可愛い山

3話 平の二夜 平の半日(1)

8,927字 約18分 2016年3月17日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 向う岸からこっち側まで、二時間ばかりもかかったので、かなりつかれた。あてがわれた二階の部屋に通って窓から見ると、すぐ目の前に大毎(だいまい)の小舎が、白い雪に対して殊に黒く、きたなく立っている。私は何故か dilapidated という英語を思い出した。さっき崖を登る時、上から墜ちて来た岩で膝を打った北沢が、メンソレータムを貰いに入って来る。

「打ち傷にはこの方がいいだろう。」と沃度を持って、宮本さんが入って来られた。今朝の和服の人で、日本電力の出張員である。この山の中に住んで、黒部川の水量、速度、温度等を測定しておられるのである。

「どうです。もうお昼に近いしするから、今から温泉まではちょっと無理でしょう。今日は遊んでいらっしゃい。岩魚(いわな)でも釣ったら半日ぐらいはすぐ立ちましょう。」

 私どもは大いによろこんで了った。実はこちらから、今日一日遊ばせて下さいと言いたい所だったのである。第一小舎が気に入った。第二に平で遊ぶということが、またと得られぬ快いことのような気がしていた。

 小舎――それも富山から十二哩汽車に乗り千垣で下車してから芦峅まで二十町。この芦峅から一里半で藤橋(ふじはし)に出る。藤橋には人家が五、六軒もあろうか。あとは常願寺川に添うて登ること三里半、ここが立山温泉。ザラ峠を登って下りて、又急な刈安峠を上下する都合四里。富山から平地としても十五里半の山の中にある小舎は、果してどんなものであるか、想像もつかぬ人が多いであろう。私はノートを出して、この小舎の部屋の配置をうつしとった。実は、自分もこんな小舎を、山の中に一軒持ちたいと思ったからである。「南北三間、東西五間。二階建、下は土間で、南側が炊事場。他は薪炭糧食置場。西北隅にある階段は二階に通ず。外側の同じ位置にも階段があり、これはバルコンに達している。板敷き、畳敷き、押入を中心に、西は大きな押入と人夫室兼用食堂。東は事務所と寝室とになる。二階の天井に戸がついているのは、二階の窓まで雪に埋った時の出入口。屋根及び東西面羽目(二階天井より高く)出入口あり。」――私の手帳には二階のプランの横に、こう書いてある。

 昼飯を済ましてから慎太郎さんと二人で、すぐ向うにある大毎の小舎を見に行った。この小舎は雪の中に建っている。南の方の入口から入る。ひどくなっているが、人が来ればすぐ綺麗になるであろう。二階――と言ってもアティックだが――に酒の空瓶がゴロゴロしているには驚いた。

 日電の小舎に帰ると宮本さんが「今夜、岩魚を御馳走したいが、あいにく昨日の残りが二匹しかいません。重君を案内に釣って来られたらどうです」と言われる。岩魚釣とは面白い、品右衛門の話も思い出す。さァ出かけようと我々三人、重吉のあとをついて行く。もっとも釣竿は四人に対して二本である。

 しばらくは若芽の美しい林の中を、雪を踏んで歩く。林がつきて岩になる。岩の下は黒部の水。……あの水の美しさは、只見た人のみがこれを知る……三人から、はるかに後れて、岩をいくつもいくつも越したり、一坪か二坪ばかりの白い砂地に靴のあとをつけたりして行くうちに、ふと、大きな、丸い岩にはらんばいになって、しきりに下の水をのぞいている北沢の姿を発見した。「つれたかい」というと、左手を後に廻して、むやみに振りながら「静かに! 静かに!」と小声でいう。足音を忍ばせて、私も岩に登る。はらんばいになってのぞくと、下は水が物凄いたまりをなして、くるくる渦をまいている。

