可愛い山

5話 平の二夜 平の半日(3)

8,911字 約18分 2016年3月17日 公開

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 今から十年あまりも昔のこと。まだトリコニイとかクリンケルとか、ザイルとかラテルネとかいったような、物すさまじい登山用の七つ道具が我が敷島のあきつ島に乱人しないで、山も平和だったその頃、大町から針ノ木を越して立山へ出、剣に登って大黒――大町と、一週間あまりの山の旅をした私が連れて行ったGという男。若くって、軍隊式で、すこぶる気に入ったものだが、果してその後、私が外国をウロウロしている間に一人前の案内者になった。この男が去年の秋、気がちがって死んで了った。気ちがいになった直接の原因がある。それを聞いて、私はいささか暗涙を催した。何でも二、三年前に、あるお客を山へ案内して行った時、ふとした(はずみ)でその人の荷物を川に落したことがあり、それを非常に気にやんでいたが、いよいよ気がちがってからも「俺は山へ行って金の塊を取って来るだで」と、しきりに言っていたという。金の塊でお客に損害賠償をする気でいたものらしい。もともと正直な、小心な男だったから。

 今でもよく覚えているが、あの旅の時、針ノ木を下ると黒部川で、籠渡しがこわれていて徒渉ということになった。だが流れは早し、雪どけの水は冷たくはあるし、一同いささかためらっていると、「よオシ」とか何とか言って、素っぱだかになったこのGが、大きな荷物を肩の上へしょい上げて、奮然、ザブザブやり出した。ものの二、三間も水を渡ったかと思うと振り向いたが「水がつめたいで、きんたまが腹ン中へへいっちまったぞ」と、白い歯を見せて笑いながら、ブルブル震えて見せた。

 いよいよ本式に発狂すると、乱暴をして仕方がないので、座敷牢みたいなものをつくって、中へ入れた。それでも夜具、布団、衣類、そんなものをすべてズタズタに裂いて了う。寒いのに裸でいる。家のものがこまって、「の兄さん」なら言うことを聞くずらと、慎太郎さんのところへ頼みに来た。行って見ると身体中生傷だらけで、何だかしきりにしゃべっている。それでも慎太郎さんの顔が判り、もらったキャラメルを子供のようによろこんで食ったという。で、「お前は今、あんばいが悪いんだから、おとなしくしてねていなくってはいけない」と言って聞かせると、おとなしくねようとするんだが夜具はズタズタだ。それをまるめて、縄のようになって、さて何と思ってか荷づくりをする手つきを盛にやるんだが、それがまるで山でキャンプを引き払って出発する時の恰好にそっくり。そして「もうそろそろ山へ行く時分だ。お客があったら知らしておくんなさいよ。俺どこへでも飛んで行くから」――これはこの辺の方言で聞かねば本当の味が出ない――と、くりかえし、くりかえし頼んだということ。こう書いていても、私には達者だったGの顔が見える。とにかく兵隊から帰ったばかりで、多少は文字も解し、且つは五万分の一の地図が「読める」ので、こいつは大いに有望と思って、東京へ帰るなり、(はやぶさ)町の小林へ買いに行って、この辺の山の地図を送ってやったりしたものだ。

 今さら古めかしいが、人生いろんなことがある。山だけは昔のままだが……。

 一度、偃松(はいまつ)のカウチに横たわったことのある人は、一生その快さを忘れぬであろう。

 雪渓を登ること半日、初めの間こそは真夏の雪の珍らしさに、用もないのにステップを切って見たり、わざわざ四、五間も向うのクレヴァスをのぞきに行ったりするが、やがて傾斜が急になり、ある場所では実際必要があってステップを切ったりするようになると、もう面白味よりも労苦の方が多くなる。襟くびに太陽が痛い。雪眼鏡はくもって来る。僅か一貫五百目のルックサックが、大磐石でも背負っているかのように、肩にこたえる。両手が妙にふくれて見える。咽喉がヒリヒリする。どこかで水の音はするが、目には見えない。雪を口に入れれば、冷くはあるが一時に口が熱して来る。喘ぎ喘ぎ振るアイスアックスに、キラリと雪片が飛んで、眼鏡に当ってすぐとける。その水気を拭ひ取ろうとして出すハンケチは、もう汗でベトベトである。こうなると、口も利かず、峰も仰がず、ただ「自然」と闘う気で、一歩に一息、一息に一歩と登るだけである。いよいよ苦しくなると、俺は何の必要があってこんな莫迦な真似をしているんだろうと思ったりする。涼しい風の吹き通す二階で、籘椅子にねそべって、ウイスキー・グラスにシュッと冷えたサイフォンの音を立てつつある奴が、あっちにもこっちにもいるような気がする。癪にさわる。

