10話 爆薬の花籠(10)
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ニーナは現場から大手をふって、かえっていったが、房枝の方は、そこにとめておかれて、捜査本部の取りしらべをうけた。
帆村探偵も、そばにいて、房枝の答えることをじっときいている。
「ニーナさんは、親切な方ですわ。あの方をあやしむのはまちがいだと思います」
房枝は、どこまでも、ニーナを弁護しているのだった。
「じゃあニーナのことは、それくらいにして、トラ十こと丁野十助のことだが、あいつは、ミマツ曲馬団へも一度雇われたいとたのんで来たのではなかったかね」
若い検事が、きびきびと質問をする。
房枝は、かぶりをふって、
「いいえ、そんなことを聞いたことはございませんわ。トラ十さんは、雷洋丸にのっているとき会ったきりで、こんど内地へかえってきてからは、丸ノ内のくらやみで会うまでは、まだ一度も会ったことがございません」
「ふーん。それは本当かね。まちがいないかね。トラ十は、ミマツ曲馬団へもう一度雇われたいと思って、いくどもたずねていったといっている。そのために、トラ十は、郊外のある安宿に、もう一週間もとまっているといっているぞ。本当に、トラ十が曲馬団をたずねていったことはないか」
「さあ、ほかの方ならどうか存じませんけれど、あたしにはおぼえがございません」
「それなら、もう一つたずねるが、トラ十以外の者で、誰かこのミマツ曲馬団に対して恨を抱いていた者はないか」
「あのう、バラオバラコの脅迫状のことがありますけれど」
「バラオバラコのことは、別にしておいてよろしい。そのほかにないか」
「ございません。ミマツ曲馬団は、皆さんにたいへん喜ばれていましたし、団員も、収入がふえましたので、大喜びでございました。ですから、ほかに恨をうけるような先は、ございませんと存じます」
「そうか。取りしらべはそのくらいにしておきましょう」
検事は、そういって、警官たちと、ひそひそとうちあわせを始めた。
「どうだ。もうこのくらいでいいだろう。トラ十をもっとしらべあげることにしよう」
「それがいいですね。そして、山下巡査が見つけた沼地についた大きな足あとが、トラ十の足あとであるという証明がつけばいいんですがねえ。あそこのところが合うように持ってきたいものですなあ」
「まあ、そのことは、後にするがいい」
と検事は、おしとめて、こんどは帆村の方に向き、
「おい帆村君。君は何かこの娘に聞きたいことはないか。許すから何でも聞いておきたまえ」
「はあ、それでは、ちょっと」
と、さっきから黙っていた帆村が、房枝の方へ向き直った。房枝は、帆付から何をきかれるのかと、ちょっとはずかしくなった。
「ちょっと伺いますが」
と、帆村は、意外にも、かたい顔を房枝の方に向け、
「あなたは、ミマツ曲馬団の誰かを殺害しようという計画をもっていたのではないですか」
「えっ、なんとおっしゃいます?」
帆村の問は、房枝をおどろかせたばかりではない。検事はじめ警官たちも、その問にはおどろいてしまった。それは房枝を爆破事件の犯人として疑っているようにも聞える質問だったから。
「じゃあ、もう一度いいます。あなたは、ミマツ曲馬団の誰かを殺害する考えがあったのではないですか」
「まあ、帆村さん、あまりですわ。と、とんでもない」
房枝は、肩をふるわせて叫んだ。
帆村は、なぜとつぜん、こんなことをいいだしたのであろうか。ならんでいる警官たちの目が、一せいに帆村の顔にうつる。
「あなたは、そういう考えのもとに、爆発物を、曲馬団のどこかに仕掛けておき、そしてあなたは、自分の体を安全なところへ移すため、丸ノ内へ出掛けていったのではないですか。一人でいくのは工合がわるいから、黒川新団長をさそっていった」
「まあ、待ってください。帆村さん。あたくしが、そんな人間に見えまして、ざんねんですわ」
房枝は、すすり泣きをはじめた。しかし帆村は、一向動じないかたい表情で、
「だから、バラオバラコの脅迫状も、実は、あなたが自分で作ったものであると、いえないこともない。あなたが安全な場所へ出かける口実を作るため、自分で脅迫状を出したのではないのですか」
「あ、あんまりです。あんまりです」
と、房枝は、とうとう泣きくずれてしまった。
それを見かねたものか、検事は、
「おい帆村君。その点は、われわれももちろん考えてみたが、この娘は、それほどの悪人ではなさそうだ。われわれもそのことについてはうたがっていないのだから、それでいいではないか」