「あすこにいるだ。」

 北沢は岩魚に聞かれると困ると思ったのであろう。むやみに小さな声を出す。まなこを凝らして見ていると、大きな渦が一つ、するすると本流の方へ流れ出して、その後が油のようにトロリとする瞬間、キラリと蒼黒い魚が二匹、底に近く姿を現わす。北沢は急いで竿を動かし、蚊針を魚のいる方へ近づける。又、渦が来て、スイスイと針を押し出す。

「駄目じゃないか。」

「ああ。岩魚を釣るなあむつかしい。」

「君は今迄に釣ったことがあるのかい。」

「無いだ。」

「そんなとこへ針を下して釣れるのかい。」

「これでいいずら。石川さん釣って見るかね。」

「かして見な。」

 今度は私が針を下したが、中々喰いつかぬ。近くまで来たと思うと、ひょいと逃げる。針が流されて了う。

 考えて見るとどうも蚊針なるものを深淵に沈めて魚をつるとは変である。元来が蚊の形をしている針だから、水面をヒョイヒョイやっている内に、これを蚊と間違えて魚が飛びつくのではあるまいか。私は立ち上って岩を下り、流れに近く立った。ザブザブと白い水沫を飛ばしている瀬にフワリと針を投げる。面白いようにピョンピョン跳るが、魚は一向飛びつかぬ。

 同じ釣れないのなら、魚の顔が見えた方がまだ面白い。私はもとの岩に帰った。二、三度岩魚をだましにかかったが、やはり駄目なので、釣は断念し、岩の上に長々と寝そべって煙草を吸った。目の上の唐檜(とうひ)に、恐ろしく長いサルオガセがぶら下っている。ブランブランと風にゆれる。河の音がする。私はねむくなって来た。

 突然頭の上で、

「オーイ!」と声がした。ねころがったままで「オーイ」と呶鳴ると「なんだそこにいたんですか」と慎太郎さんが姿を現わす。「どこへ行っちまったのかと思った」という。まったくこの黒部川は断崖絶壁が多いので、ちょっとした岩の鼻の向うにいる人でも見えぬことがよくある。我々は二、三間はなれた所で休んでいたのであるが、お互にどこへ行っちまったのかと思っていた。

 流れに添ってすこし下ると、長い吊り橋がある。重吉と北沢とは各々、釣竿を持って、ドンドン橋を渡って行く。向う岸(右岸)の路は、大分高い崖の中腹についている。私どもは写真をうつしたり、話をしたりしながら、あとからついて行った。

 丸い石のゴロゴロした河原に坐って、小さな石を河の中にほうり込んでいると、世間を忘れて了う、何が何でもいいような気がする。まことに呑気である。汗水を流して雪渓を登っているより余程いい。刈安峠なんぞを越えないで、三日も四日もここで遊んでいたいと思う。「こうやっているといい気持ちですね。」「よござんすね。」なんて言っている内に、針ノ木岳の方に当って黒い雲が出て来た。見る見る空にひろがる。ポツン! と勢のいい奴が手の甲にあたる。河の水が黒くなる。こいつはいけない! と言いはしたものの、急ぐでもなし、また急いだ所で岩や崖の路や吊り橋や雪では、すべって転ぶくらいなものである。悠々として帰路につく。上衣、シャツ、ズボン、みな濡れる。濡れても小舎には火があるから平気だ。小舎の近くの雪の林では、雪から盛に湯気を出していた。あれは湯気とは言わぬかも知れないが……

 小舎に着いた時は、いくらか雨も小降りになっていた。早速二階に上り、はだかになって衣類を乾かす。寒くて仕方がないから毛布を身体にまきつける。

「お風呂が沸いたからお入りなさい」と言われて、洋服に下駄、頭からレインコートをかぶって戸外に出る。磧に近く据えた(かく)風呂、雨が降るので白樺の枝を切り、天幕をかけて急造の屋根が出来ている。そこ迄行きはしたものの、さて上衣やシャツやズボン下を置く場所がない。もう一度小舎に戻って、猿股一つになり、雨の中を走って風呂場に行く。猿股を、なるべく雨のかからぬような、枝にひっかける。蓋を外ずして手をつっこむと熱い。恐ろしく熱い。そこで今度はスッ裸で、馬尻(ばけつ)を持って河まで水を汲みに行く。雨は中々つめたい。つめたいわけである。すぐ横にはまだ雪が残っているのだから……