 だが、このような二、三時間をすごして、最後に、文字通り胸をつく急斜面を斜めに登り切って、尾根越しの風を真向に感じる時の気持! 雪の平地にカンジキの跡をつけて二、三間行くと土が出ている。アイスアックスは雪につき立てる。両手を後に廻してルックサックをゆすぶり落す。帽子を向うの岩にたたきつけて、さて雪眼鏡を外ずすと、一時に夜が明けたように、前にひろがる雪の峰、岩の巓の大パノラマ。その中のどれが槍であろうが薬師であろうが、今の自分には無関係である。自分には別の用事がある。

 右手のピークから続いている細い尾根、その上にベタッと繁った偃松。私は帽子をひろって、その偃松の方へ歩み寄る。恰好な場所を見つけて、長い身体を枝の上に横たえる。枝はしなって、やわらかく身体を受ける。思わず「フーッ」と息をつく。

 雲片一つだに見えぬ大空、風、岩燕の声、血を新たにするような松脂の香、黄金の花粉、もつれ合って咲いている石楠花(しゃくなげ)の白くつめたい花弁、すぐ向うの黒い岩塊、風に乗って来る渓谷の水音、どこかで岩の崩れ落ちる音、下で湯をわかしているらしい焚火の煙、……これ等のすべてがいつの間にか見えなくなり聞えなくなり、私は帽子を顔にのせたまま、世にも美しいユートピアの眠りに落ちるのである。十数年前の、世間を知らず酒を知らず恋をも知らぬ学生時代から、三十の坂を越してすでに二人の親になっている今日にいたるまで、夏が来ると山を思い、山に行けぬと鬱々として楽しまぬのは、実に山が偃松のカウチというアトラクションを持っているからである。

 ちょっと映画の題――それも五、六年前にでも流行したらしい――を思わせるし、山と花嫁とどんな関係があるのかと不審に思う読者もあろう……と、それをねらった味噌ではなく、この「嘆きの花嫁」は、うそ偽りの更にない Mourning Bride の直訳である。

 自慢にはならぬが、僕は極めて物覚えが悪い。記憶力はゼロである。だから中学時代から、歴史では落第点に近いものばかり取っていた。人の名前など、すぐ忘れて了う。いや、名前は覚え、顔も覚えるのだが、その二つを正確に関連させて覚えていることが困難なのだ。人は胡麻塩の僕の頭を見て、「お年のせいですよ」という。お年のせいならいいが、僕のは昔からそうなんだから救われない。而もこれが人の名前ばかりでなく、動物、植物、鉱物の三王国(キングドム)を通じてのことなのである。

 今日、昭和医専の人たちが来て、白馬に高山診療所を設けて以来五年間の、いろいろな経験を話して行った。今度、立山(たてやま)にも同じような設備をつくりたいという。その話は別問題として、白馬岳の山小舎には一泊十円の部屋があるという。僕はびっくりして了って、僕が白馬に行った時の小舎といえば云々……と、つまり時代に取残された人間が、誰でもいうような事をしゃべったが、さて僕が最後に白馬に行ったのは今から二十年を遥かに越している。そして、僕はいまだに山が好きで、山に登り、時に老人らしく冬山でころんで怪我なぞしているのだが、要するに二十数年、山に登っていながら、山の名を覚えねば、高山植物の名も覚えないというのは、「お年のせい」ではない、それについての「記憶力ゼロ」がたたっているのであろう。

 やたらに話の範囲をひろげて行っても仕方がないから、「嘆きの花嫁」に関係のある高山植物に限定すると、僕は、二十年も山に登っているのだから、自然、無数の高山植物を見、無数の名前を知っている。が、その中で、どこにあっても、明確に実物と名前とを一致させ得るのは、松虫草だけである、それで口の悪い一人の山友達は松虫草を「石川さんの植物学」と呼ぶ。石川さんの植物学の知識はこれにつきるの意味なんだろう。

 ところで、松虫草は高山植物ではない。北海道から本州、四国、九州に至る山野に生ずる……というのだから、何でもない雑草だ。しかし最初に松虫草を意識して見てその名を知ったのが、北アルプスの山々へ入る第一日であったため、どうしても松虫草と山とを離して考えることが出来ない。千葉の海岸の松林の中にも咲いているが、若しもそれを最初に見たものなら、恐らく僕は「日本アルプスの麓に、千葉の海岸にある花が咲いてやがらア」と感心したことであろう。