「はい、それではどうぞ」
帆村は、かるくおじきをして、後へ下った。
房枝は、くやしくて仕方がなかった。帆村探偵は、りっぱな青年だと思っていたのに、なんというひどいことをいう人であろう。あろうことかあるまいことか、自分を殺人犯だとうたがうなんて、そんな仕打があるであろうかと、日頃の好意が、すっかり消しとんでしまった。
帆村は、ただ沈痛な顔をしている。彼の胸の中には、他人にいえない何かのなやみがひそんでいるもののようであった。
出迎人
房枝は、その夜は、警察署の保護室ですごした。
その翌日となって、房枝は、警察署を出ていいことになった。そのとき、ミマツ曲馬団の生き残り組の中に入っていたスミ枝も、一しょに出ることを許された。
スミ枝は、署の外に出ると、房枝のそばにすがりつかんばかりにして、一時もはなれようとはしなかった。
「房枝さん、どうぞ、あたしを残していってしまわないでよ、ねえ」
「大丈夫よ。これから、一しょに働き口をさがしましょうよ」
「ほんとう? うれしいわ、あたし」
と、スミ枝は、またつよく房枝の腕にすがりついて、
「ああ房枝さん。あたしの持っているこの包の中にね、あなたの持物も、すこしばかり入っているのよ」
「あら、そう」
「うちの曲馬団の向かいに、大きな工場があるでしょう」
「ええ、あるわ」
「あそこの工場の中へ、曲馬団の衣裳や道具なんかが、ばらばらと落ちたんですって、あたしあの翌朝、浅草の小母さんところを早く出て、曲馬団へかけつけたんだけれど、工場の前でうろうろしていると、工場の守衛さんが、あたしのことをおぼえていて、こっちに、お前のところのものがたくさん落ちてきたよといって見せてくれたのよ。話をきいて、びっくりしたけれど、あたし、欲ばりだもので、早速その品物を見せてもらって、自分のものを選って持ってきたのよ。ついでに、房枝さんのものも持ってきたわ」
「あら、スミ枝さんは親切ね」
「そういわれると、あたしはずかしいわ。だって、正直にいうと、房枝さんも死んでしまったろうから、房枝さんの形見をもらうつもりで、持ってきたんだわ。ごめんなさいね」
「形見だって、ほほほほ。本当に、もうすこしで、形見になるところだったわねえ」
「ごめんなさい。あとで見せるわね。あの、いつかの奥様みたいな方が持ってきた手箱もあるのよ」
「あら、そう、あのよせぎれ細工の手箱が」
房枝は、道子夫人からいただいた手箱が焼け残っていたと聞いて、とたんに、なつかしく、夫人のことが思い出された。
(ああ、あの奥様はあたしが死んでしまったと思っていられるかもしれない、安心をおさせ申すために、おたずねしなければならないけれど、つい、お所をうかがっておかなかったので、こういうときに困ってしまうわ)
と、ざんねんに思った。
それから、房枝は、忘れていた道子夫人のことを考えつづけはじめたが、とたんに、じゃまがはいった。
「おお、房枝さん」
いきなり、横町からとびだしてきた者があった。
「あら」
房枝は、おどろきの声を発したが、そのままスミ枝の手をとって、急ぎ走りぬけようとした。
「房枝さん、お待ちなさい」
よびとめたのは、ほかでもない、帆村荘六だったのである。
房枝は、どなりつけたいような、むかむかする胸をおさえて足早に歩いた。
「おお、房枝さん」
こんどは、別な声が房枝をよびとめた。なまりはあるが、カナリヤのようにきれいに澄んだ声だった。それはニーナだった。そばには、ワイコフ医師もいた。
「あら、ニーナさん」
「あたくし、待っていました。黒川さん、あなたに会いたがっています。すぐ来てください」
「あら、そうですか。どうしたのでしょう、容態でもわるくなったんじゃありません?」
「ええ、そうです、そうです。黒川さん、至急、あなたに会いたがっています。それからね、房枝さん。あたくし、あなたのために、しんせつなことを考えました」
「親切なことって」
「あなたを、あたしのところで、よい給料で働いてもらおうと思います。仕事は、むずかしくありません」
「そうですか。でも、あたし、この方と一しょに働こうって、約束したばかりなんですのよ」
といって、房枝はそばでけげんな顔をしているスミ枝を指した。
「おお、こちらのうつくしい娘さんですか。うつくしい女の人、たいへんよろしいんです。房枝さんと一しょに働いていただきましょう。その仕事、たいへんいい仕事です。くわしいこと、あとで話します。自動車が待っていますから早くのってください」
