11話 爆薬の花籠(11)
読み方を変える
その朝、房枝は、ニーナ邸で、早くから目をさました。
傍のベッドでは、スミ枝がいい気持そうに寝込んでいた。まるでお伽噺にあるお姫さまのような豪華なベッドに、ふっくらと体をうずめてねむっているのであった。
房枝は、窓ぎわへいって、カーテンをそっとあけて、下を見おろした。花壇には、今もうつくしい花が咲き乱れていた。いくらきってもつんでも絶えることのない珍しい花であった。
つばのひろい麦わらの帽子をかぶった庭男が、しきりに花の間をくぐって、如露で水をやっているのが見えた。
そういう庭男が、あっちに一人、こっちに一人、二人で水をまいていた。
今日の花の慰問隊の集合は、午後一時ということになっていた。場所は日比谷公園であった。それから各工場へ、手わけして花の美女隊が、大行進を始めることになっていた。午前中は工場の増産能率を害するというので、このように午後の出勤と決められていたのである。
今日の花の大慰問が終れば、これで当分一段落となる。房枝の体も、明日からはあくことになるので、さてそのあとは、どんなことをして暮そうかと、そのようなことが、はや気がかりになった。ニーナは、いつまでも、房枝の生活の面倒を見てくれるつもりかもしれないけれど、そういつまでも厄介になるわけにはいかない。
房枝は、またベッドのところへ戻ってきて、そのうえに腰をおろした。スミ枝は、まだねむっている、すうすうと気もちよさそうないびきまでかいて。
房枝は、手をのばして、枕許においてあった手箱を手にとった。
よせぎれ細工の手箱であった。これは、房枝の大好きな彦田博士の夫人道子から贈られたものであった。そしてミマツ曲馬団大爆破のとき、二、三百米先の工場の中へとびこんでいたのをこのスミ枝が取りかえしてきてくれたのであった。
房枝は、その手箱を胸のうえに、そっと抱きしめた。
「ああ、そののち奥様にもずいぶんながくお目にかからないような気がしますわ。あたしの大好きな奥様は、おたっしゃでいらっしゃるでしょうか。このまえは、奥様のお身の上をお案じ申すあまり、『どうかもうお帰りになってくださいまし、そして、もう二度とこんなところへは、おはこびになりませんように』と、そのような失礼なことを申し上げました。お怒りになりましたかしら。お怒りになっては、房枝は悲しゅうございますわ。あたくしは、奥様とお別れするのは、どんなにかつらいことでございました。でもあたくしは、そうしなければならなかったんでございます。なぜと申しまして、あたしたちミマツ曲馬団の者は、たえず、あやしい者に狙われていました。ですから、そのそば杖が、万一奥様のお身にあたるようなことがあれば、あたくしは、どんなにか心ぐるしいのでございます。あたくしの手足が千切れることよりも、奥様の一本のお指から赤い血がふきだすことの方がよっぼど悲しいのでございます。ああ奥様、房枝は、大好きな奥様にお目にかかれなくてさびしいのでございますけれど、こうして、じっとこらえております。ただ奥様の御安泰をのみ、おいのりいたしております」
房枝は、道子夫人の手になる手箱に、そっと頬ずりをして、
「でもここに、奥様のあついお情のこもった手箱がございますので、房枝は、どんなにか、なぐさめられているのでございますわ。奥様は、手芸にも御堪能なのですわねえ。ああ、おそばに毎日おいていただいて、奥様から手芸をおしえていただくことが出来たら、房枝はどんなに幸福でしょう。ああ、だめです、そんなこと。房枝がミマツ曲馬団の生き残り者である間は、どこからかおそろしい悪魔が、今にもとびかかってきそうな姿勢で、こっちをにらんでいるのです。そういう禍をもって、どうしてあたくしが、奥様のおそばへまいれましょう」
房枝は、いつになく、感傷な少女になりきってなげくのであった。
「あーら、房枝さん。泣いたりして、どうしたのよう」
ねむっていると思っていたスミ枝が、むっくり頭をあげて房枝によびかけた。
「あら、スミ枝さん。あたし、泣いてなんかいないわよ」