 大町から籠川の谷に入るのに、若い稲の水田の間を歩き、大出という部落を過ぎると、雑木まざりの松林に入る。松蝉が嗚き、かけすがギャーギャーいって瑠璃色の羽根を落す。この雑木林に、松虫草が沢山咲いている。

 僕は何回この林をぬけて山へ入ったことだろう。山へ入る第一日のたのしさ。空はあかるく荷は重く、はきなれぬ草鞋は足の底で妙にデコボコする。歩き出して一時間、小さな流れがあって、そこで第一回の休息をする。水は生ぬるいが、その日の晩方には、もう、手を入れるとちぎれそうな雪どけの水が流れる、大沢の小舎に着いているのだ。

 この林に来て、背の高い松虫草を見るたびごとに、僕は「今年も山に来た」としみじみ思うのである。

 ある時、とても暑い八月の一日、もうお昼近くであった。一緒に行った英国人の登山家は、ここの松虫草を見て「君、表面にこまかく露がうき出したグラスに、シャートルーズでつくったカクテルを充たし、その上にこの花を浮かべたらどうだろう」といった。山が好きで、時間をつぶし、銭を費し、精力を消粍して山に入りながら、その第一日の朝から人間は食物、のみ物の話をする。人情、東西相同じとでもいうか。

 新渡戸先生のお伴をして米国へ行った時、ハドソン河上流のトロイという小さな都会に先生の友人がいて、そこのロータリイ・クラブの昼飯に講演をしてほしいと申し出た。先生はウイリアムスタウンにおられたが、自動車でトロイに行かれ、一晩とまってあくる日講演ということになった。

 先生の友人は老婦人で、小さな家に住んでいた。僕は二、三軒はなれた家に泊ったが、翌朝食事のためにその老婦人の家へ行くと、驚いたことに、食卓に松虫草が、花瓶一ぱい盛りあげてある。この松虫草は大きく、而も純白である。

「へー、こんな花があるのか。これは何といいますか」

とたずねると、老婦人は「自分は知らないが、この花をくれた人は園芸が好きで、花の名前ならなんでも知っている。聞いて上げましょう」といって、電話で聞いてくれた返事が「モーニング・ブライド」。

 気持のいい、朝の食事に盛り上げられた花は、まったく「朝の花嫁」のように健康で、美しかった。朝顔が「モーニング・グローリイ」で松虫草が「モーニング・ブライド」。なんと素晴らしい名前だ! だが冗談半分、「これは morning bride ですか、mourning bride ですか」)と聞くと、どっちか分らぬとのこと。どこでもそうだが、別して米国の知識階級の家庭だ、しっかりした辞書が二つや三つあるのに、引きもしなかったが、数年後の今日、辞書を引くと、「Mourning bride ナベナ属の装飾用栽培草木、羽状深裂の葉、通常濃紫色のひらべったい頭の花を持つ」とある。学名は Scabiosa atropurea。これがスタンダード辞典。英和辞典には単に「まつむしそう」とある。大丈夫なんだろうが「僕の植物学」では teazel family(辞典のいわゆる「ナベナ属」)がどんなものか判らないし、念のために大百科辞典というのを引くと Scabiosa japonica Miq. と学名が出ている。間違もなく mourning bride は松虫草なのだ。

 だが、これは一体何という名なのだろう。松虫草のどこに「嘆きの花嫁」の感じがあるのだろう。何か伝説でもあるのだろうか。

 夏の山には、ずいぶん長い間御無沙汰している。籠川(かごかわ)の入口の松虫草も、長いこと見ていない。だが米国から帰って、僕は方々で松虫草を見た。松虫草との因縁は中々につきない。

 楽に日帰りが出来て、割合に面白いところから、僕は小仏峠に何度も行ったが、あすこから尾根をつたって出る景信山の頂上を、東の方へちょっと下ったところに、松虫草がウンと咲いている。はじめてこれを見た時にはうれしかったが、同時に、「なんだ、こんな所にまで咲いていやがる」という気持もした。

 更に前に書いたが、千葉の海岸に咲いているのを見るに至って、僕は松虫草の無節操に憤慨した。もちろん憤慨する方が間違っているんだが、――千葉あたりになると、色はいやに白ちゃけて、ほこりぽく、見るも無残である。「北は北海道から、本州、四国……」云々の花であっても、高地に咲くものほど、色はあざやかである。

 去年の秋、僕は朝鮮を旅行した。新義州まで直行し、引きかえした京城から半島を横断して清津に行ったが、その最後の宿り塲は朱乙温泉であった。朝鮮にいること二週間、何ともいえぬいい天気の連続で、紫外線が強いのかどうか知らぬが、我れながら呆れるほど立派な写真がとれたりした。