房枝とスミ枝が、顔を見合わせて、どうしようかと考えているうちに、ニーナは、自分の思ったことを、どんどんやった。道ばたに待っている自動車のところへ来ると、ワイコフに扉をひらかせ、二人をおしこむようにして、自動車にのせてしまった。
「あら、ちょっと房枝さん。すてきな自動車ね」
スミ枝は、もう自動車に気をうばわれてしまっている。
房枝は、走りだした自動車の窓外に、目を走らせた。電柱のそばに帆村が立って、じっと房枝の方を見おくっていた。
「ほほほ、房枝さんをおこらせた探偵さん、くいつきそうな顔していますね」
ニーナは、どこで知ったか、そういって、愉快げに笑った。ワイコフの操縦する自動車は、町の辻をまがって、国道の方へすべりこんでいった。
自動車が見えなくなってしまうと、帆村探偵は、たばこをとりだして火をつけた。
「房枝さん、あんたは、とうとう本気でおこってしまったようだね。はははは」
と、彼は口の中で、つぶやくようにいった。なぜか彼の顔からは、近頃のあのいたましいかげが急に取れ、その目は希望にかがやいていた。
花の慰問隊
それから一週間ほどしてのことだったが、都下の新聞やラジオのニュースによって、
「増産運動・花の慰問隊」
という風がわりな慰問隊が結成せられたことが伝えられ、国民をたいへんに感激させた。
その「花の慰問隊」というのは、うつくしい少女たちの集りで、そのうつくしい少女が、これはまた更にうつくしい花束をもって、東京にあるたくさんの生産工場その他を訪問し、朝から晩まで、機械と共働きをしている男女職工さんたちをなぐさめようというのであった。この「花の慰問隊」の訪問をうけた工場では、そこで働いている職工さんたちが、どんなに喜ぶかしれない。その結果、仕事の方もどんどんはかがいって、かならずいつもよりは、たくさんの品物ができることであろう。つまり花の慰問隊は、増産運動までをやろうというのであった。
この「花の慰問隊」結成のことは、ニュースがひろがっただけでも、たいへんなよい反響があった。
各新聞紙は、争うようにして、花の慰問団の写真をのせた。
そのときカメラの焦点は、つねに一人の明朗な、はつらつたる美少女に合わされていた。その少女こそ、ほかならぬ房枝であったのである。
花の慰問隊の少女たちは、はじめのうちは、数十名にすぎなかった。そして一日に、三、四箇所の工場をまわるにすぎなかったが、新聞や、ラジオでこのことが伝わると、日毎に参加の隊員がふえてきて、一週間たつかたたないうちに、隊員の少女たちは、三百余名という多数となった。
房枝は、いつとなしに、花の慰問隊長にあげられていた。
ニーナは、房枝の後援者であった。いや、もっとはっきりいうと、はじめから、この花の慰問隊をつくるのに力を入れていたのであった。しかしニーナのことは、どの新聞にも出なかった。それは全くふしぎなくらいであった。
だが、その理由は、ニーナと房枝との間に、かたい約束があったからである。即ち、慰問隊の結成は、すべて房枝がいい出したことにしておくことと、それからもう一つ、花の慰問隊のことを聞いて、ある富豪が、名前をかくしてかなりたくさんな金を、慰問隊のために寄附したこと、この二つのことを、ニーナは房枝にまもるように約束したのであった。その実、この寄附金は、すべてニーナのふところから出たのであった。といっても、ニーナのお小遣から出たのではなくて、もっとえらい筋から出ているのであった。今後も、入用なだけの金は、いくらでも房枝に渡されることに、ニーナとの話がついていた。
次の日曜日が、花の慰問隊の大会ときまった。これこそ表面はいかにもうつくしいが、一度その内幕をのぞくと、そこにはターネフ一派の実におそるべき陰謀がいままさに行われようとしているのであった。それは、どんな大事件をもたらすのであろうか。ターネフが「もはや荒療治のほかなし」と放言したが、その荒療治の日は、いよいよ近くに迫ったのであった。房枝は、そんなこととは、夢にも思っていない。ニーナたちをうたがうどころではない、ニーナのかくれた美挙にすっかり感激し、ニーナをすっかり信じかつうやまっているのであるからまことに困ったものであった。
帆村探偵は、今なにをしているのであろうか。
そしてついに、その日が来た。花の慰問隊の大行進! 東京の工場という工場が、うつくしい花束や、おそろしい爆薬を秘めた花籠で飾られる日が来たのであった。
あやしき見張
いよいよ今日の日曜日は、花の慰問隊の大行進! 東京の工場という工場が、うつくしい花束、いや、おそろしい爆薬を秘めた花籠でもって飾られるのだ!
