可愛い山

21話 山へ 九(1)

9,798字 約20分 2016年3月17日 公開

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 山に近くいて感じる本当の幸福。バヴァリアとビヤ。数年前の私自身を思い出す。五月、私はたった一人でパルテンキルヘンを訪れた。朝十時頃着いて宿屋に荷を下すなり、窓の真向いに聳えるツーグスピッツェからドライ・トア・スピッツェ迄の山容に、私は狂喜して写真をやたらにうつした。午後は足ならしに、重い靴をはいて四里の路を歩いた。晩には色の濃い、味の濃い麦酒を何本かあけた。このベルリン出来の靴のおかげで右足の腱を痛め、ツーグスピッツェにはとうとう登れなかったが、それは後の話で、要するに最初の一夜を熟睡したその翌朝である、私は山腹の牧場へ行く羊のベルで目を覚ました。

 何百か何千か分らぬ程の鈴の音がする。カラン、カランと朗らかなテナアに交って、チリン、チリンと甲高い、然し澄んだソプラノが聞える。時々犬が狂喜したように吠えて、性急にカラカラチリチリと乱れる他、ある一定のリズムを持って際限なく聞えて来る。しばらくは夢心地であったが、やがて明け放した窓から冷たい朝風に送られて、桜の花の香が忍び込んでいるのに気がつく。そこで目を開くと、身体を起す迄もない、ツーグスピッツェが聳え立つ。私は生きていることを感謝した。

 当時の旅行記に、私はこう書いた。否抵抗的な、完全な、素晴らしい幸福でなくて、これが何だろう。(「山・都会・スキー」)

 ダグラス・フレッシフィールドの『雪線の下にて』―― Below the Snow Line: Douglas W. Freshfield ――名前は前から聞いていたが、実物は今日初めて手に入れた。別の用で丸善へ行ったらあったのである。コンステブル発行で、コンステブル式に高価だが、それでも私の貧弱な「山の図書」が一冊増したと思えばうれしい。

 うれしいといえば、この本の序文には、うれしいことが書いてある。前半を訳して見る。

 ――生涯を通じて私は山については、私のより厳格な教義と実行とを持つ登攀の友人達が「人の顧みぬ詰らぬことを拾い上げる」と称する者であった。私は雪線の上で登攀したり、エッチラオッチラ歩いたりしたのと同じぐらい屡々、雪線の下をぶらぶらした。私は体操術の範囲を含まぬ容易な登山に興味を見出した。私は時としてアイスアックスの代りにアンブレラを持って山へ行ったことさえあるのを自白する。一言でいえば私は登攀者であると同程度に旅人だったのである。

 ところで、人はしょっ中最高の伴侶ばかりと一緒にいる訳には行かぬ。岩と雪とだけしか無いことが、単調に思われる時もある。人はヒマラヤやロッキースへ、ちょいちょい手軽に出かけることは出来ぬ。又、いつになったら霜の気に満ちたコーカサスの山々に再遊することが出来るであろうか。我々の親しきアルプスでも、如何な季節に於ても登るという訳には行かぬ。我々がヤンガー・ジェネレーションの為に、アルプスの冬季の魅力と富源とを発見して教えたことは事実だが、復活祭の休暇に於けるアルプスは僅かなアトラクションと多くの危険とを持っている。より低い場所は雪のマンテルを失って、而もまだ緑色ではなく、褐色の芝土の背地の上に、よごれた白色の筋と綴布とを見せるだけである。より高い雪の間では雪崩が重々しく落ち、そこ迄行く人は突然な、そして不面目な埋葬(a sudden and inglotious entombment)の危険を冒して行くのである。この季節にアルプスとピレネーとの両方を試みた私は、経験無しで以上を語るのではない。――

『雪線の下にて』は一九二二年出版の本である。今さら新刊紹介ということも出来ないし、翻訳することは時間が許さぬ。つまり、ここに訳出した序文の上半部が説明しているような態度で書かれた本で、「日本の僻路」なる一章もあり、我々にも興味は深い。