「あんなことをいっているわ。ああ、よくねちゃった。ここは天国みたいね」
スミ枝は、ベッドから飛び下りた。そして部屋の隅の洗面器の前に立って、鏡に顔をうつして、あかんべえをやった。
「そうそう、房枝さん。その手箱ね。一個所だけ、よせぎれの色がかわっているんだけど、あの爆発で、色がかわってしまったのかしら」
ふしぎなことを、スミ枝がいい出した。
「あら、そんなことがあるかしら。スミ枝さん、それはどこなの」
「ちょっと、ここへ持ってきてごらんなさい」
スミ枝は、ピンを口にくわえて、髪を解きながらいう。
「ほーら、ここよ。ここのところだけ、色がちがうでしょう」
「ああ、ここね。これは昔の安いメリンスの古ぎれね。ほかのところのよせぎれが、ちりめんだの、紬だの、黄八丈だののりっぱなきれで、ここだけがメリンスなのねえ。でも、これは爆発で色がかわったのではなくて、もともと、これはこんな色なのよ」
「そうかしら、でも、へんね」
「なぜ」
「でも、へんじゃないの。そこのところだけ、安っぽいメリンスのきれを使ってあるなんて、どうもへんだわよ。きれが足りなかったんだとは、思われないわ」
スミ枝が、無遠慮に、いいはなつところを聞いていると、なるほど、へんでないこともなかった。房枝は、その色がわりの安いメリンスのきれに、じっと目をおとしていたが、
「あら」と、とつぜん叫んだ。
「なによ。房枝さん。どうしたの」
「いえ、このメリンスの模様ね、梅の花に、鶯がとんでいる模様なんだけど、あたし、この模様に何だか見覚があるわ」
「あら、いやだわ」
スミ枝が、ぷーっとふきだした。
「スミ枝さん。なぜ、おかしいの?」
「だって、梅の花に鶯の模様なんて、どこにもあるめずらしくない模様よ。それをさ、房枝さんたら、何だか見覚があるわなんて、いやにもったいをつけていうんですもの」
「ほほほほ。そうだったわねえ。梅に鶯なんて、ほんとうにめずらしくない模様だわ。ほほほほ。でも」
つりこまれたように、房枝は高らかに笑ったが、そのあとで、やはり小首をかしげる房枝だった。
「あーら、いやな房枝さん。まだ、はっきりしないの」
「でも、あたし、この模様、たしかに見覚があるのよ。もうこのへんまで思い出しているんだけど、そのあとが出てこないのよ」
房枝は、そういって、頸のところへ手をやった。スミ枝が栓をひねって、湯をじゃあじゃあ出しはじめた。
地下室の密議
そこは窓のない部屋だった。
壁のところには、配電盤や棚のようにかさねた高級受信器などの機械類が並んでいた。
二人の外人が、電信をうけていた。
どうやら、ここは地下室らしい。
ことんことんと、靴音が近づいてくる。階段を下りてくる音らしい。一人ではない。二、三人であった。
入口の扉についているベルが鳴った。
扉がひらいた。
電信員がふりかえるとその目の前に、ぬっと現れたのは、ターネフ大佐とニーナ嬢、それにワイコフ医師の三人づれだった。電信員は、はっと敬礼をすると、また元のように機械の方を向いて、電鍵を叩きだした。
「ここなら、大丈夫だ、まあ、そこへ掛けろ」
ターネフは、二人にいって、自分で、室のまんなかにある卓子の方へ椅子をもっていった。
ニーナもワイコフも、てんでに椅子をはこんで腰をかけた。
「あの日本人の娘どもは、もっとおとなしくさせるわけにいかないのかい。どこの部屋でも、えんりょなしに入ってくるので、始末がわるい」
ターネフ首領は、にがい顔だ。
「でも、あれをへたに禁止すると、かえってあの娘たちに警戒心を起させますわ。今日一日のことですから、辛抱していただかなければ」
と、これはニーナの弁明である。
「ふん、まあ、これはいいとして、例の方は、手ぬかりないだろうな」
「ええ、準備は、もうすっかりついています。今回同時爆発をとげる工場の数は、全部で五十六ということになっています」
ワイコフ医師は、とんでもない報告をするのであった。
「同時爆発というが、まちがいないだろうかねえ。時刻がきちんとあわないと、どじをふむからなあ」