その早朝のこと、例の城南の警察署へ、一台の帆自動車がすべりこんだ。
運転台にのっていた警官が、すばやく外へ下りて、自動車の扉をあけると、中から、度のきつい近眼鏡をかけた紳士がひらりととび下り、階段をあがって、さっと警察署の中に姿を消した。
「おう、田所検事だ。いよいよ御入来だな」
そういったのは、署の前の、煙草店から出てきたあやしい黒眼鏡の男だった。
彼はそういうと、横を向いて、道路の傍で故障になった自動車をなおしている修繕工らしい長髪の男に目くばせした。すると、修繕工はかるくうなずいた。黒眼鏡の男は、そのままそこを立ち去ったが、あとには長髪の修繕工が、いかにも体がだるそうに、ぼつぼつ自動車の修理にとりかかった。が、彼の目は自動車にそそがれるよりも、警察署の表口と裏口あたりにそそがれる方がひんぱんであった。どうしても張番をしているとしか見えない。
何者であろうか、こうして、警察署に気をくばっている曲者たちは?
そのとき署内では、大急ぎで駈けつけた田所検事を中央にかこんで、署長や司法主任や係官の刑事や巡査が、額をあつめて、会議の最中であった。
「そうか、昨日の午後四時か」
と、田所検事は、近眼鏡にちょっと手をかけて、目をしばたたく。
「ええ、午後四時でしたな。トラ十へ、これをさしいれたいから頼みますと、にぎりずしが一折と、鼻紙一帖とをもってきたのです。そこへ出たのが、この間、拝命したばかりの若い巡査だったが、『トラ十へ』という声に気がついて、その巡査を押しのけて前へ出て応接したのが、ここにいる甲野巡査です。甲野巡査の第六感の手柄ですよ。ははは」
「署長さん、第六感なんて、そんなものじゃないのです。そうもちあげないで下さい」
甲野巡査が、頭をかく。
「じゃあ、これから後のことを、甲野巡査から聞こう。話したまえ」
「は、検事さん。トラ十へ差し入れ、というので、私はぎくんときました。だって、これは秘密になっていますが、トラ十は五日前に、ここの留置場を破って逃げ出して、今はここにいないんです。だからうっかりしていると、トラ十なんか、ここにはいやしないぞといいたくなる。しかしそういっては、トラ十の逃げ出したことがばれる。私は前へとび出していくと、受付の巡査に代って『よろしい、ここへおいてゆけ』といったのです。そしてすしをもちこんだ当人の住所姓名をたずねると、トラ十の従弟で、この先のこれこれの工場に働いている者ですといって、すらすらと答えたんです。そこで私は、すしをうけとって『よろしい』というと、その男は帰っていきました」
「なるほど」
検事はうなずいた。
「さあ、そこですしの始末ですが、これには困りました。なにしろ、トラ十はここにはいないのですからねえ。もったいないが、われわれが代りに食べるというわけにもいかない。すしは、机の上においたなりになっていました。がそのうちに、思いがけない事件がもちあがったのです」
「ほう、猫の一件だな」
「そうなんです。私たちが、うっかりしている間に、警察署の小使が飼っている玉ちゃんという猫が、昨今腹が減っていると見え、いつの間にか机の上のすしを見つけ、紙包の横を食い破ると、中のすしを盗んで食っているのです。『ああ猫がすしを食べている!』と、誰かがいったときには、もう二つ三つは、玉ちゃんの腹の中に入っていたのでしょうが、皆がさわぎだして、玉ちゃんのところへ飛んでいったのですが、そのときどうしたわけか、猫は逃げもせず、そこにうずくまっているのです。そしてだらだらよだれをたらしている。『変だな』と思ったときには、猫は、とつぜん大きなしゃっくりをはじめ、それからさわぎのうちに、冷たくなって死んでしまったのです。すしの中には、毒が入っていたのですなあ」
「うむ、そうらしい。毒物は検定にまわしたろうね」
「もちろん、すぐまわしました」
とこれは署長がこたえた。
小使さんの猫玉ちゃんが、トラ十へさし入れのすしを盗み食いをして毒死した、という事件が、ここの署員たちをたいへん驚かせ、そして、田所検事へ急報せられたというわけであった。すしを持って来た男は、もちろん玉ちゃんを殺すつもりではなく、留置所につながれているトラ十を毒殺するつもりであったらしい。いったい何者であろうか、トラ十を殺そうとたくらんだ者は? そしてまた、なにゆえにトラ十の死が、望まれているのであろうか。ミマツ曲馬団の爆破事件以来、大活動をしている田所検事の最大の興味は、実にその点にあったのである。