 この序文に「アイスアックスの代りにアムブレラを持って山へ行った」とある一事は私に二つの事実を思わせる。その一つはジェームス・ブライス卿がアムブレラを持ってアララットへ登ったこと――もっとも途中でアイスアックスに代えた――で、これはもう既に詳しく書いたから、ここでは書かぬ。その二は、百瀬孝男君と私とが番傘を持って槍ヶ岳へ行ったことである。

 孝男君は慎太郎さんの弟で、山を歩くことにかけては、昔の慎太郎さんに髣髴たるものがある。といったところで、昔の慎太郎さんも今の孝男君も知らぬ人には見当もつくまいが、簡単にいえば実によく歩き、よく頑張り、そして夜になると木の根草の根石の上、何でもかまわず癪にさわる程よく睡る人なのである。去年の夏、ある用事を帯びて、二人で上高地から槍の肩まで行ったことがある。実はもっと遠く迄行ったのだが、それは書く必要がない。ところが上高地を出かける朝、どうも天気模様が面白くない。今にも降って来そうに思われた。そこで、靴もはき、ルックサックも背負って了って、さて五千尺の玄関で丸山さんに、

「丸山さん、番傘を一本かして下さいませんか」と申し出た。

 丸山さんは二人が清水屋へでも行くものと思ったらしい。用があるなら使いをやりますといわれた。いいえ、山へ持って行くのです、というと、いささか呆れたらしいが、それでも大きな番傘を一本かして下さった。

 孝男さんと私とはその二、三日前、島々から徳本(とくごう)峠を越して上高地まで五時間あまりでかけつけた元気を以て――これはウソみたいな話だが本当である。二人ともかなり重いルックサックを背負っていた――雨傘を振り振り五千尺を出発した。牧場をぬけ、一ノ俣で弁当を喰い、さて槍沢の小舎を過ぎると沛然たる大雨である。有名なる私の「晴天防水」――雨が降ると役に立たなくなるレインコート――なんぞは何にもならぬ。二人は早速傘をひろげ、アイスアックスを結びつけ急造の屋根をつくった。アックスを地面に立て、石をひっくりかえして乾いた方を出し、それに坐って雨にけむる四方の景色を眺めながら扱ったパイプの味は、いまだに忘れられぬ。

 この雨は、やがて小降りになったが、晩まで続いた。二人は相々傘で雪のまるで無い槍沢を登った。片袖濡れたる筈が無いとか何とか、鼻歌で槍を登るのは、すこ敬虔を欠いたやり方だったかも知れぬが、濡れずに済んで大助かりだった。大槍の小舎なんぞで入口をがらりと明け、今日は! とすぼめた傘の滴を切る気持は、ちょっと面白かった。

 殺生小舎(せっしゃうごや)の下は急である。二人はいつか離れて了った。私は杖にすがって登ったが、孝男君は相変らず傘をさし、医科大学へ通学する靴をはいて、いやな石ころの上を「長いまつ毛がホオーッソリと」と、いやにセンチメンタルな歌を歌いながら元気で歩いて行った。

 我々が番傘をさして槍ヶ岳へ行ったことを以て山を冒涜するものと做す登山家――「より厳格な教義と実行を持つ人々」――もあるかも知れぬ。実は孝男君と私も、そんな気がしないでもなかった。気持の問題ばかりではなく、密林中や尾根は、とても傘なんぞさして歩けはしない。だが、上高地から槍沢を通って槍へ行く途中には、ウソみたいに良い路が多く、かつその日は風が余り強くなかったので、こんな真似も出来たのである。とにかくユニークな経験ではあった。

 ここに述べる迄もないが手近に聖書があるから書きぬいて見よう――

 亦(わだ)の源と天の戸閉塞(とぢふさが)りて天よりの雨(やみ)ぬ。(ここ)に於て水次第に地より退き百五十日を経てのち水減り、方舟(はこぶね)は七月に至り其月の十七日にアララテの山に止りぬ。