 首まで湯につかって、いい気持になっていると、雨がこぶりになって、雲が上り始めた。黒部の下流の方から、山が一つずつ現われる。もう夕闇がせまっているので、すべての色は黒と白とである。濃淡の墨絵である。信じられぬ程、日本画そのままである。

「日本画によくこんな景色がある――」私は加減のいい湯で、身体中の筋肉が一つ一つやわらかくなるのを感じながら考えた。――「たいていの人は絵空事だと思う。そして、こまかい写生や複雑な色彩を土台とした西洋画の方が自然に忠実だと思う。だが山の中にはかくの如き景色がある。何百年か前に、すでに深山幽谷を歩き廻ってスケッチしていた日本画家がいたのであろう。」――どうでもいいようなことを考えていると、北沢が、

「風呂加減はどうだね?」と、雨の中を聞きに来てくれた。

 やがてランプがついて、男ばかり五人、飯の卓に向う。岩魚は重吉が二匹、北沢が二匹、都合四匹その日釣り上げたのと、前日のが二匹残っていたのとで六匹。串にさして火にかざすと何とも言えぬ香がする。

 食卓の向う側では重吉が、大きな鍋からモヤモヤと湯気の立つ物を皿に盛りわけている。熊の肉である。岩魚と熊の肉と、いずれも私にとっては初物だから、百五十日生きのびる勘定になる。

 さて岩魚は、何と言ってよいか判らぬ程うまかった。鮎よりも、もうちっと油があって肉が多い。何、山の中で食ったのだから……という人があるかも知れぬが、同じ山の中で食ったのにしても、熊の肉だけは珍味ながら一片か二片で閉口して了った。

 もっとも岩魚は釣ったばかりである。熊は冬とった奴の塩漬である。かるが故に比較は出来ぬであろう。

 この熊は大きなものであったに相違ない。二階に敷いてある皮は、長さが六尺以上ある。雌で、子供を二匹連れていた。その二匹は宮本さんが犬のようにして飼っているが、翌朝までは出すことが出来なかった。運動時間がきまっているのである。

 食事が済むとすることがない。下の釜から山のように火を持って来て炉に入れ、ゴロゴロとねそべって話をする。狸の話に始まって怪談に終った。

 狸の話には我々三人、顔を見合せて笑った。即ち前晩八時近く、宮本さんと重吉とが一日の仕事を終えて一と休みと炉をかこんでいた時、中ノ谷の方向に当って「オーイ!」と呼ぶ声が聞えた。これは変だ、今頃立山から人が来るには、いささか遅いし、それに越中の衆が「オーイ」と呼ぶ訳がない。きっと誰か案内者を連れぬ登山者が、路に迷ってウロウロしているに相違ない。見に行こうと小舎を出て、呶鳴っても返事がない。バルコニイにランプを置いて、この火を見たらどうにかこうにか歩いて来るだろうと、いつ迄待っても誰もやって来ない。

 オーイ! とやったのはもちろん我々である。これが黒部の対岸(むこう)から聞えずに、反対側の中ノ谷の方から聞えたのは、山の反響であろう。越中の人夫がオーイと言わぬのならば、宮本さん達も反響ということに気がついて、黒部川の方に注意しそうなものと思われるが、宮本さんにして見れば、今ごろ信州からぬけて来る奴がいるとは知る由もない。今年になってから二組平を訪れたが、いずれも富山から来ている。

