竜潭譚

2話 竜潭譚(2)

6,738字 約13分 2000年8月30日 公開

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 眼のふち清々(すがすが)しく、涼しき(かおり)つよく薫ると心着(こころづ)く、身は(やわら)かき蒲団(ふとん)の上に臥したり。やや枕をもたげて見る、竹縁(ちくえん)障子(しようじ)あけ(はな)して、庭つづきに向ひなる山懐(やまふところ)に、緑の草の、ぬれ色青く生茂(おいしげ)りつ。その半腹(はんぷく)にかかりある厳角(いわかど)(こけ)のなめらかなるに、一挺(いつちよう)はだか(ろう)()ともしたる灯影(ほかげ)すずしく、(かけい)の水むくむくと()きて(たま)ちるあたりに(たらい)を据ゑて、うつくしく(かみ)()うたる(ひと)の、身に一糸もかけで、むかうざまにひたりてゐたり。

 (かけい)の水はそのたらひに落ちて、(あふ)れにあふれて、地の(くぼ)みに流るる音しつ。

 (ろう)()は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす(はだえ)白かりき。

 わが寝返(ねがえ)る音に、ふとこなたを見返り、それと(うなず)(さま)にて、片手をふちにかけつつ片足を立てて(たらい)のそとにいだせる時、()と音して、(からす)よりは小さき鳥の真白(ましろ)きがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の(はぎ)のあたりをかすめつ。そのままおそれげもなう翼を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま莞爾(につこ)とあでやかに笑うてたちぬ。手早く(きぬ)もてその胸をば(おお)へり。鳥はおどろきてはたはたと飛去(とびさ)りぬ。

 夜の色は極めてくらし、(ろう)を取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭下駄(にわげた)重く引く音しつ。ゆるやかに(えん)の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩向(ねじむ)きざま、わがかほをば見つ。

「気分は(なお)つたかい、坊や。」

 といひて(こうべ)を傾けぬ。ちかまさりせる(おもて)けだかく、眉あざやかに、(ひとみ)すずしく、鼻やや高く、唇の(くれない)なる、(ひたい)つき頬のあたり《ろう》たけたり。こは(かね)てわがよしと思ひ(つめ)たる(ひな)のおもかげによく似たれば(とうと)き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知人(しりびと)にはあらざれど、はじめて逢ひし(かた)とは思はず、さりや、(たれ)にかあるらむとつくづくみまもりぬ。

 またほほゑみたまひて、

「お前あれは斑猫(はんみよう)といつて大変な毒虫なの。もう()いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは姉様(ねえさん)が見違へるのも無理はないのだもの。」

 われもさあらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふままに(うなず)きつ。あたりのめづらしければ起きむとする夜着(よぎ)の肩、ながく(やわら)かにおさへたまへり。

「ぢつとしておいで、あんばいがわるいのだから、落着(おちつ)いて、ね、気をしづめるのだよ、()いかい。」

 われはさからはで、ただ()をもて答へぬ。

「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと道芝(みちしば)を踏む音して、つづれをまとうたる老夫(おやじ)の、顔の色いと赤きが(えん)(ちこ)(はい)り来つ。

「はい、これはお()さまがござらつせえたの、可愛(かわい)いお児じや、お前様も(うれ)しかろ。ははは、どりや、またいつものを頂きましよか。」

 腰をななめにうつむきて、ひつたりとかの(かけい)に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつづけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を(あお)ぎぬ。

「やれやれ甘いことかな。はい、参ります。」

 と(くびす)を返すを、こなたより呼びたまひぬ。

「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この()を返さねばならぬから。」

「あいあい。」

 と答へて去る。山風(やまかぜ)(さつ)とおろして、()の白き鳥また()ちおりつ。黒き(たらい)のふちに乗りて()づくろひして静まりぬ。

「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて(しずか)に雨戸をひきたまひき。

     (ここの)(こだま)

 やがて添臥(そいぶし)したまひし、さきに水を浴びたまひし(ゆえ)にや、わが(はだ)をりをり慄然(りつぜん)たりしが何の心もなうひしと取縋(とりすが)りまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語(ふた)()ツ聞かせ(たま)ひつ。やがて、