 ――すなわち「人の悪の地に(おおい)なると其心の思念(おもい)(すべ)図維(はか)る所の恒に惟悪(これあ)しきのみなるを見たまへ」るエホバが、地上の生物すべてを洪水で亡そうとしたが、ノアの家族だけは方舟にのせて救った話。その方舟がアララテの山、アララット山の山巓にひっかかったというのだから、私はつい近頃まで、アララットなる山は上野の山か愛宕(あたご)山――どちらも東京の――くらいな岡だとばかり思っていた。ところが、ふとしたことで小アジアの地図を見ると、中々どうして、アララットは富士山なんぞよりずっと高い。欧州第一の高嶺、モン・ブランよりも高い。大変な山である。これに興味を感じて、あれやこれや、本をひっくり返して集めた知識を、ささやかながらここに書いて見ようと思う。ノアの洪水の話、方舟がアララットに坐礁した話を知っている人は世に多いが、そのアララットの正確な所在地や高さを知っている人は余り多くはあるまいと思うから。

 アララットはアルメニヤとトルコとペルシャとの三国が合する地点に聳えている。どんな風に聳えているか、私は見たことがないから困るが、何でもあの辺は一帯プラトーで、その最高地点が、アララットの大塊(マシーフ)になっているらしい。この大塊は大体に於て孤立しているのだが、北西に当って六千九百呎ばかりの col があり、それが火山性の山々の長い尾根につながっているのだそうである。

 この col という語は、よく山の話に出て来る。峠を意味するフランス語だが、鞍部(あんぶ)とでもいった方が判りが早いであろう。つまり二つの高い峰をつなぐ尾根の最低部を指すのである。

 ところで、このマシーフから峯が二つ立ち上っている、その高い方が大アララットで、高さ一万七千呎*――「大きな、肩幅の広い塊で、円錐(コーン)と呼ぶよりも寧ろ円屋根(ドーム)と言いたい」と記述されている。低い方、即ち小アララットは一万二干八百四十呎、これは前者に比較すると形もよく、険しい面を持つ峰であるという。

 アララットの雪線は極めて高く、一万四千呎。降雨量がすくないのと、麓なるアラレックスの平原から乾燥した空気が吹き上げるからである。

 山それ自体の説明はこの位にしておいて、アララットに関する伝説と登山の歴史とを簡単に紹介しよう。

 アララットの伝説は、ノアの方舟に関するもの以外に何もない。然るに、幸か不幸か、私は基督教信者では無く、殊に聖書の歴史に関しては全然無知であるから、変てこな本を拾い読みしては間違ったことを書く恐れがある。むしろ別所梅之助先生の「運命以外の一路」の一節を拝借した方がよいらしい。別所先生はこの著述中「背景としての山」なるチャプタアに於て、次のように言われている――

 スメリアの文明は、ユーフラテス、チグリス両河の流域に起れるもの乍ら、神々の怒りに洪水来りて、全地の人溺れ死せるをり、「人種の保存せる者」といふ英雄の、一家と共に難を船に避けて、遂に山に住んだといふ伝へがある。このつたへがバビロニヤのギルガメシの詩の中に収められて「生を見いでたる者」といふ英雄が、人皆の大水に土と化せるをり、御座船やうの大船をニシルといふ山につないで、生を得たとなり、それが更に旧約書中に入つては、方舟をアララットの山によせたノアの物語となつてをる。

 如何にもそうであろう。大洪水がどんなに大規模であろうと、一万七干尺の山をかくす程の水が出たとは思われぬ。だが、それにしても、黒海とカスピアン・シイとのほぼ中間に、アラクセスの平原を北に、メソポタミヤの平原を南にしてよこたわるこの一大プラトー中、最も高く、最も荘厳な山を仰ぐ人々が、ここから我等人類の祖先が下って来たと思ったのは、無理のない話である。伝説はアララットの附近に、大洪水に関係のある多くの場所を持ち来した。エデンの園はアラクセスの谷に、ノアの妻の墳墓はマーランドに、という風にされている。またアーフユリにはノアが最初に植えた葡萄の木なるものがあった。これは一八四〇年に地震があり、山の上から落ちて来た岩と氷と雪とが、アーフユリの村も、そこにあったセント・ジェームスの僧院も、また葡萄畑も押しつぶして了うまでは、見ることが出来たという。創世記の第九章には「爰にノア農夫となりて葡萄(ばたけ)(つく)ることを始めしが、葡萄酒を飲て酔ひ天幕の中にありて裸になれり」ということが記してある。素裸になって眠って了い、忰のハムに醜体を見られるのである。やがて「ノア酒さめて其若き子の已に為したる事を知れり。是に於て彼言ひけるはカナン(のろ)はれよ、彼は(しもべ)等の僕となりて其兄弟に(つか)へん」と言っている。ハムはカナンの父であるが、ハムの父ノアは、自分が酔っぱらって醜体を演じながら、「カナン詛はれよ」もないもんだと言うような気がする。