 我々は我々で北沢が呶鳴っても燈が見えないので(ランプは小舎の向う側に置かれた)、ハテ、日電の人はいないのかな、とも思い、そこで東信の小舎まで引き返した次第であるが、宮本さんと重吉とは気味が悪くなって来た。こんな山の中で人のいる筈がないのに、妙な所から妙な声がして、それっきりである。ふと重吉が「ありや狸だ。狸に違いない!」と言い出した。そこで何時になく戸締をして寝たという話。

 スイスの山地やティロールのある場所にはヨードル(Yodel)なる歌のうたいようがある。はじめは普通に歌っているのだが、突然調子が高くなる。音響学上から見たらどうか知らぬが、我々が聞くとオクターブを二つ三つ飛び上ったような具合である。もちろんあたり前の男に、そんな高い声が出る筈がない。裏声とでもいうのか、すこぶる細く、そしてよく「通る」声である。崖にひびき、岩にぶつかり、遠くの方まで聞えて行く。

 越中の山男は「オーイ!」とは言わぬ。「ヨーホホホオーイ!」と言ったような、妙な声を出す。この「ヨー」が普通の声で「ホ」以下がヨードルになる。

 スイスのヨードルも、いずれ越中の「ヨーホホホイ」みたいな呼び声から発達したのであろう。山が深いと、どうしても遠くに響く呼び声を考え出す。洋の東西にかかわらず、周囲の況態が似ていると、人間は同じようなことをやる。人間ばかりではない。植物でも、日本アルプス一万尺の高峯に咲く花が、千島やカムチャッカでは海岸に咲いているという。

 怪談をしている内に十時になった。久しぶりに、あたたかい布団に、軽い毛布をかけて安眠した。あらゆる意味において平の二夜が、まことに面白かったことを慎太郎さんと話し合っている内に、いつか眠って了った。

 岩と土とから成る非情の山に、憎いとか可愛いとかいう人間の情をかけるのは、いささか変であるが、私は可愛くてならぬ山を一つもっている。もう十数年間、可愛い、可愛いと思っているのだから、男女の間ならばとっくに心中しているか、夫婦になっているかであろう。いつも登りたいと思いながら、まだその機会を得ぬ。今年の秋あたりには、或は行くことが出来るかも知れぬ。もっとも山には、登って見て初めて好きになるのと、麓から見た方がいいのとある。私が可愛いと思っている山も、登って見たら存外いやになるかも知れぬ。登って見て、詰らなかったら、下りて来て麓から見ればよい。

 この山、その名を雨飾山(あまかざりやま)といい、だが、私としてはこの山が妙に好きなので、而もその好きになりようが、英語で言えば Love at first sight であり、日本語で言えば一目ぼれなのである。

 たしか高等学校から大学へうつる途中の夏休であったと思う。あたり前ならば大学生になれた悦しさに角帽をかぶって歩いてもいい時であるが、私は何んだか世の中が面白くなくって困った。あの年頃の青年に有勝ちの、妙な神経衰弱的厭世観に捕われていたのであろう。その前の年までは盛に山を歩いていたのだが、この夏休には、とても山に登る元気がない。それでもとにかく大町まで出かけた。気持が進んだら、鹿島槍にでも行って見る気であった。

 大町では何をしていたか、はっきり覚えていない。大方、ゴロゴロしていたのであろう。木崎湖(きざきこ)あたりへ遊びに行ったような気もするが、たしかではない。

 ある日――もう八月もなかばを過ぎていたと覚えている――慎太郎さんと東京のM呉服店のMさんと私とは、どこをどうしたものか、小林区署のお役人と四人で白馬(しろうま)を登っていた。如何にも妙な話だが、そこまでの時の経過を忘れて了ったのである。Mさんは最初の登山というので元気がよかった。お役人は中老で、おまけに職を帯びて登山するのだから、大して元気がよくもなかった。慎太郎さんと私とは、もうそれまでに白馬に登っていたからばかりでなく、何だか悄気(しょげ)ていた。少くとも私は悄気ていた。慎太郎さんはお嫁さんを貰ったばかりだから、家に帰りたかったのかも知れぬ。