(ひと)(こだま)、坊や、(ふた)(こだま)といへるかい。」

「二ツ谺。」

()(こだま)()(こだま)といつて御覧。」

「四ツ谺。」

(いつ)(こだま)。そのあとは。」

()(こだま)。」

「さうさう(なな)(こだま)。」

()(こだま)。」

(ここの)(こだま)――ここはね、(ここの)(こだま)といふ(ところ)なの。さあもうおとなにして寝るんです。」

 背に手をかけ引寄(ひきよ)せて、(たま)の如きその乳房(ちぶさ)をふくませたまひぬ。(あらわ)に白き(えり)、肩のあたり(びん)のおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かかるさまは、わが姉上とは(いた)く違へり。(ちち)をのまむといふを姉上は許したまはず。

 ふところをかいさぐれば常に(しか)りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた三年(みとせ)()つ。()の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。垂玉(すいぎよく)乳房(ちぶさ)ただ淡雪(あわゆき)の如く含むと舌にきえて触るるものなく、すずしき(つば)のみぞあふれいでたる。

 軽く(せな)をさすられて、われ(うつつ)になる時、()(むね)、天井の上と(おぼ)し、(すさ)まじき音してしばらくは鳴りも()まず。ここにつむじ風吹くと(はしら)動く恐しさに、わななき(とり)つくを()きしめつつ、

「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍(かんにん)しておくれよ、いけません。」

 とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。

(こわ)くはないよ。(ねずみ)だもの。」

 とある、さりげなきも、われはなほその(ひびき)のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。

 うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある蒔絵(まきえ)ものの手箱のなかより、一口(ひとふり)守刀(まもりがたな)取出(とりだ)しつつ(さや)ながら(ひき)そばめ、雄々(おお)しき声にて、

「何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき(さま)よと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈(ありあけ)暗く床柱(とこばしら)の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の(いろ)()めて、(こう)(かおり)残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく(とじ)たまひたる()睫毛(まつげ)かぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし(みまも)りしが、(さび)しさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと(うち)まもりぬ。ふとその鼻頭(はなさき)をねらひて手をふれしに(くう)(ひね)りて、うつくしき人は(ひな)の如く顔の(すじ)ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近々(ちかぢか)とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、()の下に(おもて)をふせて、強く(ひたい)もて()したるに、顔にはただあたたかき(かすみ)のまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、薄葉(うすよう)一重(ひとえ)(ささ)ふるなく着けたる(ひたい)はつと下に落ち沈むを、心着(こころづ)けば、うつくしき人の胸は、もとの如く(かたわら)にあをむきゐて、わが鼻は、いたづらにおのが(はだ)にぬくまりたる、(やわらか)蒲団(ふとん)(うも)れて、をかし。

     渡船(わたしぶね)

 夢幻(ゆめまぼろし)ともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし元のまま(やわら)かに力なげに蒲団(ふとん)のうへに垂れたまへり。

 片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる五指(ごし)をひらきて黄金(おうごん)目貫(めぬき)キラキラとうつくしき(さや)(ぬり)の輝きたる小さき守刀(まもりがたな)をしかと持つともなく()のあたりに落して()ゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる()のほほ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも(たが)はぬに、胸に(つるぎ)をさへのせたまひたれば、()き母上のその時のさまに(まが)ふべくも見えずなむ、コハこの(きみ)もみまかりしよとおもふいまはしさに、はや取除(とりの)けなむと、胸なるその守刀(まもりがたな)に手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光(まなこ)()たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐(ちしお)さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の(こぶし)もてしかとおさへたれど、(とど)まらで、たふたふと音するばかりぞ淋漓(りんり)としてながれつたへる、血汐(ちしお)のくれなゐ(きぬ)をそめつ。うつくしき人は(せき)として石像の如く(しずか)なる鳩尾(みずおち)のしたよりしてやがて半身をひたし(つく)しぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、(ともしび)にすかす指のなかの(くれない)なるは、人の血の()みたる色にはあらず、(いぶか)しく()(こころ)むる(たなそこ)のその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその(はだ)にまとひたまひし(くれない)の色なりける。いまはわれにもあらで声高(こわだか)に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、(かい)なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと(おぼ)し。顔あたたかに胸をおさるる心地(ここち)に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。

 われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫(おじ)(せな)に負はれて、とある山路(やまじ)()くなりけり。うしろよりは()のうつくしき人したがひ来ましぬ。

 さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと(おし)はかるのみ、わが胸の(うち)はすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの()しきも、ことのいぶかしきも、取出(とりい)でていはむは(やく)なし。教ふべきことならむには、彼方(かなた)より先んじてうちいでこそしたまふべけれ。

 家に帰るべきわが(うん)ならば、強ひて(とど)まらむと()ひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と大人(おとな)しう、ものもいはでぞ()く。

 断崖の左右に(そび)えて、点滴(てんてき)(こえ)する(ところ)ありき。雑草(ざつそう)高き(こみち)ありき。松柏(まつかしわ)のなかを()(ところ)もありき。きき知らぬ鳥うたへり。褐色なる(けもの)ありて、をりをり(くさむら)(おど)り入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年(こぞ)落葉(おちば)道を(うず)みて、人多く(かよ)ふ所としも見えざりき。

 をぢは一挺(いつちよう)(おの)を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、(いばら)など()ひしげりて、(きぬ)(そで)をさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路のなやみなく、高き塗下駄(ぬりげた)の見えがくれに長き(すそ)さばきながら来たまひつ。

 かくて大沼(おおぬま)の岸に臨みたり。水は漫々として(らん)(たた)へ、まばゆき日のかげも此処(ここ)の森にはささで、水面をわたる風寒く、颯々(さつさつ)として声あり。をぢはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を(いだ)きたまふ、(きぬ)(そで)左右より長くわが肩にかかりぬ。

 蘆間(あしま)小舟(おぶね)(ともづな)を解きて、老夫(おじ)はわれをかかへて乗せたり。一緒(いつしよ)ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに(さお)を立てぬ。船は()でつ。わツと泣きて立上(たちあが)りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後(うしろ)にゐたまへりとおもふ人の(おおい)なる()にまはりて前途(ゆくて)なる(みぎわ)にゐたまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手(ゆんで)なる(みぎわ)に見えき。見る見る右手(めて)なる(みぎわ)にまはりて、やがて(もと)のうしろに立ちたまひつ。()の形したる(おおい)なる沼は、(みぎわ)(あし)と、松の木と、建札(たてふだ)と、その(かたわら)なるうつくしき人ともろともに(ゆる)()を描いて廻転し、はじめは(おもむ)ろにまはりしが、あとあと急になり、(はや)くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき(ところ)に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の(さき)にうつくしき顔の《ろう》たけたるが莞爾(につこ)とあでやかに()みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は(しげ)(たけ)よりも高き(みぎわ)に、船はとんとつきあたりぬ。

     ふるさと

 をぢはわれを(たす)けて船より()だしつ。またその(せな)を向けたり。

「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの(うち)ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板塀(いたべい)のあたりに来て、日のややくれかかる時、老夫(おじ)はわれを(いだ)(おろ)して、溝のふちに立たせ、ほくほく(うち)ゑみつゝ、慇懃(いんぎん)会釈(えしやく)したり。

「おとなにしさつしやりませ。はい。」

 といひずてに何地(いずち)ゆくらむ。別れはそれにも()しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す(かた)もあらでありくともなく()をうつすに、(かしら)ふらふらと足の(おも)たくて行悩(ゆきなや)む、前に()くも、後ろに帰るも皆見知越(みしりごし)のものなれど、(たれ)も取りあはむとはせで()きつ(きた)りつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつつ()くが、(ひやや)かに(あざけ)るが如く(にく)さげなるぞ腹立(はらだた)しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず向直(むきなお)りて、とぼとぼとまた山ある(かた)にあるき(いだ)しぬ。

 けたたましき跫音(あしおと)して鷲掴(わしづかみ)(えり)(つか)むものあり。あなやと振返(ふりかえ)ればわが(いえ)後見(うしろみ)せる奈四郎(なしろう)といへる(ちから)(たく)ましき叔父の、(すさ)まじき気色(けしき)して、