 それはどうでもいいとして、とにかくアララットはこんな山であるから、アルメニアの僧侶達は長い間、この山の「秘密の頂」には神聖な遺物があり、人間は登ってはならぬものと、信じていた。山の上に何か神聖な、恐るべき物があって、登ってはならぬという迷信は、大分方方にあったらしい。マッタアホーンの如きもそうである。麓の住人たちは、マッタアホーンの頂上には荒廃した都会があり、悪魔が住んでいるものと思っていた。地質構造上、この山は時時大きな岩片を落すが、それは悪魔の仕業だと信じていた。

 最初にアララットの頂を極めたのはパロット教授の率いた一隊である。彼は一七九二年に生れて一八四〇年に死んだドイツ人で、当時ロシヤの政府に雇われていた。このパロットが一八二九年の九月二十七日「永遠の氷が形づくる円屋根(ドーム)」に立ったのである。第一夜を山腹の僧院で送って、翌朝、山の東面を登り、一万二千尺の地点まで行った時、険しい氷の斜面に出喰わして引返した。それで今度は北西の方からとっついて見た。第一日に雪線まで達し、翌朝は一同、昼までには山嶺に達するつもりで、大元気で出かけたが、又しても急な傾斜面にぶつかって、立往生して了った。この時は一万四千四百十呎の点まで達したと言われる。

 パロットは第三回の登山を計画した。今度は人員も増し、道具類も前より多く準備した。それ迄の経験によって、氷雪の斜面は斧でステップを切って登り、それに天気もよかったので、絶頂を極めることが出来た。この時パロットが観察したところによって、アララットは火山であったこと、恐らくアジア大陸で一番古い山であること、ノアの遺物は何も無いこと等が判った。

 これが一八二九年の話で、引き続き一八三四、四三、四五、五〇、五六、六八、七六、という年に登山が行われた。場所がらロシヤ人が一番多く登っているが、中にも一八五〇年にコーディケ、カニコヴ、モリッツ等が、ロシヤにつかえるコザックの一隊を引率して登山したことと、一八七六年に有名なジェームス・ブライスが、たった一人でブラブラ登山したことは、色色な点で人の注意を引いている。前者は非常な困難をしながらも――あと九百歩で絶頂という所で三日二晩を天幕で送ったりした――ついに大きな十字架と重い測量機械等を山嶺まで運び上げた。コーディケは彼の報告書の最後に「アララット登山がこれほど困難であることから考えると、どうもノアの方舟がこの山の絶頂に流れついたという説は本当らしくない。何故かというに、かかる急な、険しい雪の斜面を下るということは獣類の多数にとっては致命的であったに違いないからである」と書いている。御承知の通り、ノアは彼の妻、子、子の妻と共に方舟に入ったばかりでなく、鳥獣昆虫その他すべての「生物、総て肉なる者を」一(つがい)ずつ連れ込んだ。そしていよいよ洪水がひくと、これらのすべてを率いて方舟から出、そして山を下ったことになっている。

 これらの登山家が遭遇した困難に対して、ブライス卿――有名な歴史家、外交官なるジェームス・ブライスに関しては何も書く必要があるまい――のアララット登山は、あっけ無い程、呑気なものである。先ず武装したロシヤ兵士六人、案内者二人、通弁一人と、都合九人を引きつれて麓を歩いて行くと、恐ろしく暑い。そこで洋傘をさした。一万七千呎の山に登ろうという人が、洋傘をさすというのだから面白い。その日は八千八百呎ばかりのところで野営。翌日は何でも早く出発するに限るというので、夜中に起きて一時には登り始めた。傾斜はかなり急だったが別に大したこともなく、間もなく一万三千呎の点まで来た時、困ったことが起った。それは兵隊や案内や通弁共が、それぞれ異なる人種に属するのでお互に意思の疎通を欠き、仲間喧嘩を始めたのである。

