2話 平の二夜 第二日
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目をさますと、向う側にねていた北沢がいない。ランプの光に、目覚時計だけが光っている。眼鏡をかけて見ると五時ちょっと前。囲炉裏のとろ火には味噌汁とお茶とがかけてある。
まだ早いから、もう一度ねようかと思ったが、目が覚めて了うと小舎の中の煙っぽくて埃っぽい空気がたまらなくなる。お茶を一杯と、横にころがった瀬戸引きの水飲みを取り上げると、中には灰が沢山入っている。ズボンのポケットから、前二日間の汗と水っぱなとでヨレヨレになったハンケチを出し、それで拭って茶を飲む。きたないことが平気になるから山は不思議といわねばならぬ。
慎太郎さんはよく眠っている。この人も私同様、宵っぱりで朝寝坊だから、いかに山でも六時や七時には目をさまさぬ。私が早く起きたのも、実はお腹がいたかったからである。
昼間のままの服装で寝るのだから、起きるにしても手がかからない。上衣をひっかけ、素足に靴をはいて小舎を出る。小舎の前の、幅一尺ぐらいの流れで顔を洗う。口をゆすぐ。……と、誰でもやることを不思議そうにいうのには理由がある。我々は山に入ると、めったに顔を洗わないからである。
ぐずぐずしていると寒くなって来た。いそいで小舎にもぐり込み、白樺の太い枝を炉にくべる。ねころがって、さてすることがない。靴下を外して見ると乾いている。さるおがせのような油煙がついている。それを丁寧に払い落してはく。スウェッタアを着て、また戸外へ出る。
ふと見ると黒部川の向う岸に、人が二人立っている。一人は北沢で、もう一人は羽織を着た人である。二人は話をしながら上の方へ行く。籠渡しの所で立ちどまった。こちら岸の籠渡しまで行くには、大分広い雪を歩かねばならぬ。私は急いで靴の紐を結び直した。小舎の入口の、風呂桶の上においたピッケルを取りに戻った。
私がピッケルを取りに戻っている間に、向う岸の二人は籠渡しの針金に添うて目を走らせた。二人は当然その針金の終りにいる私に気がつく。私は右手を上にあげて挨拶した。和服の人は腰をかがめた。
見ていると北沢が、籠渡しの板に乗った。破損して用をなさぬと聞いていたが、これで見ると役に立つかも知れぬ。私は、「占めたぞ!」と思った。籠渡しが使用出来さえすれば、昨日のようないやな路を通らなくても済む。北沢はブランブランと針金を伝い始めた。長い針金が、重みにつれてさがる。板はスラスラと四、五間河の中央へ近づく。和服の人は何か言いながら、盛に縄を繰り出す。
そのうちに、バッタリ板がとまって了った。どうやらちっとも動かぬらしい。と、向う岸の人が縄を手ぐり込む。北沢は両手を横に振って見せる。右手をあげて、こちら岸の崖を指し、ずうっと下の方へ動かす。籠渡しは駄目だから、崖をへずって下流の吊り橋を渡って来いという信号なのであろう。二、三度腰をかがめたと思うと北沢は狭い河原へ飛び下りた。そしてスタスタと下って行く。和服の人は上の路を、小舎の方へ歩く。
小舎に帰って、まだ眠っている慎太郎さんを起した。籠渡しの一件を話している所へ北沢が帰って来た。彼等山男は、七、八貫の荷を背負って我々と一緒に歩くのであるから、空身だと飛ぶように早い。「飛ぶように」ではなく、実際、石でも岩でも丸木橋でも、ヒョイヒョイと飛んで行くのである。
山としては遅い朝飯を食いながら、北沢が向う岸の人の話をする。「大将みてえな人が一人と」――あの和服を着ていた人か? と聞くと、ウン、あの人だと答えた。――「越中の衆が一人いただ」という。あんまり口を利かない、おとなしい男だろう? と慎太郎さんが聞く。
「ああ、若え男だ。」「そんなら重吉だ。」「あれが重吉かね。」
北沢は四時半に起きて、飯の仕度をしてから小舎を出たのである。前夜引きかえした所まで行くと、前につき出した崖を廻った所に、新しい吊り橋が見えた。路が無いと思った面には果して路が無い。引きかえして、前晩ステップを切った雪渓の横を登り、谷を一つ越して、急な藪をすべり下り、存外容易に吊り橋に出ることが出来た。日電の小舎へ着いたら大将みたいな人が、腹がへったろうと言って、麦飯を喰わしてくれたが……「へえ、うまかったでえ……。えれえいい小舎だな。大きな熊の皮なんぞが敷いてあってな、新聞屋と宿屋のむすことを連れて来たと言ったら、そりゃあ面白い、早く来な、御馳走するぞってた!」
慎太郎さんと私とは、この「新聞屋と宿屋のむすこ」に至って、顔を見合わせて苦笑した。なるほど慎太郎さんは大町の対山館の長男であり、私は新聞やであるが、こんな山の中まで、かかる商売――それも一般からは、あまり柄がよくないように思われている――がつきまとうのであっては、いささかニヤリとせざるを得ない。
小舎の内外を綺麗に片づけて、出かけたのは九時半ごろであった。前日に比較すると、身体が疲れていないだけ、悪い道も楽に歩けたが、それでもいやな場所が多かった。雪解の水が流れている狭い谷を登る時なぞは、袖口や襟から、泥と水とが流れ込んで、気持が悪くて仕方がなかった。ずいぶん危険な所もあった。が最後に、若い木と熊笹とが茂った急斜面を、がむしゃらに辷り降りて、大きな落葉松の林に、まだ誰の足跡もついていない雪田を踏んで立った時には、うれしかった。雪を渡り切ると五、六尺の崖、すぐ下は川であるが、極めて浅い。砂利が出ている所もある。ストンと下りて、先ず一口、黒部川の水を飲む。
二、三間歩いて岩の鼻を廻ると、吊り橋である。ユラユラと左右にゆれながら渡る。三人そろって日本電力の出張所へ入り込んだ。