 一行四人に人夫や案内を加えて、何人になったか、とにかく四谷から入って、ボコボコと歩いた。そして白馬尻(しろうまじり)で雪渓の水を徒渉する時、私のすぐ前にいた役人が、足をすべらしてスポンと水に落ちた。流れが急なので、岩の下は深い。ガブッ! と水を飲んだであろう。クルクルと廻って流れて行く。私は夢中になってこっちの岸の岩を三つ四つ、横っ飛びに、下流の方へ走った。手をのばして、流れて行く人の手だか足だかをつかまえた。

 さすがは山に住む人だけあって、渓流に落ちたことを苦笑はしていたが、その為に引きかえすこともなく、この善人らしい老人は、直ちにまた徒渉して、白馬尻の小舎に着いた。ここで焚火をして、濡れた衣類を乾かす。私はシャツを貸した。

 一夜をここで明かして、翌日は朝から大変な雨であった。とても出られない。一日中、傾斜した岩の下で、小さくなっていた。雨が屋根裏――即ちこの岩――を伝って、ポタポタ落ちて来る。気持が悪くて仕方がない。色々と考えたあげく、蝋燭で岩に線を引いて見た。伝って来た雫が、ここまで来て蝋にぶつかり、その線に添うて横にそれるだろうとの案であった。しばらくはこれも成功したが、間もなく役に立たなくなる。我々は窮屈な思いをしながら、一日中むだ話をして暮した。

 次の朝は綺麗に霽れた。雨に洗われた山の空気は、まことに清浄それ自身であった。Mさんはよろこんで、早速草鞋をはいた。然し一日の雨ごもりで、すっかり気を腐らした私には、もう山に登る気が起らない。もちろん大町へ帰っても、東京へ帰っても仕方がないのだが、同様に、山に登っても仕方がないような気がする。

 それに糧食も、一日分の籠城で、少し予定に狂いが来ている筈である。私は帰ると言い出した。慎太郎さんもすぐ賛成した。何でも、同じ白馬に十四度登っても仕方がないというような、大町を立つ前から判り切っていた理窟を申し述べたことを覚えている。かくて我々二人は一行に別れて下山の途についたのである。

 私は、いささか恥しかった。というより、自分自身が腹立たしかった。前年、友人二人と約十日にわたる大登山をやり、大町に帰るなりまた慎太郎さんと林蔵と三人で(じい)から鹿島槍に出かけたのに比して、たった一年間に、何という弱りようをしたものだろうと思ったからである。だが、朝の山路はいい。殊に雨に洗われた闊葉樹林の路を下るのはいい。二人はいつの間にか元気になって、ストンストンと速足で歩いた。

 この下山の途中である。ふと北の方を眺めた私は、桔梗色に澄んだ空に、ポッカリ浮ぶ優しい山に心を引かれた。何といういい山だろう。何という可愛らしい山だろう! 雨飾(あまかざり)山という名は、その時慎太郎さんに教わった。慎太郎さんもあの山は大好きだといった。

 この、未完成の白馬登山を最後として、私は長いこと山に登らなかった。間もなく私の外国生活が始まったからである。一度日本に帰った時には、今つとめている社に入ったばかりなので、夏休をとる訳にも行かなかった。翌年の二月には、再び太平洋を渡っていた。

 だが雨飾山ばかりは、不思議に印象に残っていた。時々夢にも見た。秋の花を咲かせている高原に立って、遥か遠くを見ると、そこに美しい山が、ポカリと浮いている。空も桔梗色で、山も桔梗色である。空には横に永い雲がたなびいている。

 まったく雨飾山は、ポカリと浮いたような山である。物凄いところもなければ、偉大なところもない。怪奇なところなぞはいささかもない。只優しく、桔梗色に、可愛らしい山である。