 この地方における人種、従って言語が複雑していることについては、ハロルド・レーバン氏も『マウンテンクラフト』――一九二〇年出版――に書いている。バベルの塔はこの附近にあったそうだが、今でもバクの市ではすくなくとも百種の異なる言語と方言とが使用されていると。

 ブライス卿は、手のつけようが無いから、黙って仲間喧嘩を見ていたが、その中にどうやら話がまとまったらしいと思うと、もうこれよりは一足も上に登らないということである。そこで彼は「そんなら俺一人で行く」とばかり、アイスアックスを提げてスタスタ登り出した。外套も持たねば毛布もかつがず、あたり前のトゥイードの服を着た丈であったという。この調子で、寒くなれば上衣にボタンをかけ、霧の中を磁石を頼りに登って行くと、やがて岩の斜面に出た。恐ろしく寒い上に、霧がひどくて見当がつかぬ。迷いでもしたらそれっ切りだから、とにかくこれから一時間登って見て、どこ迄行くか判らぬがどこからでも引き返そうと思っていると、突然岩が無くなって平坦な雪田に出た。そこで、帰途に迷わぬよう、アイスアックスを引きずって、雪に跡をつけながら進んで行く内に、どうやら下り加減になった。こいつは変だな、と思っていると、この時パッと霧が晴れた。見るとアララット山の絶頂に立っていたという。

 ブライス卿はこの旅行に関して Transcaucasia and Ararat なる著述をしている。雪線近く大きな丸太を見つけ、これこそノアの方舟の破片だろうと笑ったことなど、有名な話である。

 最後にこの山、普通にアララットと呼ばれるがこれはもちろん聖書から来た名で、アルメニア、トルコ、ペルシャにそれぞれ異なる名を持っている。中にもトルコの Fgri Dagh は「苦しみ多き山」を意味し、ペルシャの Koh-i-Nuh は「ノアの山」を意味するという。「ノアの山」! いつか一度は登って見たい山である。

* 前に書いたコリンスは一万七千二百六十呎という数字を出しているが大英百科辞典によると一万七千呎。エンサイクロペディア・アメリカナも同様一万七千呎。ニュー・インターナショナル・エンサイクロペディアは「一万六千九百十二呎。但し別の測量によれば一万七千二百十二呎と書いている。更にマイエルのレキシコンによれば、大アララットが五一六五米で、小アララットが四〇三〇米。ラルースだと大が五二一一米で小が三九六〇米となっている。

アルプスの思い出

―― ON HIGH HILLS: Geoffrey W. Young

 これはサブタイトルの「アルプスの思い出」でもわかる通り、著者ヤング氏の思い出の記である。高い丘というと低い山々のことみたいだが、出て来るのはモン・ブランといいワイスホーンといい、いずれもアルプス第一流の高山である。それをわざわざ「高い丘」といったのは著者の謙遜であろうか。それとも静かな炉辺でパイプをくわえながら思い出にふける時には、一万五千フィートを越える山々も高い丘のように思われるであろうか。如何に困難な嶮峻な山でも、一度その気まぐれな情緒を呑み込んでしまうと、高い丘として思い出に浮ぶものである。恐らくヤング氏――英国が生んだ偉大なる登山家の一人、また文筆の才にかけては比類すくない人――は、謙譲の念からばかりでなく、この親しみやすい表題を選んだものであろう。

 この本は、単なる記録の連続ではない。自然の最も崇高なる産物「山」に登り、或はそのふところに抱かれる「人」が、山の容貌なり情調なりの変化に如何に反応(リアクト)するかを書いた本である。ヤング氏は「自分はこれを書く時、山及び山に登る理由に興味を持つ人々を念頭に置いた」といっているが、「我々が山に登る理由」を知りたい人にとっては登山路の説明や岩登りのテクニックは、それが如何に詳細を極めていようとて何にもならぬ。この点で我々はこの本が限られた登山家だけに読まれず、ひろく一般に、いわゆる「よき本」として愛読せらるべきだと信ずる。

