可愛い山

22話 山へ 九(2)

2,227字 約4分 2016年3月17日 公開

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 この男の子は大阪郊外の牧落という所で生れた。これを書いた翌年、私は東京に勤任になり、仙台の高等学校でちょっとやったスキーを、再び、今度は本式に、やり始めた。一度東京で大雪が降り、玄関から門までスキーを走らせたことがある。この時は子供が三人になっていて、上の二人は家の中で物差しや鰯の味醂干にのって畳の上を歩き、まだ歩けない赤ん坊は、女中さんにおぶさったまま、「アーバカバカ」と興奮して連呼した。それがこの本にカットを描いた貞二である。貞二は結婚しているが、上の二人ももちろん結婚し、女の子には子供が二人いる。今後まさか子供たちを、ライフ・ラインにしようとは思わないが、とにかく皆大きくなり、「妻」はいまだに小学校の先生になる資格を欠いていても、私が死んでも子供たちが何とかするだろう。存外こんなことが原因して、私の感傷癖は、どこかへ行って了ったのかも知れない。

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 忘れない内に書いておきたいのは、カバーのことである。お分りだろうと思うが、これは梅鉢草であって、その花は純高山植物ではない。割合低い場所に群って咲く。亜高山植物とでもいうべきだろう。それにしても、この本に出て来る松虫草でも、いわば私の山――中山、低山――の花であって、氷雪や岩の山には縁が遠い。エーデルワイスなどは、おこがましくてとても出せない本だから、梅鉢草にした。

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 日本アルプス登山は、この本の中の一つの文章でも書いた通り、満洲事変の年の秋のが最後になった。その後秋が深い頃、大町へ行って山麓を歩き、晩方慎太郎さんと一杯やっていると、又しても東京から電話で、ロンドン支局長として二週間以内に出発すべし、という新聞社の命令を伝えて来た。

 一番最後に登った山は富士山である。京大の人たちがデマヴェンドへ行く計画を立て、いろいろな実験をやるので、私もついて行った。御殿場から二つ塚まで行き、そこをベイス・キャンプにして、十日間近く、呑気な生活をした。四月で、往きには馬返しから雪があったが、復りには雪はなく、その代り木々の芽が一時に出て、実にきれいだった。

 いよいよ戦争が始まると、比島へ派遣され、負け戦となるとルソン島を、北へ北へと逃げた。山岳州という山ばかりのプロヴィンスを、昼間は飛行機がこわいので夜歩いたが、やはり昔山を歩いていたせいか、存外つかれず、それよりも自分で飯をたいたり、竹やぶの中でねたりすることが、楽しくはなかったがちっとも苦にならなかった。これは昔風の登山、つまり匐松の枝を結び、その上にゴザと油紙をかけて寝たり、川の水をくんで自分で食事を準備したりした経験が、口を利いたのだろうと思う。「これは乞食の生活だ」という人もいたが、私はちっとも乞食になったような気がしなかった。

 それから、いよいよバギオを出て、これから放浪の旅が始まるという時、私は自分でシュラーフ・ザックを縫った。顔だけの蚊帳もつくった。それかあらぬか、あとで新聞通信報道関係の人、三十数名と一緒にジャングルの中にかくれた時にも、私だけはデングにもマラリアにもかからなかった。若い時の山登りが、こんなことの役に立ったわけである。

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 さて戦争が済んで捕虜になって送還され、一年近く単身、横須賀の山の中で自炊生活をした。子供の時登って驚いた山――といっても低いものだが――を歩いたりしている内に、大町からしきりに来ないか、といって来たが、何しろあの交通事情だし、その後も忙しくて東京を離れることが出来ずにいる内に、慎太郎さんが死んだ。丁度大阪へ出張する用事があったので、中央線廻りとし、夜行で新宿を立つと、朝の松本は曇天。それが大糸南線で大町へ近づくと、突然空がはれて、三月はじめの雪を頂く爺と鹿島槍が、全貌を現した。これこそ私が「鹿島槍の月」で書いて、その後何度も行った山なのである。然るにその日の午後、いよいよ埋葬となると、大変な雪になって、山は勿論かくれた上に、「友人二人、案内や人夫五人合計七人」でやった山の旅の、案内者の筆頭が、何と墓掘人夫――専門の――になって、水っぱなをすすり上げているので、実に情ない気がした。

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 去年の秋、私は松本へ講演に行った。入山辺の霞山荘からは、槍その他がよく見えるが、逆光線ではっきりせず、反対側の袴腰とか、王ヶ鼻とかいう山をスケッチした。本当によく晴れた午後で、あしたは早く起きて……とたのしみにしていたのに、そのあしたの朝は大変な雨だった。その雨の中を松本に出て、講演の始まる前に軽く昼飯といわれて寄った家が、松本第一の蕎麦屋ということだったが、何とこれが昔は大町にあったのである。

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 ところで山と私とは、将来如何なる関係を持つことになるだろう。慎太郎さんのいない大町が、従って北安曇の山々と山麓が、魅力をなくして了ったことは事実である。やたらに忙しくて、日曜も祭日も仕事をしていることも事実である。さりとて人間の能力には限度があり、今みたいに働いてばかりいては早晩へたばることだろう。するとやはりレクリエーションの意味で、ひまをつくってどこかへ出かけることになるだろうが、それもせいぜい日帰りの、まずは梅鉢草や松虫草の山だろう。

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 そんな予告はどうでもいい。私はこの本を読んで下さった方に感謝し、失望なさらなかったであろことを心から希望する。

昭和二十九年六月

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