「つままれめ、何処(どこ)をほツつく。」と(わめ)きざま、引立(ひつた)てたり。また庭に引出(ひきいだ)して水をやあびせられむかと、泣叫(なきさけ)びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、

「しつかりしろ。やい。」

 とめくるめくばかり背を()ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。立騒(たちさわ)(めし)つかひどもを(しか)りつも細引(ほそびき)を持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き一室(ひとま)引立(ひつた)てゆきてそのまま柱に(いまし)めたり。近く寄れ、(くい)さきなむと思ふのみ、歯がみして(にら)まへたる、()の色こそ(あや)しくなりたれ、(さか)つりたる(まなじり)()きもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。

 おもての(かた)さざめきて、何処(いずく)にか()きをれる姉上帰りましつと(おぼ)し、(ふすま)いくつかぱたぱたと音してハヤここに来たまひつ。叔父は(しつ)の外にさへぎり迎へて、

「ま、やつと取返(とりかえ)したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つてゐて、すきがあると駈け出すぢや。(エテ)どのがそれしよびくでの。」

 と(いまし)めたり。いふことよくわが心を得たるよ、しかり、(ひま)だにあらむにはいかでかここにとどまるべき。

「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと取着(とりつ)きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん(なさけ)()にこもりて(いだ)かれたるわが胸(しぼ)らるるやうなりき。

 姉上の膝に()したるあひだに、医師(きた)りてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに彼方(あなた)に去りぬ。

「ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉様(ねえさん)はどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」

 といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙痕(るいこん)したたるばかりなり。

 その心の安んずるやう、()ひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。

「おお、薄気味(うすきみ)が悪いねえ。」

 と(かたわら)にありたる奈四郎(なしろう)の妻なる人(つぶや)きて身ぶるひしき。

 やがてまた人々われを取巻(とりま)きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて(うたがい)を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根問(ねど)ひ、葉問(はど)ひするに一々(いちいち)説明(ときあ)かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。

 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること(みな)人の(うたがい)を増すをいかにせむ。ひしと取籠(とりこ)めて庭にも(いだ)さで日を過しぬ。血色わるくなりて()せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後見(うしろみ)の叔父夫婦にはいとせめて(かく)しつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門辺(かどべ)にありたる多くの()ども我が姿を見ると、一斉(いつせい)に、アレさらはれものの、気狂(きちがい)の、狐つきを見よやといふいふ、砂利(じやり)小砂利(こじやり)をつかみて投げつくるは不断(ふだん)親しかりし朋達(ともだち)なり。

 姉上は(そで)もてわれを(かば)ひながら顔を赤うして()げ入りたまひつ。人目なき(ところ)にわれを引据(ひきす)ゑつと見るまに取つて()せて、打ちたまひぬ。

 悲しくなりて泣出(なきだ)せしに、あわただしく(せな)をばさすりて、

堪忍(かんにん)しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」

 といひかけて、

(わたし)あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説(かきくど)きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を(たしか)に、心を(しず)めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を(あや)ぶむやうそのたびになりまさりて、(はて)はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。

 たとへば(あや)しき糸の十重二十重(とえはたえ)にわが身をまとふ心地(ここち)しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく(おもい)あり。それをば刈払(かりはら)ひ、遁出(のがれい)でむとするにその(すべ)なく、すること、なすこと、人見て必ず、(まゆ)(ひそ)め、(あざけ)り、笑ひ、(いやし)め、(ののし)り、はた(かなし)(うれ)ひなどするにぞ、気あがり、(こころ)(げき)し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。

 口惜(くちお)しく腹立たしきまま身の周囲(まわり)はことごとく(かたき)ぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥籠(とりかご)も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには(ひと)たびわれを見てその弟を忘れしことあり。(ちり)一つとしてわが眼に入るは、すべてものの()したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて(げん)じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復(かいふく)を祈る(ことば)もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、(ひと)たびおもひては()ふべからず、力あらば(ほしいまま)にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛(けと)ばしやらむ、(かき)むしらむ、(すき)あらばとびいでて、(ここの)(こだま)とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの(もと)()げ去らむと、胸の()きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。

     千呪陀羅尼(せんじゆだらに)

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