裏をかく棺桶
田所検事を中心に、会議はつづけられる。
「帆村荘六から、何か連絡はなかったかね」
検事が思い出したようにそれをいった。
「ああ、帆村君の連絡ですか。このところ、さっぱり何もいってこないのですがね」
と署長はいって、部下の顔を見まわし、
「おい、誰か、帆村君の消息を知っている者はおらんか」
だが、誰も、これに答える者はなかった。一体帆村荘六はどこで何をしているのであろうか。房枝をすっかり怒らせてしまい、彼のところから房枝が逃げてしまった後、彼はどこかへ姿をかくしてしまった。
「今日は、帆村君の気にしていた花の慰問隊の大会日ですから、もうそろそろどこからか、帆村君が現われなければならぬ筈ですがねえ」
「昨夜、ここで起った毒ずし事件のことを、帆村荘六に早く知らせてやりたいものだが、連絡がないのじゃ、どうにもしようがないね。ええと、時刻は今、午前八時か」
田所検事は、時計を見ながら、しきりに帆村の出現を気にしている。
「田所さん。すると毒ずしの件の方は、大急ぎで手を入れてみますか、それとも、もうすこし形勢をみることにしますか」
署長は、たずねた。
「そのことだよ」と、田所検事は、改まった顔で一同を見まわし、
「毒ずし事件は、よほど考えてやらないと、せっかくの大魚をにがすことになる。そこで、さっきから考えていたわけだが、ここで一つ、大芝居をうとうと思うんだが」
「大芝居?」
検事が大芝居などといいだしたので、一座はおどろいて目をぱちくり。
「大芝居というほどのものでもないが、さっそく棺桶を一つ、署内へ持ってこさせるのだ」
「はあ、棺桶を。棺桶をどうするのですか」
署長は、検事が何をいいだすことやらと思い、たずねかえした。
「その棺桶には、人間と同じくらいの重さのものを入れ、そのうえで、蓋には釘をうち、封印をしてトラ十の泊っていた、あの安宿へ持っていくのだ」
「ははあ」
「つまり、トラ十は署内で死んだから、屍体を下げ渡す。だから知合の者が集まり、通夜回向をして、手篤く葬ってやれとむりにでも、宿の主人に押しつけてしまうんだ」
「なるほど。毒ずしをトラ十が食べて死んでしまったという事実の証明をやるわけですね」
「そのとおりだ。すると、犯人の方じゃ、うまくいったと安心をし、そして、油断をするだろう。それから後のことは、いうまでもあるまい」
「なるほど、なるほど。それは名案の芝居ですなあ。しかし、その棺桶をそのまま焼場へ持っていかれては、芝居だということが分かってしまいますねえ。なにしろ、棺の中には、トラ十の身代りに、沢庵石か何かを入れておくわけですから、火葬炉の中でいくら油をかけて焼いてみたところが石は焼けませんからね。あとで、うそだということがばれてしまいます」
「なあに、問題は、今夜だけしずかにお通夜をさせればいいのさ。明日になれば、トラ十の死因について、すこし疑わしいことがあるから、改めて警察署へ引取るからとか、何とかそのへんはよろしくやればいいじゃないか」
「わかりました。それなら、きっとうまくいきます。じゃあ、早速芝居にかかりましょう」
田所検事の計略によって、ありもしないトラ十の屍体が棺の中に収められて、警察署の裏口から運び出された。そして例の安宿へ届けられたのであった。
宿の方では大さわぎとなった。しかし警察署からの話でもあるし、持ちこまれた棺を押しかえすこともならず、とうとう筋書どおりに通夜回向をすることとなり、近所の長屋のおかみさんや老人などが、ぼつぼつ花や線香をもって集まってきた。
すっかり、筋書どおりにうまくいった。
このてんまつは、警察署の前で張番をしていたあやしい自動車修繕工の目にも分かりすぎるほど映り、すっかり彼を有頂天にしてしまった。彼は棺のあとに見えがくれについて、例の安宿へ送りこまれるところまでたしかめた。そのうえで再び署の前へとってかえし、その実、別に故障もしていない古自動車の運転台にとびのると、いそいでエンジンをかけ、走りだした。それはもちろん、このてんまつを報告するためであった。覆面の犯人たちは、まんまと一杯、田所検事の計略に、ひっかかってしまったわけだった。
かたみの手箱