 大正十二年の二月に帰って来て、その年の四月から、また私は日本の山と交渉を持つようになった。十三年には久しぶりで、大沢の水を飲み、針ノ木の雪を踏んだ。十四年の夏から秋へかけては、むやみに仕事が重なって大阪を離れることが出来なかった。だが、翌年はとうとう山に登った。

 六月のはじめ、慎太郎さんと木崎湖へ遊びに行った。ビールを飲んで昼寝をして、さて帰ろうか、まだ帰っても早いし、という時、私はここまで来た(ついで)に、せめて神城(かみしろ)村の方まで行って見ようと思いついた。一つには新聞社の用もあったのである。北アルプスの各登山口について、今年の山における新設備を聞く必要があった。そこで自動車をやとって出かけることにした。

 木崎湖を離れてしばらく行くと、小さな坂がある。登り切ると、ヒョイと中綱湖(なかづなこ)が顔を出す。続いてスコットランドの湖水を思わせるような青木湖、その岸を走っている時、向うにつき出した半島の、黒く繁った上に、ポカリと浮んだ小さな山。「ああ、雨飾山が見える!」と慎太郎さんが叫んだ。「見える、見える!」と私も叫んだ。

 左手はるかに白馬の山々が、恐ろしいほどの雪をかぶっている。だが私どもは、雪も何も持たぬ、小さな、如何にも雲か霞が凝って出来上ったような、雨飾山ばかりを見ていた。

 青木湖を離れると佐野坂(さのざか)、左は白樺の林、右手は急に傾斜して小さな盆地をなしている。佐野坂は農具川(のうぐがわ)姫川(ひめがわ)との分水嶺である。この盆地に湛える水は、即ち日本海に流れ入るのであるが、とうてい流れているものとは見えぬぐらい静かである。

 再び言う。雨飾山は可愛い山である。実際登ったら、あるいは藪がひどいか、水が無いかして、仕方のない山かも知れぬ。だが私は、一度登って見たいと思っている。信越の空が桔梗色に澄み渡る秋の日に、登って見たいと思っている。若し、案に相違していやな山だったら、下りて来る迄の話である。山には登って面白い山と、見て美しい山とがあるのだから……

 初めて岩を抱き、夏の雪を踏んでから、もう十数年になるが、私の山を思う心は、その時も今もまったく同じである。

 この十数年間に、私は二度海外の旅をした。私は学校を出て所謂社会の人となった。私は結婚をして二人の親となった。私は色々な経験をし、その経験は私の趣味や思想や人生に対する態度を非常に変化させた。一言でいえば、私はこの十数年間に「変った」のである。人間として進化か退化かは知らぬが、とにかく変ったのである。だが、たった一つ変らぬもの――それは即ち私の山を思う心である。

 十数年前、明けて行く三等車の窓から、寝不足な眼を見張って、遠く朝日に輝く山の雪に高鳴りをした私の心は、今や寝台車の毛布をはねのけ深緑色のブラインドを引き上げて、同様に高鳴る。十数年前、二高の北に面した窓から泉ヶ岳を眺めてボンヤリした私の心は、今や輪転機が轟々として鳴り響く新聞社の窓から、ふと僅かな青空を仰ぎ、その空の下にあるものが、新聞社や商館や乗合自動車ばかりではないことを感じて、ボンヤリするのである。

 花の香漂う宴遊のむしろならぬ四畳半、訳の判らぬ癇癪と我儘に若い(おんな)たちが脅えたような顔を白く並べる時、金屏をもれる如月(きさらぎ)の宵の寒い風が頸に当って、突然脳裡を横切る黄金色の雲の一片と、その下にそそり立つ真紅のピーク。夕陽にやけているのである。打てば火花を散らす色である。私は一種のさむけが全身に通過するのを覚える。身をねじると役げ入れの彼岸桜が……。私は救われるのである。

「信濃の国は 夏の王国

落葉松(からまつ)の 林を行けば

ふりそそぐ 緑の雨」

目次に戻る

目次