 朱乙には早朝着き、その晩の夜行で京城経由帰京する筈だったが、二週間の強行旅行に、さすがにつかれを覚えたので、すすめられるまま、朱乙温泉一泊と腹をきめ、朱乙川でヤマメ釣りをこころみた。古い文句だが、水晶をとかしたような水がほとばしって流れている川の、瀬になった場所を選び、その上方のとろみに、鮭のたまごを餌につけた針を投げ込むと、針は流れて瀬の石を越す。と、あたりがある。僕を案内してくれた人は名人だから、竿を持つ手首のひねり具合で、完全に魚を釣るのだが、こっちはなにぶんかけだしの、釣魚(つり)といえば武州金沢で二、三寸の沙魚をつったことしか無いのだから、手ごたえにあわてて了い、エイッ! とばかり竿を持ちあげる。ヤマメは頭の上で、昼間の三日月みたいに光って背後の河原に落ちる。そこには白砂に小松が生え、九月もなかばを過ぎたのに、松虫草とハマナスが咲いていたが、およそ、こんなにあざやかな色の松虫草は、見たことが無い。やはり紫外線の関係だろう。高山植物の色をしていた。

 今、拙宅の庭の一隅に、松虫草が四本、ヘナヘナしている。過日新宿の夜店で買ったものだ。コヤシをウンとやったら、トロイのみたいに大きな花を咲かすかも知れない。多年生草本だというからには、毎年咲くことだろう。たのしみにしている。(昭和十一年「夏ひとむかし」)

 林の小径、踏みしめて行く一歩一歩に木の葉が落ちる。丸いかつらの葉、細い白樺の葉、それよりも粗末に出来たまかんばの葉。いずれも黄色い。

 この朝、風がまるで無いので、木の葉は、ふんわりと、自分勝手に落ちて来る。或る木の葉は帽子にあたる。別の木の葉は小径に落ちる。また、林の下草をなす、羊歯(しだ)と、つはぶきに似た草と、いろいろな蔓草とにひっかかる葉もある。

 夜中降った雨が、やっと上った所である。白樺の幹は艶々と白く、落葉松の幹は濡れて、ひとしお黒い。こまかい小梨の実の一つ一つには、まだ雨の滴が残っている。

 径は、雨上りでしっとり濡れて……といいたいが、山の雨だ、急な坂だ、ゴロゴロと石が出ている。ガジリ、ガジリ、靴の底に打った鋲が音を立てる。その一歩一歩に、木の葉が散り、その一歩一歩が、重いルックサックと私とを、山から都会へ近づける。もっと地理的に説明すれば、上高地から松本へと、徳本(とくごう)峠を越えつつある私……

 峠の中途で、丸太のベンチに荷物を下して、振り向いた。雲にかくれて山は見えない。見えるものは、明神(みょうじん)岳の裾と、それに続く(あずさ)川の白い河床、白っぽい川柳の木立。疲れ切った私の心は、過去の上高地と、現在の上高地と、近き将来における上高地との三つを、ひたすらに思うのであった。過去といっても一月ばかり前と、十日ばかり前と、将来というのが、さア、今日は八月の三十日、あと一月で十月に入る、すると先ず、やっぱり一月ばかりさきのことになる。

 一月前の上高地には、美しい乙女たちの面影が多い。雨のはれ間を、清水屋の座敷からすぐ前の広場へまろび出た十五、六名は、S女学校の生徒たちである。みんな、さっぱりした、派手な浴衣を着ていた。そこへ、声高く語りながら入って来た二、三人の外国人。男の子ばかりだと思っていたが、一人びしょ濡れの帽子をかなぐり棄て、器用な手つきで思い切り短くボッブした頭髪をかき上げた。山で見たからばかりでない、本当に美しい少女であった。

 十日ばかり前の上高地にいた私は、焦躁と混乱とに、旅舎五千尺の帳場をウロウロした私である。高貴なお方の御登山を報道すべく特派された私である。東京から、大阪から、大町から、集って来た社の関係者が六人、臨時に委嘱した人が一人、仕方がない、一緒にお出でなさいで連れて行った社外の人が一人、これ等八人に対する案内と人夫とが十七人、通信用として上高地から出す予定になっていた人夫が五、六名……合計三十名を越える人達の、防寒具、食料、草鞋。(から)沢へは誰々が先発する、人夫が何人ついて行く、米は何斗持って行く。飛脚が何人帰って来る、何時頃五千尺に着く、島々からはもう電車が無い、自動車に乗って行け。松本から電話がかかって来た、誰か清水屋へ聞きに行ってくれ。……殿下が帰ってこられた、障子をしめろ。写真を持って行かせろ。いや、S君のも一緒に送ろう、S君はどこへ行ってしまったんだ。「石川さん、今風呂で聞いたんですが、あしたA社の人は西穂高(にしほだか)へ行くそうです。」「だってNとKとを連れて行かれたら、あとがこまる。」「火事場へ飛び込むようなもんだ。」……コッヘルを忘れるなよ。薪は小舎へ行って貰えばいい。米袋に穴が明いていた……