「その点は、大丈夫です。ものの五分と、くいちがいはないはずです。すっかり試験をしてありますから、まちがいなしです」
「銅板を酸がおかして、穴をあけるまでの時間だけ、もつというわけじゃな」
「そうです。つまり、時計仕掛よりも、この方が場所もとらないうえに、発見される心配がないのです。銅板の厚さと酸の濃度からして、発火時刻は、今夜の九時ということになっています」
「えっ、九時か、九時は、いけないよ。午後四時に爆発させなきゃ効目がうすい」
「九時にするようにと、御命令がありましたが」
「うん、はじめはそういった。しかし九時はいけないよ。どうにかして、四時爆発ということにならないか」
「困りましたな。全部やりかえるとなると、今からやっても、もう間に合いません」
「ふん、ちょっと、ぬかったな。いや、わしも注意が足りなかったのじゃ、じゃあ、仕方がない、午後九時の爆発で我慢をするか」
「九時でも、相当きき目があると思います。つまり工場には番人だけしかおりませんから、爆発が起れば、貴重な機械は完全に壊れるうえに、火災が起っても、人手が足りないから、どんどん延焼していきます」
「だがなあ、ワイコフ。午後四時の作業中に爆発をやった方がもっと効目があるぞ」
「そうですかしら。私は反対のように、考えますが」
「お前は、あたまがまだよくないぞ。いいか、作業中にやれば、五十六箇所の工場の機械が壊れるうえに、そのそばにいた何千人何万人という熟練職工がやられてしまうじゃないか。機械と職工とこの両方をやっつけてしまえば、ここで日本の生産力というものはどんと落ちる。機械と職工との両方を狙うのが、うまいやり方なんだ、どうだ、これでわかったろう」
「なるほど、一石二鳥という、あれですね」
「機械だけで、いいじゃありませんか。職工まで殺すなんて、ちと野蛮ね」
ニーナが口をはさんだ。
「野蛮もなにもない。あたりまえだ。機械はすぐにも他の国から入れて、いくぶんは補充がつく。しかし腕のいい技師や職工は、そんなわけにいかない。だから両方やっつけるのが一番いいのだ」
ターネフはひとりで悦に入っている。実におそろしい破壊計画であった。こういう計画をたてる世界骸骨化クラブの大司令は、鬼か魔か。
「それから、例の極東薬品工業株式会社の爆発は、念入りにやってくれよ。彦田博士も一緒にやっつけてしまわねばならないが、博士はこの頃いつも工場に泊っているそうだから、多分うまくいくだろう。あの優秀な博士は、どうしても生かしておくことは出来ない」
ターネフのいうことは、どこからどこまでも、日本にとって一大事のことばかりであった。いや、日本だけではない。東洋、いや全世界の文明力を破壊し、世界人類の幸福をぶちこわすおそろしい陰謀なんだ。この陰謀の巣の地下室は、どこにあるのかと思うと、これが意外にも意外、例のうつくしい花壇の真下にあるのであった。
時間の歩みのおそろしさよ。
未曾有の大事件は、刻々近づきつつある。
帆村探偵は、どこにいるのか。トラ十はどこへ逃げたのか。
ここに、ただ一つふしぎなるは、例の美しき花園に水を撒く庭番が、いつになく帽子を深々とかぶり、そしていつになく忠実に花の間にうずまって、仕事に精を出していることであった。
夫人のなげき
花の慰問隊は、一せいに日比谷公園から、進行を開始した。ターネフ首領邸から、ここへ運ばれてきてあった数千のうつくしい花束と花籠とは、少女たちの胸に抱かれ、飾りたてられたトラックの上にのせられ、そこから全市の各工場地帯に向かって出発したのであった。房枝の組は、城南方面であった。
この方面には、十台のトラックがつづいた。どの工場でも、工員たちから、ものすごい歓迎をうけた。
「まあ、きれいな花籠だこと」
「こんなに沢山もらっていいんですか。これはどうも、すみませんですなあ」
「いいえ。皆さんの御奮闘に対して、ほんのわずかの贈物なんですの。それを、たいへん喜んでいただいて、あたくしたち花の慰問隊一同、こんなうれしいことはございませんわ」
