりの様子をうかがっていたが、まだ誰も、この医務室に近づく者がないことをたしかめると、後へふりむいて、卓子のうえから、一本の試験管をとった。
なにをするのであろうか?
帆村探偵は、そのガラスでつくった試験管の中へ、BB火薬らしいもので黒くなった花片を、しきりにむしりとって、つめこんだ。
それから、薬品のならんだ棚から、ある薬品の入った壜をとると、栓をぬいて、無色の液体をすこしばかり試験管につぎこんだ。
(こうしておけば、大丈夫、保つだろう――)
彼は、試験管にコルクの栓をした。それから、器用な手つきで、封蝋を火のうえで軟かくすると、コルクの栓のうえを封じた。それで作業は終ったのであった。
それがすむと、こんどは肘かけ椅子のところへもどり、右足の繃帯を、くるくるとときはじめた。
足をはさんでいる板切が、むきだしにあらわれた。
(ここへ入れておけば、安心だ)
彼は、試験管を、板切の間にさしこんだ。それからふたたび繃帯を、元のように、ぐるぐると巻きつけたのであった。
それが終ると、彼はほっとしたような顔つきになって、肘かけ椅子に、ぐったりともたれて、大きな息をついた。
とたんに、廊下にあわただしい足音がしたと思ったら、医務室の扉があいて、看護婦がもどってきた。
あぶないところであった。
看護婦が、もうすこし早く、この部屋へもどってくれば帆村探偵は、たちまち、怪しい行動を、見られてしまうところだった。
「どうしたんですか、看護婦さん」
と、帆村探偵は、なにげない様子で肘かけ椅子にもたれたままたずねた。
「あら、あなたをほったらかしにしておいて、どうもすみません。松ヶ谷さんが、石炭庫の中でたいへんなのよ」
看護婦は、手術の道具を、下へおろすのにいそがしい。が、手よりも口の方は、もっとよく動く。
「あたし、こんなおどろいたこと、はじめてですわ。松ヶ谷団長さんの顔ったら、たいへんよ。顔中すっかり火傷をしてしまって、それに眼が、ああ、もうよしましょう、こんなことをいうのは」
「眼が、どうしたのですか」
「あの様子では、もう永久に、物が見えませんわ、かわいそうに……。盲目になっては、猛獣をつかうことができないでしょう。お気の毒だわね。ミマツ曲馬団は、メキシコで見物にいって、とても冒険が多いので、感心しちゃったけれど、団長さんがあれでは、もうだめだわ」と、看護婦はしきりに残念がる。
「団長は、一体、石炭庫の中でなにをしていたのですか」と、帆村探偵は、こえをかけた。
「それが、たいへんなのよ。石炭の中に、団長さんが埋まっていたのよ。火夫が、石炭をとりに来て、石炭の山にのぼると、真暗な奥から、うめきごえがきこえたんですって、びっくりして、仲間をよびあつめ、もう一度いって、奥をしらべてみると、誰だかわからない人間が、石炭の間から顔を出して歌をうたっていたんですって」
「歌をうたっていた?」
「そうなのよ、へんでしょう。顔がすっかり焼けただれているのに、歌をうたっているのよ。診察に行かれた先生もおどろいていらしたわ。普通の人間なら、もう死んでいるところですって」
「ひどいことをやったものですね。一体、誰が、そんなことをやったのでしょうね」
「さあ、あたし、そんなことは知らないわ。誰かにうらまれたのじゃないかしら、曲馬団の団長なんて、団員を、とてもいじめるのでしょう。ライオンや虎を打つ鞭でもってぴゅうぴゅうとたたくのでしょう」
「さあ、どうですかなあ」
帆村探偵は、松ヶ谷団長が、見かけによらない人情にあつい人であることを知っていた。だから、団長は団員からうらまれるようなことは、なかったであろうと思った。問題は、BB火薬にあるのではなかろうか。それから、もう一つ、彼の心に思い出されるのは、美人ニーナ嬢の怪行動だ。ニーナ嬢にぶつかったのは、石炭庫へ下る途中の通路であった。
BB火薬とニーナ嬢!
BB火薬というものは、昨年始めてメキシコのある化学研究所でつくられた、おそるべき強力なる爆薬であった。そのつくり方はもちろん、こういう火薬があるということまで極秘になっていたはずのものだった。それが、どうしたわけか、ある一部へ秘密が洩れ、別なところで、製造が始められたと、帆村は聞いていた。その問題のBB火薬が、雷洋丸の上で発見されたのである。
帆村の眼底には、消せども消せども、なぜかBB火薬と並んでニーナ嬢の顔が浮かび上がってくるのであった。
虚報