 で、とにかく、それから十日たって、御登山は終えた。上高地は現在の上高地になる。昨日の昼すぎ、飛騨(ひだ)から中尾(なかお)峠を越して入った上高地は、泣きたくなるくらい静かであった。帰るべき人は帰り、帰すべき人夫は帰した後の我々は、山の友人M君と、私が愛し且つ信頼している老案内勝野玉作と私との三人きりであった。清水屋もガランとしていた。五千尺もガランとしていた。そのガランとした五千尺の帳場に尊く見えるほど蒼白なMさんの顔を見出した時、「Mさん、帰って来ました」といった私の語尾は、我ながらいやになるくらい震えていた。あの焦躁と混乱との十日前にくらべて、これはまた何と静かな、秋の上高地なのであろう。疲れ切った私の神経には、堪え得ぬ程の静けさである。山の秋である。白樺の幹に抱きついて大声をあげて泣くか、明神池の藻の花の間に顔をつっこんで絶息する迄じっとしているか……三十を越して、二人の子供まである私は、子供が母に甘えるように秋の山に甘えたのである。山の秋に。

 木の葉が散る。落葉は日ましに数を増すであろう。時雨。ななかまどの紅に、落葉松の黄金。一月はたたぬ内に、山には雪が来るであろう。そして、誰もいなくなる上高地……

 山の旅を終えて、所謂下界に下りる時、人は誰でもある種のエクザルテーションを感じる。北アルプス登山口の一つなる大町に、多くの夏を送った私は、よくこれを知っている。また私自身、そのような経験を持っている。だがこの日、私はただ憂鬱であった。

 峠を登り切る。下りにかかる。岩魚(いわな)()メ、島々(しまじま)、松本……この辺の路、掌に地図を持っているようにくわしい。その地図に、赤い鉛筆で記号を書き入れるように、私は私自身の感情の動きを予知した。松本通信部で新聞を見る。きっと違ったことが書いてある。A社はきっと西穂高行きを大きく書いている。大町へ行って天幕を返し、人夫賃を払う。あすこには親しい山の友達が二、三人待っていてくれる筈だ。せめて一日はゆっくりしよう。だが、それから大阪。旅費の精算、いくらやっても間違う計算。ルーティン・ワーク。毎日きまった時間に出勤して、きまり切った顔を見て、きまり切った判を、同じような原稿に押して……

 私はのび上って、梓川の岸に咲く松虫草を見ようとした。もちろん見えはしない。私は目をつぶって、槍の肩に咲く千島桔梗の花を思った。朝風にそよいでいる。また深山龍胆(みやまりんどう)は、小さなベルを鳴らし、つがざくらは私のためにクッションになるとて腰をかがめ、すべて秋の山は私を呼ぶのである。

 Komm' her zu mir, Geselle, hier find'st du deine Ruh'!

 このままに五千尺へ帰ろうか。登山具はすべて持っている。常になく、ザイルさえも持って来ている。せめて二、三日は、一週間は、十日は……

 ふと私は足がかりも、手がかりもない人生の岩壁に、私という弱い、細い、いつどこでスナップするか判らぬザイルを、ライフ・ラインとしてぶら下っている三つの命を思い浮べた。ほうり出されたら小学校の先生になる資格さえも持たぬ妻、朝も晩も、目をさましている間は、私が家にいる間は、私にまとわりついて離れぬ三つになる女の子、半月前、旅に出る頃から、ようやく腹ンばいになって、両手の力で顔をあげるようになった男の子――

「玉さん、出かけよう。もうすぐだ」

 私は急な坂を、一目散に、徳本峠の頂上まで、息もつかずに登った。折から降って来た雨に、臍まで濡れながら一と休みもしないで、島々へ。走って来た乗合自動車に荷物ごところげ込んで島々駅へ。雨のあがった松本へ。ラジオのジャズが往来へ流れる松本へ。クリンケルが三つ四つふっ飛んだ私の登山靴は、重いルックサックと、五尺八寸五分の私とをのせたまま、ジャズに合せて妙なステップを踏んでいた。

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