こんな会話のやりとりが、どこへいっても、工員たちと房枝たちとの間にとりかわされた。美少女たちの頬は、トラックの上で、すっかり紅潮して、花にもましてうつくしく見えた。
彦田博士の極東薬品株式会社の前でも、この花と少女のトラックは止まった。そして、一番見ごとな花籠が贈られた。
社長の彦田博士は現れなかったが、副社長以下の幹部が、門前に総出となって、花の慰問隊を出迎えた。
房枝たちが、その花籠を贈呈している途中で、会社の玄関から、一人の上品な夫人が現れた。その夫人こそ、彦田博士の夫人道子であったが、夫人は、目のさめるような大花籠にしばらく気をうばわれ、たたずんでいるうちに、さっと驚きの色が浮かんだ。それは、思いがけない房枝の姿を見つけたからであった。
「まあ、あなたは房枝さんでしょう。まあまあ、房枝さんでしたわね。よくきてくだすったのね。こんなところでお目にかかれるなんて」
夫人は、房枝のそばへ駈けよって、うれしさのあまり、ついに声が出なくなったほどであった。
「奥様は、どうして、こんなところに」
挨拶がすんでから、房枝が、ふしぎそうにたずねた。
「ああ、そのことですの。実は、この工場は、私の主人が建てて、社長をしていますのよ」
「御主人?」
「そうですの。彦田と申します」
「あ、彦田博士! まあ、そうでしたか。すると奥様は、彦田博士の御夫人でいらっしゃつたのですねえ。まあ、目と鼻にいましたのに、すこしも気がつきませんでしたわ。こんないい工場、そしてあんなにりっぱな御主人! 奥様は日本一御幸福ですわねえ」
「そうでもありませんわ、第一、私たち二人きりで子供がありませんもの。こんな不幸なことはありませんわ。まあとにかく、皆さんこっちへお入りになって、しばらく、休んでいってくださいまし。お茶の用意をしてございますから」
道子夫人は、そういって、房枝たちを工場の応接室へ案内した。そこには、心づくしのお菓子と茶が並べられてあった。
房枝は、その厚意に感激しながら、夫人のそばで茶を御馳走になった。
「房枝さん。いつも私が、お話したいと思いますが、むかし、主人との間には、一人のかわいい女の子がいましたのよ」
「そのようなお話を伺いました。で、そのお嬢さまは、どうなすったのでございます」
「おはずかしい身の上ばなしになりますが、その当時、研究狂といわれた主人と私はその日の食べものにも困り、そのうえ私が病気になってしまい、一家はどん底の暗黒におちました。まだ始めての誕生日もこない娘は、私の乳が出ないために、昼も夜も私のそばで泣きつづけてやせていきますの。ついに主人と私とは死を決心しました。しかし娘は死なせたくない。なんとか助かるものなら人のおなさけにすがっても、助けてやりたいと思い、心を鬼にして、ある露地に棄ててしまったのです」
「まあ」
「しかし、私たちは、すぐそれがまちがっていたと気がつきました。そこで、息せききって、娘を棄てた露地へ引返したのですが、そのときはもうおそかったのです。ほんの十分か十五分しかたちませんのに、娘の姿はもう見当りません。私たちは、必死になって娘をさがしまわりました。いいえ、今もなお、私たちはあらゆる手をつくして、娘をさがしつづけているのです、しかしわが子を棄てた罪を、神様はまだお許し下さらないものと見え、娘は未だに私たちのもとへ帰ってこないのです」
夫人は、ハンケチを目にあて、肩をふるわせて忍び泣くのであった。
「まあ、なんてお気の毒なお話しでしょう」
じっと聞いていた房枝は、その話が、他人事とは思えなかった。彼女の身の上にも、それと同じような話がある。房枝は、父母の顔も名もしらない淋しい孤子であった。こうして道子夫人の話を聞いていると、なんだか彼女自身が、道子夫人のさがしている棄てられた愛児のように思えてくるのだった。房枝の胸は、早鐘のようになりだした。
「ねえ、奥様。お棄てになったそのお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの」
ついに房枝は、思わずそうたずねてしまった。
光明
(お棄てになったお嬢さまの名は、なんとおっしゃいますの?)