「登山の一日を通じて経験の線はただ一本だが、それは我々が行いつつあること、我々が見つつあるもの、我々が感じつつあるもの、この三つのストランド(線)が撚り合って出来たものである。」序文に、このようなことが書いてある。この三つを同時に書き現すことは出来ないが、然しいずれも欠いてはならぬ。これでこの著に対するヤング氏の態度は不充分ながら了解出来ようと思う。「三つのストランドが撚り合って」……を読む人は、英国人が世界に誇る岩登り用のロープが、事実三本のストランドをより合わせてつくったものであることを思い出し、心地よく微笑する。

 本文三百六十余頁、巻頭の「丘と男の子」から巻末の「最後のアルプス登山」に至るまでの十六の異なった章を含む。挿絵は二十四枚、口絵は「暁」と呼び、アルプスの雲海の写真、最後のは「日暮の雲」と呼び、暮れかかるマッターホーンのピークに吹きつける雲の写真、その他いずれも山を知る者にはなつかしい思い出の急激な苦痛を、山を知らぬ者には憧憬の念を起させるほど美しいものである。

 この本で特に私が好きなのは、ヤング氏が描き出した山の案内者達の身体と心との肖像である。例えば「ヒョロヒョロして思いがけぬ所に妙な角度が見える身体つき」をしていながら「ひとたび岩に触れ氷を踏む」となると、「こんな調子の悪さがすべてなだらかな力のカーヴに変る」オーバーランドの山案内クレメンツ・ルッペン。それからヨセフ・クヌーベル――誰でもかれを好きにならざるを得ない――その他の簡単な、しかも要所をつかんだ写生。「我々が山に登る理由」の一つに、かかる案内者兼好伴侶があることを誰が否定しよう。

「我等に先立ちたる、我等と共にある、我等の後に来るべき、すべての登山者に」この本はデディケートしてある。が、その最後の条件にある登山家に向っても、ヤング氏は「我々がこうしたようにせよ」とも「我々がこうしたことをするな」ともいっていない。かれはただ Go ahead and do something というのである。それだけで充分である。

        *

 ここに集めた随筆の一つでも書いたように、私は大正のはじめの頃いわゆる日本アルプスへ行き、それから夢中になって山を歩いたが、間もなく米国へ行ったため、しばらく山から遠ざかった。然し帰国してからは、又しばしば山――といっても、山麓もこめて――を訪れた。大町の百瀬慎太郎君との友情が、私をひきつけたようなものである。同君の話は、何度もこの本に現れる。

        *

 さてエヴェレスト、アンナプルナ等の高山が次々に征服され、わが国からもヒマラヤに登山隊が出ている今日、私の登山というのはまことに他愛がなく、頼りなく、いわば滑稽千万である。それにどういう訳か、私の山に対する態度は、いわば厚顔無恥にセンティメンタルである。「山のアクシデント」などといっているが、アンナプルナのフランス隊や、K2の国際登山隊が遭遇したアクシデントを考えると、それこそ「バッカじゃなかろうか」である。今は山についてばかりでなく、一般について、こんなにセンティメンタルではなくなった。敗けた戦争や、その戦争末期の比島のジャングルの中での生存――生活とはいえない――が、私をタフにしたのだろうか。それとも大正の終りから昭衵のはじめにかけての、いわゆる「善き古き日々」が、われわれ日本人を全体に甘い人間にしたのだろうか。

        *

「ふと私は足がかりも、手がかりもない人生の岩壁に、私という弱い、細い、いつどこでスナップするか判らぬザイルを、ライフ・ラインとしてぶら下っている三つの命を思い浮べた。ほうり出されたら小学校の先生になる資格さえも持たぬ妻、朝も晩も、目をさましている間は、私が家にいる間は、私にまとわりついて離れぬ三つになる女の子、半月前、旅に出る頃から、ようやく腹ンばいになって、両手の力で顔をあげるようになった男の子――」

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