夫人が、なんと答えるであろうか。もしも(その名は、房枝といいますのよ)といわれたら、房枝はどうしようかと、胸がわくわくした。多分彼女は、喜びにたえきれなくて、その場に卒倒するかもしれないと思った。
「娘の名でございますか。それは」
と、夫人は口ごもりながら、房枝の顔を穴のあくほど見つめた。
「あのう、娘の名は、小雪と申しますの」
「小雪? 小雪ですか。それにまちがいありませんの」
房枝は失望のあまり、わっと泣きだしたいのを一生けんめい唇をかみしめてこらえていた。
「ええ、小雪ですの。人様の手に渡っても、一旦私たちがつけてやった名前は、ぜひ名のらせたいと思い、メリンスの袷の裏に、娘の名を赤い糸で縫いとっておきました。房枝さん、もしや、あなたの本名は小雪とおっしゃるのではありませんの」
夫人の声は、ふるえる。
「いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ」
「まあ、でも」
「あたくしは、生れてからずっと曲馬団の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ」
房枝は、その場にいたたまらなくなって、スミ枝たちにはかまわず、一散に外へ走りだしたのであった。
何もしらないトラックの運転手は、いよいよ帰るのだと思って、運転台へとびのった。そのうちに慰問隊の少女たちは、ぞろぞろと工場の中から出てきた。ただ一人スミ枝だけが、なかなか出てこなかったが、しばらくして、ようよう道子夫人と一緒に出て来た。スミ枝が最後に車上の人になると、トラックはうごきだした。房枝は、うずくまって、手で顔をおおったままついに頭をあげなかった。
賑やかな拍手をもって花の慰問隊を送る工場の人々に交って、道子夫人の顔だけが、ひとり憂にとざされていた。
慰問隊は、一旦日比谷に引揚げ、そして夕方の六時近くになって、めでたく解散した。
房枝は、スミ枝をさそってそばやに入った。そしておそばを二つとったが、房枝はついに箸をつけず、スミ枝の方へ押してやった。
そこを出ると、房枝は、わざわざ暗い裏町をえらぶようにして、ただ黙々としてあるきつづけるのであった。困ったのは、そばについて、一緒にあるかされているスミ枝だった。何を話しかけても、いつになく強情に、房枝はへんじ一つしなかった。
「ねえ、房枝さん。あんた、いじわるね。あたしにあいたいとか、かゆいとかぐらいへんじをしても、ばちがあたりゃしないでしょう」
スミ枝は、とうとう怒り出した。それでも房枝は、頑としてへんじをしなかった。これにはスミ枝も、全く手をやいてしまったが、ふと思い出して、
「そうそう、房枝さん。あのいい奥様が、あたしかえろうとすると、それを引止めて、こんなことをいったわよ。あの、いつだか、あの奥様があんたにくれたあの手箱ね、あの手箱に張ってあるメリンスのきれがあるでしょう。あのメリンスのきれに、あんたがおぼえがないか、きいてほしいといってたわよ。あのきれは、奥様が自分の棄子に着せてやった袷の共ぎれなんだってよ」
「えっ、スミ枝ちゃん、何だって」
今の今まで、ろくにへんじもしなかった房枝が、これをきくと、急にものをいいだした。スミ枝は、あきれながらも、房枝が口をきくようになったことをよろこんで、くりかえし説明をした。
「あら、あたし、思いだしたわ」
房枝は、瞳を輝かせた。
「どうしたのよう、房枝さん」
「あ、たしかに、あれにちがいないわ。ねえスミ枝さん。あたしのお守袋の中に、あの手箱と同じ梅に鶯の模様のメリンスのきれで作った小さい袋が入っているのを思いだしたのよ」
「それ、ほんとう。じゃ、見せてごらんなさい」
「あ、そのお守袋は、ここにはないのよ」
「じゃ、しょうがないじゃないの。どこへやってしまったの」
「黒川団長の胸にかけてあんのよ」
「あーら、なぜそんなことを」
「だって、黒川団長が、あのとおりの大怪我で重態でしょう。なんとか持ち直すようにと、あのお守袋を胸にかけてあげたのよ。じゃ、これからすぐ、黒川団長のところにいってみましょう。あたし、それが同じだかどうだか、早くしらべてみたいわ」
そこで、房枝とスミ枝とは、いそいで黒川の寝ているターネフ首領邸へ急ぐこととなった。黒川は、あれ以来、ずっと屋敷の一室に、呻吟しているのであった。
はたして、そのお守袋の中にあるものは、あの小箱と同じきれであるか。房枝は、胸をおどらせているが、たとえそれが同じきれであったとしても、房枝は房枝であり、決して小雪ではないから、さわいでも無駄なのではあるまいか。しかし房枝の胸は、わくわくして仕方がなかった。
一大事近づく